1 人間に捕まった
夏です。
山々が幾つも重なって、深い森を作っています。
その深く息を吸いたくなるような緑の中で、崖の下に一つの池がありました。
その池は、特別です。
池の中には沢山の影がうごめいています。鯉です。この鯉達が特別なのです。
その池には崖から滝の水が音を立てて落ちています。
鯉達は、この滝を泳いで登りきることができると、滝から空に飛び出して竜に変化します。そしてそのまま上へ上へと飛んでいきます。
この池は、竜になる鯉が住む池なのです。
今、この池に一匹の鯉がいます。体は灰色で額に昔のお公家さんの眉毛のような丸がうっすらと見えるので、この鯉を麿と呼ぶことにします。
麿は、今まで何匹もの鯉が滝を登って行き、滝の上で竜になって飛んで行くのを見てきました。
麿は、他の鯉達より少し体が小さいです。しかし、何回か滝を登ろうと滝の下にやって来ました。
下から上を見上げると水が引き裂かれ水玉になって落ちてきます。それを見る度に体が縮こまって動けなくなるのでした。そして、滝を登るのを諦めるのでした。
池の滝と反対側には川があります。その川は、山の下のほうへと延びていました。
麿は、この川の先には何が有るのかと興味津々でした。そして、滝に登るのを失敗する度にこの川を、下って行きたいと思っていました。
物知りの年上の鯉に、この川の先には何があるのか尋ねたことがありました。
録でもない、と言われました。
何か、吐き捨てるように言われて、行ってはいけないとこなんだと思いました。
だけど、麿はいったい何があるのだろうと、よけい見たくなりました。
ある時、また滝に登るのを失敗しました。そして池から出たくてこの川に入りました。少しだけ、そこまで行ったらすぐ帰ってきたらいいやと思って、入りました。
それが間違いでした。
川を下って行くと何時もと違う、初めて見る景色に目を奪われました。嫌なことも忘れてワクワクしたのです。
見た事もない大きな岩が川の中に落ちていたり、きれいな花を川岸の木が咲かせていたりしています。
水面に浮かぶ赤い実を食べようと水から頭を出して口をパクパクしていましたが、思い通りに口にはいらず、赤い実を追いかけて川をどんどん下っていきました。
はっとして戻らないとと思って上流側に頭を向けました。
しかし、気持ちに反して体は川下へと吸い込まれます。なかなか流れに逆らって上がることができませんでした。流れが急になっていたのです。
麿は焦りました、そして急に川が無くなったと思ったら、自分の体が落ちていきます。
気が付くと下に落ちていました。滝に飲まれて落ちたのでした。
高い所から急に落ちたので体に力が入りません。
川は浅く、流れが緩やかになったのでヘロヘロになりながら川の流れにのって泳いでいたら、川の中に棒が立っていたので、一休みしようとそれに頭を付けて休みました。
すると何かが尾びれの元をつかんで一気に水から引き上げられました。
「鯉だ」
人間の男が麿を水から掴み上げたのです。
棒だと思ったのは人間の脚でした。
「おーい、軽トラから発泡スチロールの箱を持って来てくれ。なんかどんくさい鯉を捕まえたぞ」
男が川のすぐ上にある山道で、タバコを吸っている別の男に大きな声を掛けました。
男達は、作業服に帽子を被っています。山菜を採りに山道に入ってきて、川に足を浸けて涼んでいるところでした。
「少し小振りだが、あらいにして食べたら旨そうだな」
そう言ってもう一人の男は発泡スチロールの箱に水を入れます。
麿は何が起こっているのか分からず、パニックになって体をくねらせて男の手から抜け出そうとします。
しかし、男の腕の力は強く、脱け出すことはできません。
そうして発泡スチロールの白い箱に放り込まれました。
男達は軽トラの荷台に、麿の入った発泡スチロールの箱を積んで、山道をおりていきました。
麿は、運悪く人間に捕まってしまいました。ほぼ自分の体でいっぱいになる箱の中で、もがきます。
何故こんな狭い場所に閉じ込められてるのか、ここから何とか出たいと、のたうちまわっていました。
しかし、どうすることもできず、やがて動くのを止めました。
麿は四角い空を見上げて、こんなことなら池から出なければよかったと思うのでした。