第1話 「色メガネをはずしたら? (前編)」
「カラスってさー、なんで黒いか知ってる? 汚れないためじゃねーんだぜ? 目立たないようにするためでもねー。あれはな…そう、黒いからカラスなんだよ!」
新学期が始まってまだ空気も真新しい、4月の昼休み。
高校2年B組の教室の真ん中で、道真は得意満面に、しかし中身があるのかないのかさっぱり分からない持論を展開していた。
周りには数人の男子生徒が、呆れ半分、面白半分といった顔で取り囲んでいる。
「いや、道、それトートロジーってやつだろ」
「だから、カラスはなぜ黒いのか、って聞いてんの!」
ツッコミもどこ吹く風。
「ま、そういう深遠なナゾを解き明かすのが、俺のライフワークってわけよ」
真はケラケラと笑い、大げさなジェスチャーで話を締めくくった。
そんな道真の姿を、教室の少し離れた席から冷めた目で見つめている女子生徒がいた。
橘凛。
風紀委員と学級委員を兼任する彼女にとって、真の存在は規律を乱すノイズでしかない。
(また道君が騒いでるわ…もう少し、場の空気を読んで静かにできないのかしら)
凛は小さくため息をつき、読んでいた文庫本に視線を戻した。
真面目で実直な彼女は、真のおちゃらけた態度や、時折見せる不真面目さがどうしても許容できなかった。
その日の放課後。
日直の仕事を終えた凛が教室を出ようとすると、机に突っ伏して肩を震わせているクラスメイトの佐藤恵の姿が目に入った。
いつもは明るい恵にしては珍しい。
「佐藤さん、どうしたの?具合でも悪いの?」
凛が声をかけると、恵はゆっくりと顔を上げた。
目は少し赤く、無理に笑顔を作ろうとしているのが痛々しい。
「ううん、橘さん…なんでもないの。ちょっと、考え事してただけだから」
そうは言うものの、その表情は明らかに「なんでもない」という状態ではなかった。
「よかったら、話聞くよ? 私で力になれることがあれば…」
凛の優しい言葉に、恵は少し迷った後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あのね…最近、親友の早紀(鈴木早紀)が、なんだか私を避けてる気がするの」
早紀とは、中学からの親友で、高校も同じクラス。
いつも一緒にいたはずなのに、ここ数日、妙によそよそしいのだという。
「昨日も、廊下で会ったのに、目が合ったらすぐに逸らされちゃって…。話しかけようとしたんだけど、なんだかタイミングが合わなくて」
恵の声は震えている。
「それに、早紀のSNSの投稿も…なんていうか、私のこと言ってるのかなって思うような内容で…。『信じてたのに』とか、『もう疲れた』とか…」
俯く恵の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「私、何か早紀を怒らせるようなこと、しちゃったのかな…でも、全然心当たりがなくて…。どうしよう、橘さん…」
すっかりネガティブな思考の渦に巻き込まれている恵に、凛はかける言葉を選んだ。
「そんなことないと思うけど…。早紀さん、何か誤解してるだけかもしれないし。一度、ちゃんと話してみたらどうかな?」
「で、でも…もし本当に嫌われてたらって思うと、怖くて…」
恵はまた俯いてしまう。凛も、それ以上どう励ませばいいのか、言葉に詰まった。
その時だった。
「おーっと、そこにいるのは悩める乙女たちかー? 人生経験豊富(自称だけどな!)なこの俺、道真様が、ひと肌脱いでやろうじゃねーか!」
掃除当番をサボって帰ろうとしていたのか、カバンを肩にかけた真が、ひょっこりと教室に顔を出した。
相変わらずの軽薄な口調に、凛は眉をひそめる。
「道君! あなたには関係ないでしょ! 真面目な話をしてるんだから、邪魔しないでくれる?」
凛がいつものように噛みつくと、真は「おっと、ご指名じゃなかったか、失礼」とわざとらしく肩をすくめた。
しかし、すぐに恵の泣きそうな顔に気づくと、ふざけた表情をほんの少しだけ緩めた。
「ま、そうカリカリすんなよ、委員長。で、佐藤さん? どしたの、何かあった?」
意外にも、真は恵の隣の席にどかっと腰を下ろし、話を聞く体勢になった。
凛は「この人に話したって、どうせ茶化されるだけよ」と内心で毒づいたが、恵は藁にもすがる思いだったのかもしれない。
先ほど凛に話した内容を、途切れ途切れに真にも話し始めた。
真は、いつものヘラヘラした笑顔を浮かべてはいるものの、時折恵の目を見つめ、黙って頷きながら聞いている。
その姿は、普段のお調子者ぶりからは少しだけかけ離れて見えた。
一通り話し終えた恵が、再び俯いて黙り込むと、真は数秒の間、何か考えるように天井を見上げていた。
そして、不意に恵に向き直ると、こう言った。
「ねえ、佐藤さん」
その声は、いつものふざけたトーンとは少しだけ違って、妙に落ち着いていた。
「その鈴木さんのSNSってやつ、本当に佐藤さんに向けたものだって、本人に確認した? 目が合ったのに逸らされたってのも、佐藤さんがそう『見えた』だけ、って可能性は考えた?」
恵はキョトンとした顔で真を見上げる。
凛も、真の言葉の意図が掴めず、訝しげな表情を浮かべた。
真はニッと笑うと、いつものお調子者な口調に戻って続けた。
「ま、だいたい悩みってのはさ、自分で勝手にいろんな色つけて見てるだけだったりするんだよねー。いわゆる『思い込みフィルター』ってやつ? 青いメガネかけたら世界が青く見えるみたいにさ。一度、その色メガネ、外してみたらどうよ?」
「色メガネ…?」恵が小さく呟く。
「そうそう。自分の心が『きっとこうだ』って決めつけちゃうと、相手の何気ない行動も、全部そう見えちゃうもんだろ? 実際はどうかなんて、本人に聞いてみなきゃ分かんないってことよ」
真はそう言うと、ポンと恵の肩を軽く叩き、「じゃ、俺、帰るわ! 宿題とかいう人生の試練が待ってるんでね!」と、あっという間に教室から出て行ってしまった。
嵐のように現れて、嵐のように去っていった真。
残された教室には、呆然とする恵と、何とも言えない表情の凛がいた。
(また適当なこと言って…でも…)
凛は、真の言葉が妙に心に引っかかるのを感じていた。
ふざけているようで、どこか物事の核心を突いているような、不思議な響き。
恵は、真の言葉を反芻するように、じっと何かを考え込んでいるようだった。
彼女の心に、小さな波紋が生まれたのは確かだった。
果たして、恵はその「色メガネ」を外すことができるのだろうか。