第85話 本当の名前
みんな遅いな……。
忙しいのかな……。
今まで見たこともないくらい広い部屋で、ミレイは一人ソファーの上で佇んでいた。
クウが選んでくれた客室は上品でとても豪華で……豪華すぎて、無闇に触ることも憚れる。
こっちは大量生産の家具が主流の現代っ子なんだよ〜。こんな……見て惚れぼれ、触れて感動するような家具は美術館でしか知らないよ。
シルクの夜着の上からガウンを羽織り、大きな窓を開けてバルコニーに出る。途端にヒューーっと夜の風が頬に触れ、ガウンの薄い生地を通して爽やかな夜風が体全体を包み込んできた。
かすかに水の匂いがする。
それに少し肌寒いかも……。
それでも一人で広い部屋にいるのは飽きてしまい、手摺に寄りかかって遠くを眺めると、街の灯りが建物を仄かに照らしていた。そろそろ月も高くなってきた頃なのに、まだ街の灯りが消える様子はなく、龍族の人々の日常を垣間見れた気がした。
コンコン
「はい!」
不意のノックに慌てて室内に戻ると、扉の向こうからクウとサンボウが現れた。
「クウ、サンボウ! おかえり。
……あっ。おかえりじゃないね。つい……」
満面の笑みで二人を招き入れると、クウとサンボウも照れくさそうに『ただいま』と返してくれた。
『ほう、立派な客室だな。さすがクウだ』
『こういう時こそ近侍頭としての権力を使わないとね』
良い仕事をしたとばかりに、胸を張る。
「嬉しいよ。嬉しいけどね。でも豪華すぎるよ〜。リリスさんの部屋とのギャップがありすぎると思わない?」
お茶を淹れながら、冗談っぽくこぼすとサンボウは『たしかに』と、糸目を更に細くして笑った。クウが持参してくれたお菓子を皿に盛り、夜のお茶会が始まった。
楽しそうに笑い合う会話。
でも正直、二人の容姿にまだ馴れない。
声が違うし面影が少ない。そもそもおじいちゃんじゃないし……。でも全く無い訳じゃない。
会話の中から妖精だった頃のみんなを拾い集めるように『私が知ってる妖精達』探していく。
クウの口調はあえてそのままなのかな……?
それとも元から? でも慣れるまでは、このままなら嬉しいな。
笑顔の後ろの僅かな寂しさを、決して悟られないように……。
コンコン ガチャ
『姫!』
笑顔で現れたのはロスだった。
『ロス! 返事があってから開けるものなの。
レディの部屋なら尚更なの!』
『……あ〜。そういえばそんなマナーもあったな。
まあ、久しぶりで慣れてないんだから許してくれよ』
そう言って豪快に笑うロスの言葉に、ミレイはキョトンとする。
「…………慣れてないの?」
『うん? 当たり前だろう。何百年と小さいままで自由に過ごしてきたんだぞ。それがいきなりマナーや規律と言われても対応できるわけないだろう』
『いや、騎士団長なら対応してくれ』
『まぁ〜。ぼちぼちな』
苦言を呈するサンボウにロスは変わらすハハッーーと笑う。するとクウがやれやれと苦笑いをしながら頭を振る。
プッ……ププ………
『『 ひめ?』』
いきなり笑い出したミレイに三人はオロオロし始めた。
あっ、これも知ってる。
いつも私を気遣ってくれたみんなだ。
「あーー。いきなりごめんね。急に笑いたくなって」
『……とうとう気が触れたか?』
真顔のロスに「とうとうってどう言う意味よ」と小突いて、問いただす。
うん、大丈夫。……大丈夫な気がする。
適応しようとしてるのは私だけじゃない。
「これからもこんな風にお茶してくれる?」
『当たり前だろ? 自分は来るなと言っても来るぞ』
『そこは少しは遠慮するのじゃ!……いや遠慮しろ!』
『何で言い直したんだ?』
『いや。部下に示しがつかなくてな……』
「でも私、サンボウの話し方、好きよ」
ミレイの何気ないひと言にサンボウは『そうか? それなら姫の前では変わらぬ話し方でいこうかの』と、頬を赤らめてそっぽを向いた。
「──そう言えば呼び方どうしよう。変えた方がいいよね? たしかヤンにバートン、……レミスだったよね?」
ミレイの言葉に三人が顔を見合わせた。
『いや、今のままでいいぞ』
「でも……」
『姫から貰った名前も大事なの。だからこのままクウって呼んで』
『このメンツでいる時だけでもいいし、たとえ他の者に聞かれたとしても愛称だと言えば問題ない。どうじゃ?』
「大丈夫なら私も今のままがいいな」
『決まりだな』
『決まりなの』
室内に笑顔の輪が広がる。
「そもそも本当はどんな名前なの?
バートンは名前? それとも名字?」
『バートンの名は龍王陛下より賜った名前──珠名なのじゃ。
わしの名はニコラス・バートン・ペトラキス。
ニコラスが元々の名前じゃが「龍王の眷属」の中から、更に王の側近となった者には陛下より名を賜われるのじゃ』
「それがバートン?」
『そうじゃ』
サンボウの顔はとても誇らしげで自信に満ちていた。
──あぁ、そうか……。
今、納得がいった。
「そう言えば言ってたね。
──呼ばれぬ名に意味はない。 ……って……」
『あぁ……よく憶えていたな』
「うん。印象的な言葉だったし、その言葉を聞いてみんなに名前を付けたいって思ったんだもん」
『そうか……』
『なんだか懐かしいの。ほんの数ヶ月前の話なのに、随分前の気がするの』
「そうだね〜。いろいろあったね」
『姫、そう言えばなんで自分は「ロス」なんだ』
「……」
それ、聞いちゃう?
『そう言えば「クウ」って面白い響きなの。どういう意味なの?』
身を乗り出すクウに対し、思わず無言になるミレイ。興味津々な純粋な瞳がいたい……。
ふむ。わしは「サンボウ」だからな。他の二人もそんな大層な意味があるとは思えないが……。
意味が分かりきっているサンボウだけが、優雅にお茶を飲んでいた。
困り顔の姫も可愛いがな……。
そろそろ助け舟を出してやるか。
『お前達も本来の名を名乗ったらどうだ?』
『おぉーー。そうだな!
自分はフェルノ・ヤン・ガブラスだ。間のヤンが珠名だな』
『クウは、デミトリアス・レミス・マルティーノ』
「えっ? デミトリ──……なに?」
『クウの名前は長いからな〜。自分も最初は姫と同じこと言ったよ。舌噛みそうになるよな』
ニッカリ笑って同意を求められたけど、流石に舌を噛みそうにはなってない。でも大人のロスに親近感が湧いた。
『まぁ、クウは神官の家系だから仕方ないのじゃ』
『それを言うならサンボウだって、名門貴族のペトラキスの出でしょ』
むすっとして答えるクウ。
なるほどクウとサンボウは由緒正しきお坊ちゃんなのね。それじゃロスは……?
チラリとロスを見ると視線が合った。
『自分か? 自分は平民だ』
クッキーを頬張りながら事もなげに言う。
『騎士団長は強さと統率力重視だから、代々実力主義で勝ち取るものなの。ロスは一兵卒から成り上がった実力者なの』
「だから強いんだ」
『そうじゃ。腕っぷしだけなら、ロスの上には騎士総長と水龍さましかおらん』
何故かクウとサンボウが誇らしげに説明をしてくれた。それが嬉しいし、二人の人柄の良さが伺える。
ふふっ……っと笑うと欠伸も出てきた。
『姫、そろそろ休むの。今日は疲れたでしょ』
「……うん、そうする。
そうだ。みんなのベッドはどうする? 流石にここに布団はないだろうし……簡易ベットがあるならみんなで運ぼうか。ふぁ〜……」
『布団?』
「うん……前みたいにタオルって訳にはいかないでしょ……」
本当に眠くなってきた……
『いや、姫。そもそも我らはここで寝ないぞ?』
「……えっ?」
『……えっ……??』
互いに顔を見合わせる。
『姫が淋しいなら自分が添い寝をしてもいいぞ』
意気揚々とロスが挙手をしたが、サンボウに後ろから頭を押さえ付けられ『莫迦を言うな』とマジ声で牽制された。
なんだろ〜
サンボウの声がちょっと怖い……?
『姫は気にしないかもしれないけど、流石に成人の男の姿で同室はマズイの……』
「あーー……そっか」
ミレイもクウの言わんとしていることを理解した。
でも昨日の夜まで一緒に寝てたのにな……。
「じゃぁ……寝るまで居てくれる?」
少し甘えた口調でお願いしてみると、『いいぞ!』と軽やかに言うロスに、渋々頷くサンボウ。その様子を面白そうに見てるクウ……。
うん。幸せだな……
ミレイは早々に夢の中に旅に出た……
『……寝たのか?』
『寝た……みたいじゃ』
『いつもより早いの。やっぱり疲れてたのね』
『当然だろう……水龍さまを起こすのに奔走してくれたからな』
『……そうじゃな』
ベットに横たわるミレイを三人で静かに見つめる。その姿は妖精の姿で見るよりも小さく見える。
『まったく、まさかみんなで寝るつもりだったなんて……』
『自分は大歓迎だがな』
ロス〜。とクウが垂れ目を若干釣り上げてロスを咎める。
その様子を見ながらサンボウはミレイの寝顔をもう一度眺めた。
姿が変わった我等をいつもの笑顔で、リリスの家にいた頃のように『おかえり』と言って迎えてくれた。そのままの我らを受け入れようとしてくれる。
『姫は姫じゃな……』
その大らかさが、懐の深さが何よりも尊い……