第8話 ニウ
厚い雲に覆われた太陽は、ゆっくりと西の空に傾き始めた。森は曇り空のせいか行きよりも薄暗くなっていた。
村への帰り道、ニウは一人で森を歩きながら考えていた。
ミレイか……。普通の子だったな。
思いのほか話が弾み、随分と長居をしてしまった。
家に帰ったら両親からもミレイの事を聞かれるだろう、と予想はつく。村人のミレイに対する印象はまだ「怪しい余所者」だ。ただニウの印象は村のみんなと少し違っていた。
あの日ミレイが現れた湖は「南の龍湖」と呼ばれ、はるか昔、水龍さまが顕現された湖の一つとされている。
湖は常に穏やかで、昔は水龍さまを慕う妖精や精霊達も現れたと言われている神聖な湖だ。今でも湖の周りでは森の動物達も争いを起こさない。獰猛な肉食獣とウサギが同じ湖の水を飲む不思議な光景が見られるのだ。
ニウ達の祖先も故郷を追われた先でこの湖と出会い、森の出口に村を作った。
作物も良く実り、害獣被害もない。村人達は水龍さまの恩恵に感謝し、祠を建てて崇めてきた。水龍さまは守り神なのだ。祠は湖のほとりにあり、村の男達で代わる代わる掃除をして清めている。
──あの日はニウの当番の日だった。
慣れた手付きで祠を掃除していたら、急に背後の湖面が渦をまいた。緩やかに、でも渦はどんどん大きくなっていき、ニウは初めて見る光景に恐怖を感じた。次第に渦の中心から光を纏った人間が現れたのだ。
それは、神々しくて綺麗な光景だった。
水が自由に動き、湖面を滑るように、ゆっくりと湖のほとりに体が降りた。渦がなくなったのを見て、ニウは慌てて駆け寄った。──よく見ると、人間の女のように思えた。
口の上に手をかざすと息をしているのはわかったが、意識はなく、ニウは尋常ではない出来事に村に報せに走ったのだ。
俺も焦っていたんだろうな……。
ニウは村に戻り「湖に真っ黒い女が現れた」と大声で言ったのだ。それを聞いた村の男達はすぐに湖に向かった。男達が武器を持ち出したのを見て、ニウは言い方が悪かったのに気づいたが、すでに遅く、仕方なく村長だけにミレイが現れた時の様子を話したのだ。
「あれはどういう意味だったんだろう」
ミレイが現れた時の現象を思い出して呟いてみても、ニウには解らなかった。村長である祖父とリリスは何か思い当たっているようだ。
「じいちゃんも教えてくれてもいいのに、ばあちゃんに協力しろ、としか言わないし……」
──先日、リリスに伴われて村に来たミレイと村人達の様子を思い出す。
遠目で見る者、家の中に入る者、村長との話合いに聞き耳を立てる者、いろいろだった。
「まぁ。いきなり湖のほとりに現れただけでも怪しいのに、真っ黒な髪と目だもんなぁ。俺も悪いけど、あれは仕方ないだろ〜」
ニウは多少の罪悪感と「子供」と言う認識から大声で「無害らしい」と口添えしたのだ。
それも村長である祖父とリリスが認めたからと言うだけで、確証は無かった。だから今日も様子を見るつもりで、警戒してリリスの家に向かったのだ。
でも普通の子だったな。
飯も美味かったし……。
ニウはゆっくり歩きながら、食事中の会話を思い出していた。
「まさか山羊を見たことが無いとか。しかも年寄り扱いだし……」
笑いを噛みしめてみるが、静まった森にニウの独り言が良く響き渡っていた。
チーズの作り方を聞いた時、ミレイが「あの山羊はお年寄りなのにミルクがたっぷり出ますよね」と言い出したのだ。それを聞いたリリスとニウは、顔を見合わせ、思わず笑ったのだ。
髭があるのは個体種による物で、年寄りなわけじゃない……と、教えてあげたら顔を真っ赤にして俯いていた。
おまけにリリスの話によると、家に着いた次の日に庭の山羊を見て……。
「この動物、山羊みたいですね」
「山羊だからね」
「…………そうですか」
「……ああ」
なんて会話をしたらしい。
あのリリスが「あの時は少し気まずかった」と言うのだから、その場の空気はなかなかだったのだろう。
「やっぱりニブいのか、のんびり屋なのか。まぁ面白いよなぁ〜。それに意外と……」
ニウは先程の薄緑色のワンピースを着たミレイを思い出していた。
黒髪はよく見るとツヤツヤしていて綺麗だし、顔だって大きな目が印象的で可愛い顔をしている。笑った顔も良かった。
背が低いから最初は子供に見えたんだよな。
リリスのダボダボの服を着ていた時は気付かなかったが、サイズに合った服を着たら、ミレイはしっかりと大人の女性だった。しかも、かなりスタイルが良いものだから落ち着かなかった。
「あれは反則だろ〜」
チラっと見たつもりだったが、自分の脳は意外にもしっかりと記憶していた。華奢な手足に白い肌。胸だって……。ニウは立ち止まると額を木に押し付け、寄りかかる。……顔が熱くなってきた。
年は25って言ってたな。背も小さいし、童顔だし、年上だとは思わなかったな〜。
「年下の男はダメかな……」ふと呟いた一言に、自分で驚き、更に顔が熱くなった。
何を言ってんだ俺は!
しかもチョロすぎだろ!
リリスの家に向かう時は警戒していたのだから、失笑ものである。慌てて木から顔を離して周囲を見渡すが、誰もいない。
いないと解ってはいても、恥ずかしい独り言に確認せずにはいられなかった。
「はあ〜……」
顔の熱を冷ましたくてブルブルと頭を振った。
再び歩き出すが、その思考を占めるのはやはりミレイのことだった。
ミレイは服をくれた人達にお礼がしたいと言っていたから、また村に来るだろう。
その時は俺も立ち合おう。俺だって周りに声を掛けたんだから、一緒にいても不自然じゃないはずだ!
ニウは自分自身によく解らない言い訳をして、歩き進めると森の出口が見えてきた。
もうすぐ夕暮れだ。
背後の森はあと数刻で暗闇に沈むだろう。昼の穏やかさは身を隠し、夜の動物達の狩りの場となる。ニウは一度振り返り、リリスの家の方を見て森を後にした。
夜の森は男でも入らない。