第167話 湖の畔にて⑤
『ミレイ。お前を愛している』
──あい、してる
そう聞こえた気がする。
聞き間違いだと流すには、水龍さまの纏う空気がいつもとは違っていて、その瞳はとこまでも真っ直ぐだった。
胸がトクンと、弾むように跳ね上がる。
私の頬を大きくて硬い手がすべるように、そっと触れてゆく。
その感触に夢見心地になりながら、私はもう片方の頬を軽くつねってみた。
「いたっ!」
『……な、なにをしてるんだ。お前は』
いきなりの意味不明な行動に、流石の水龍さまも手を引っ込めた。
「いやぁ白昼夢かなぁ〜と、おもって」
『……白昼夢』
麗しいお顔が唖然とする様を見て、慌てて弁解を試みる。
「だって、いきなりそんなこと言われても!
それに私に都合良すぎる話だから……」
むにゃむにゃとその先を濁すも、先程の情景が思い起こされて、思わずギュッと目をつむる。
そうだよ。都合良すぎるって!
水龍さまが私のことを……好き……とか。
馬鹿なことをした恥ずかしさと、嬉しさ、戸惑いが織り混ざり、もうどうしたら良いのか分からなかった。
両の手の平で、髪をクシャリと抱え込むと、火照った頬を無造作に隠してみる。
その一連の様子を眺めていた水龍は、目尻に慈愛の色を浮かべて、頬を緩ませた。
……かわいいものだ。
頬を抓ったり、恥じらったり。まるで子供のようだ。
『夢ではないし、思いつきでもない。
私は本気だぞ』
「…………ほんとう、に?」
顔を覗きながら諭すように放った言葉。でも水龍はすぐに後悔をした。
赤く染まった頬に潤んだ瞳。
不安げに発せられた言葉と表情に、愁いが含む。
『……っ』
息が止まった、気がした。
心臓を鷲掴みされたような錯覚に陥る。
今まで見たことのない、熱を帯びた瞳に艶めいたものを感じる。少女のような可憐さのなかに漂う……女の色香。
いま心臓が止まっても、不思議に思わないだろう。最強と言われる龍王も、惚れた女に掛かれば他愛もないものだ。
天を仰いで、気持ちを落ち着かせようと息を吐く。
『……ミレイ、お前は最強の刺客になれるかもな』
「…………は?」
今度はミレイが目を剥く番だった。
しかく? えっと暗殺者ってこと?
あれ……さっき告られた……よね?
えーー、意味わかんない。
「いきなりなんですか? 物騒なこと言わないで下さい」
やっぱり私の勘違いかと、泣きたい気持ちになる。
しかし頭上で『すまん』と軽めの謝罪が聞こえたときには、何故か水龍さまの腕の中にすっぽりと収まっていた。
「?!」
『お前になら殺されてもいいって話だ』
聞き慣れたバリトンボイスが、いつもより更に低く、甘く囁かれた。
内容は変わらず物騒なのに、回された腕は優しくて密着した体から伝わる温もりに、ミレイは虚を衝かれた。
『お前が信じられるまで、幾度となく言葉を重ねよう。──好きだ……ミレイ』
「?!」
動揺し、腕の中で真っ赤な顔をして身じろぎするミレイを、水龍は愛おしいそうに眺める。そして艷やかな黒髪を一房手に取ると、そっと口付けた。
『……お前を、私だけのものにしたい』
たっぷり間をおいたあと、伏せられた蒼の瞳がミレイに向けられた。
ゾクリと、体が震える。
──生ける芸術品のような、神様みたいな容姿と力を持ってる人。
無自覚の色気にあてられて、朝から興奮しまくったのは最近のこと。
惑わされたことはたしかにいっぱいあるけど、でも、今までとはどこか違う……?
さっきまでの軽さはなくて、変わりに秘めやかな欲望を垣間見た気がする。
「あの……」
無意識に視線を外し、一歩身を引いた。
その時、ミレイの脳裏には何故か元の世界で見た、サバンナのドキュメント番組が思い出されていた。獲物を前に、じっと身を潜める肉食動物。
機会を伺い、ただ一点を見つめる鋭い眼光に思わず手が止まったものだ。
なんで今、思い出すかなぁ。
水龍さまを動物扱いとか、そんなの……
明らかに心が波立って落ち着かない。
はぁ〜っと深呼吸すると、ふわりと鼻を掠めたのは水龍さまのにおい。
「……いいにおい」
『……そうか?』
うっとりして呟いた言葉に、返ってきた声はとても近かった。思い切って顔を上げた私は今度こそ固まった。
少し動けば唇が当たってしまいそうなほどの距離に麗しい顔があった。
ミレイのこめかみに、軽いリップ音と共に、柔らかく温かい感触が触れた。
「んっ」
甘い声とともに肩が跳ねる。
気をよくした水龍は、自身の額をミレイの額にそっと合わせた。
『……ミレイ』
水龍さまの吐息が、私の唇を掠めていく。
『お前に伝えていないことがある』
……えっ。この態勢で?
そう疑問には思ったけど、変に動いたら唇が触れちゃうと思うと、私は目をギュッと閉じて待つことにした。
そしてミレイの思考を読んだ水龍は、鬱蒼とほくそ笑んだ。
……あぁ。本当に可愛い女だ。
『龍王の口づけには深い意味がある。
……何だと思う?』
「えっ……いみ?」
殊更ゆっくりと紡がれる言葉。
その度にお互いの吐息の熱さを思い知る。
無理! こんなの……恥ずかしい!
鼻すら触れ合うゼロ距離に、羞恥が我慢を超えたと思ったとき
『龍王の口づけはそのまま、求婚を意味する』
いきなり爆弾は落とされた。
「……求婚?!」
予想もしてなかった言葉に、私は頭を反らして目を開けた。
『私は龍王として、お前に求婚する』
「?!」
そう言い切ったあと、蒼の瞳が細められた。
そして、次の瞬間。
「──?!」
くちびるに、柔らかいものが触れる。
反論の言葉も吐息も、全てが水龍によって呑み込まれた。ミレイは何が起きたのか分からずに、息を呑み、ただその激流に身を任せた。
永遠とも思われる
二人だけの時間がすぎていく