第11話 「過去の足音と、今ここにある筆 (前編)」
宮沢詩織が努力の迷路から抜け出し、生き生きとした表情を取り戻したことで、2年B組は期末テストも無事に(?)乗り越え、夏休みを目前にした解放感と期待感に包まれていた。
進路に関する話題もちらほらと聞かれるようになり、生徒たちはそれぞれの未来に思いを馳せ始めている。
しかし、そんな浮き足立つような雰囲気の中で、一人だけ、重たい影を背負ったようにうつむいている生徒がいた。
影山瑠璃。
美術部に所属し、繊細で独創的な画風は部内でも評価が高いが、本人は極端に自己評価が低く、いつも物静かで感情を表に出すことが少ない。
夏休み中の美術部の大きなコンクールへの出品や、少しずつ具体化してくる進路選択に対しても、彼女はひどく消極的だった。
「影山さん、夏休みのコンクールの作品テーマ、何か考えてるの?」
昼休み、凛が声をかけると、影山はびくりと肩を揺らし、小さな声で「…まだ、何も」とだけ答えた。
その目は伏せられ、長い前髪が表情を隠している。
「そう…もし何か悩んでることがあったら、いつでも相談してね」
凛はそう言うのが精一杯だった。
影山が、何か見えない壁に心を閉ざしているのは明らかだったが、その壁の奥に踏み込む術を凛は持っていなかった。
影山は、中学時代に経験したある出来事を、今も鮮明な痛みとして引きずっていた。
それは、県下でも大きな美術コンクールでのこと。
自信作で臨んだものの結果は惨敗、さらに信頼していた友人の一人から、自分の作品を酷評されるという辛い経験をしたのだ。
「才能ないんじゃない?」
「無駄な努力だったね」。
その言葉が、まるで呪いのように彼女の心にこびりつき、新しい絵筆を握るたびに、過去の失敗の記憶がフラッシュバックして指を震わせた。
「また失敗したらどうしよう」
「私には、描く資格なんてないのかもしれない」。
そんな思いが、彼女から創作への情熱も、未来への希望も奪い去ろうとしていた。
道真も、影山のその深く沈んだ様子には気づいていた。
彼女が過去の出来事に心を囚われ、まるで足枷をはめられたように動けなくなっていることを見抜いていた。
しかし、真は無理に彼女の過去に踏み込もうとはしなかった。
安易な励ましが、かえって彼女を傷つける可能性も知っていたからだ。
夏休み前、美術部では校内での小さな作品展の準備が進められていた。
影山も、顧問の教師に促され、古い作品を一点だけ、渋々ながら出品することになった。
作品のキャプションを書くために、放課後の美術室で一人、自分の絵と向き合っている影山の姿があった。
その絵は、中学時代に描いたもので、彼女の才能の片鱗を感じさせる美しい風景画だったが、どこか未完成のような、作者の迷いが漂っているような印象も受けた。
そこに、ひょっこりと真が現れた。
手には、なぜか校庭で摘んできたらしい一輪のタンポポを持っている。
「よお、影山。いい絵じゃん、それ。なんか、見てると心がスーッとするな」
真は、影山の絵の前に立つと、素直な感想を口にした。
影山は驚いて顔を上げたが、何も言えずに俯いてしまう。
「なあ影山」真は、手に持っていたタンポポを窓辺に飾りながら、穏やかな声で言った。
「人間ってさ、タイムマシン持ってねえから、過去に戻って失敗をやり直すことも、未来に飛んで結果を先に見ることもできねえだろ? 俺たちが持ってるのは、いつだって『今、この瞬間』だけなんだよな」
影山の肩が、小さく震えた。
「このタンポポもさ、昨日どんな天気だったかなんて気にしてねえし、明日雨が降るかどうかなんて心配もしてねえ。ただ、『今』、ここで太陽の光を浴びて、精一杯咲いてるだけだ」
真は、影山の隣にそっと腰を下ろすと、彼女の絵に再び目を向けた。
「絵を描いてる時って、不思議と無心になれるだろ? あれってさ、頭でゴチャゴチャ考えるんじゃなくて、心が『今』の色とか、形とか、光と影のダンスに、ただただ集中してるからじゃねえかな」
影山は、真の言葉を黙って聞いていた。
彼女の心の中で、固く閉ざされていた何かが、ほんの少しだけ軋む音がしたような気がした。
「過去の失敗ってのはさ、確かに痛いし、忘れられねえかもしれねえ。でもな、それはお前を縛るための足枷じゃなくて、次にどんな絵を描くか、どこへジャンプするかを決めるための、大事な踏み台なんだぜ。その踏み台、ずっと下向いて眺めてても、新しい景色は見えてこねえよ」
真の言葉は、優しく、しかし的確に影山の心の核心に触れていた。
「未来が不安なのは、当たり前だ。だって、まだ何も描かれてない、真っ白なキャンバスみたいなもんなんだから。そこにどんな色を乗せて、どんな物語を描くかは、他の誰でもない、『今』のあんた次第なんだぜ」
真は立ち上がると、窓辺のタンポポにそっと指で触れた。
「たまにはさ、風の音とか、葉っぱの揺れる音とか、普段は気にも留めないような、そういう『今、ここにあるもの』に、ちょっとだけ耳を澄ませてみたり、目を凝らしてみたりするといい。世界が、昨日とは少しだけ違って見えるかもしれねえからな」
真はそれだけ言うと、静かに美術室を出て行った。
一人残された影山は、窓辺で健気に咲くタンポポと、目の前にある自分の古い絵を、ただじっと見つめていた。
真の言葉が、まるで水面に落ちた雫のように、彼女の心にゆっくりと広がっていく。
過去の記憶は、まだ生々しい痛みを伴って彼女を襲う。
未来への不安も、そう簡単には消えないだろう。
しかし、「今、この瞬間」という言葉が、彼女の中で今までとは違う意味を持ち始めていた。
それは、凍てついていた心に差し込んだ、一筋の温かい光のように感じられた。