第10話 「迷子の努力とコンパスの針 (後編)」
道真の言葉は、宮沢詩織の心に深く、そして静かに染み込んでいった。
その夜、彼女はいつものように深夜まで参考書を広げようとする手を止め、代わりにベッドに横たわった。
不安でなかなか寝付けなかったが、それでも無理に机に向かうことはしなかった。
「頑張らない勇気…一休みする賢さ…」
真の言葉が、まるで子守唄のように頭の中で繰り返される。
翌日から、宮沢は自分の行動を少しずつ変え始めた。
まず、睡眠時間を確保することを最優先にした。
そして、がむしゃらに練習時間を増やすのではなく、一回一回の練習の「質」を意識するようにした。
基礎練習に時間をかけ、自分の音を丁寧に聴き、課題点を一つ一つ潰していく。
勉強も、長時間だらだらと続けるのではなく、集中する時間と休憩時間を明確に区切った。
最初は戸惑い、なかなか成果が見えずに焦ることもあったが、それでも彼女は真の言葉を信じて、新しいやり方を模索し続けた。
そんな宮沢の変化に、橘凛はすぐに気づいた。
「宮沢さん、最近、少し肩の力が抜けたみたいに見えるけど、何かあったの?」
ある日の昼休み、凛が声をかけると、宮沢は少し照れたように微笑んだ。
「うん…道君に、ちょっとね。努力の仕方について、色々言われて…今まで、私、ただ時間をかければいいって、それだけしか考えてなかったみたい」
宮沢がぽつりぽつりと自分の気持ちを話し始めると、凛は静かに頷きながら耳を傾けた。
「私もね、テスト前とか、つい無理して夜中まで勉強しちゃうことあるけど…道君の言うこと、何となく分かる気がする。頑張るって、自分を追い詰めることじゃないものね」
凛の共感の言葉は、宮沢の心を温かく包み込んだ。
一人で抱え込んでいた重荷が、少しだけ軽くなった気がした。
吹奏楽部の練習中、宮沢があるフレーズでどうしても上手く吹けず、何度も同じ箇所でつまずいていた。
焦りから、どんどん力が入ってしまい、音は硬くなるばかりだ。
そんな時、部室の隅で暇そうにパーカッションのスティックを回していた真が、ひょいと宮沢のそばにやってきた。
「よお、宮沢。ちょっとその楽譜、見せてみろよ」
真は宮沢の手から楽譜を受け取ると、問題の箇所を指さした。
「ここのフレーズ、なんか力みすぎじゃねえか? もっとさ、息の流れをスムーズにして、楽器全体を豊かに鳴らすようなイメージで吹いてみたらどうだ? 俺のじっちゃんが言ってたんだけどな、笛ってのは体全体で歌うもんなんだとさ。喉先だけで歌おうとすると、苦しいだけだろ?」
真の言葉は、技術的な指摘というよりは、むしろ音楽との向き合い方そのものを示唆しているようだった。
宮沢はハッとして、もう一度フルートを構え、真に言われた通り、体全体で呼吸し、音を遠くに飛ばすようなイメージで吹いてみた。
すると、今までとは明らかに違う、柔らかく、伸びやかな音色が音楽室に響いた。
「あ…」
宮沢自身が、その変化に一番驚いていた。
真はニヤリと笑うと、「勉強も一緒だぜ。苦手な科目はさ、いきなりラスボスに挑もうとしないで、まずは手近なスライムレベルの基本問題から確実にクリアしていくのがコツだ。小さな『できた!』っていう達成感が、次のステージに進むための最高のモチベーションになるからな」と言い残し、またパーカッションのところへ戻っていった。
真のアドバイスを胸に、宮沢は練習と勉強に取り組んだ。
基礎に立ち返り、一つ一つの課題を丁寧にクリアしていく。
すると、不思議なことに、以前よりも短い時間で理解が深まったり、技術が向上したりするのを感じるようになった。
何よりも、心に余裕が生まれたことで、練習や勉強そのものを楽しめるようになっていたのだ。
フルートの音色には深みと輝きが増し、顧問の先生からも「宮沢、最近すごく音が良くなったな。何か掴んだか?」と声をかけられるまでになった。
期末テストの結果が返ってきた日、宮沢は自分の点数を見て小さく息をのんだ。
それは、自己ベストに近い、素晴らしい成績だった。
そして数日後、夏の吹奏楽コンクールのメンバー発表があり、宮沢の名前は、フルートパートのソロを任される位置に書かれていた。
「やった…!」
宮沢の目から、喜びの涙が溢れた。
それは、単に結果が出たことへの喜びだけではなかった。
自分の力で壁を乗り越え、新しい自分を発見できたことへの、深い感動があった。
放課後、宮沢は真のところへ駆け寄った。
「道君、本当にありがとう! あなたの言葉のおかげで、私、目が覚めたみたい。頑張るって、苦しいことばっかりじゃなかったんだね…」
心からの感謝を伝える宮沢に、真はいつものように照れ臭そうに頭を掻いた。
「よせやい、俺は別に何もしてねえって。お前さんが、自分でコンパスの針を正しい方角に合わせただけだろ」
その言葉は、宮沢の心に温かく響いた。
宮沢の晴れやかな笑顔は、クラス全体にも明るい光を投げかけた。
彼女の努力のあり方が変わったことは、他の生徒たちにとっても、自分たちの目標への取り組み方を見直す良いきっかけとなったようだった。
凛は、そんなクラスの雰囲気と宮沢の笑顔を見て、心からの安堵を覚えるとともに、真の持つ不思議な力とその根底にある「じっちゃんの知恵」への尊敬の念を、また一段と深めるのだった。
夏休みが近づき、生徒たちの心は少しずつ開放的になっていく。
しかしその一方で、進路のこと、将来のことについて、漠然とした不安や焦りを抱え始める者も少なくなかった。
特に、過去の失敗をいつまでも引きずってしまったり、まだ来ぬ未来を悲観的に考えすぎて、今この瞬間を楽しめないでいる生徒の姿が、凛の目には映り始めていた。
それは、次なる「心のカギ」が、静かにその出番を待っているかのようだった。