第163話 湖の畔にて①
緩やかな風が草花を揺らす、気分のよい午後。ミレイの目の前には壮大なほどに大きな湖が広がっていた。
「……きれい」
そしておっきい。
対岸の木が小さく見える。王城から見たのは滝だけだし、まさかこんなに大きい湖なんて思わなかったよ。
『ここは王族の直轄領。ここに入れるのは王族と管理人のみだ』
「そう、なんですね。連れてきてくれてありがとうございます」
にこりと微笑むと、水龍はエスコートの手を差し伸べて『約束したからな』と爽やかに言う。
うーーん。私は忘れてたけどね。
笑顔の下で苦笑いを浮かべる。
たしかに夜会当日にそんな話はした……気がする。でも、あの時は自分が遂行する任務?で頭いっぱいだったし、馴れないドレスで精神的にも余裕なかったんだよねぇ。
だから正直、先日ネックレスをもらった時に『今度、約束してた湖に行こう』と、言われた時は「……?」って気分だった。
でも私だって良いオトナ。
そこはにっこり「はい」と答えておいたけど……。でも今は自分のとっさの行動を褒めてやりたい! 正直に「なんのこと?」なーーんて言ってたら、ヘソ曲げて来れなかったかもしれないし? そしたらこの絶景も見られなかったかもしれないもの。
それくらいここは綺麗なところだ。
王族以外出入り禁止なだけあって、辺りに人気はなく、心地よい静寂が流れている。木々と野花に囲まれた湖は、神秘的な色をたたえた綺麗なターコイズブルーだった。
そっと覗いてみると水深はかなり深そうで、落ちたら危険! と、早々に体を引っ込めたけど、その水は驚くほど澄んでいた。
「こんなに青い湖、初めて見ました」
『そうか? これには理由があるが……』
「理由?」
『それはあとで話してやる。今は……』
示された先には優美なガゼボが見えた。
備え付けのテーブルの上には、たくさんのケーキや焼き菓子が並べられ、美しい色とりどりのケーキは、どれも腕によりをかけて作られた品だとひと目でわかる。
ソニアと侍従の給仕で、温かい紅茶が供された。
「ソニア来てたのね」
レミスと共に見送りをしてくれたソニアが先回りをして、準備をしてくれてる事実に頭の中に疑問符が浮かび上がる。
『こちらの支度は別の者が済ませて下さいましたから』
私の目が語っていたのか、ソニアは聞かれてもいない理由を話してくれた。
「そうなんだね。……侍従のあなたもありがとうございます」
丁寧に頭を下げるど、驚いた様子で『恐縮です』と、あちらさんも頭を下げた。
それにしても、外で高価な茶器で温かい紅茶が飲めるとは思わなかったなぁ。これがこの国の普通なのか、王様仕様なのかは、わからないけど。
一口コクリと嚥下すると、いちごのような甘い果実の香りが鼻を抜け、思わず頬を緩めた。
『気に入ったか?』
「……はい。美味しいです」
『良かった』
頬を緩ませたミレイを見て、水龍もほっと息をつティーカップに手を伸ばす。ラフな装いにも関わらず、紅茶を飲む姿は色気すら醸し出している。
真のイケメンは、場所も服も関係ないんだなぁ〜。
なんて考えながら、向こうの世界の同僚が、必死にイケメンを保っていた涙ぐましい努力を思い出す。
まあ、比べたらかわいそうだよね。
「あのぉ水龍さま。この後どなたかいらっしゃるんですか?」
『その予定はない。……なぜだ?』
軽くふった話に、なぜか驚いた顔で返された。
「いえ、二人分とは思えないお菓子の量なので、他にどなたかお見えになるのかな、と思いまして」
目線を落とすと、ティーパーティーでも始めるの? と聞きたくなる量のお菓子が並べられている。
でも水龍さまはそこまで甘いもの食べた記憶がないのよね。私が見た場面だと、少しクッキーを摘むくらいだったはず。
『誰もこない。これはその……。
お前が好きそうな物を揃えてみた……だけだ』
「えっ! 私のため……ですか?」
『…………あぁ』
背もたれに身を預けて横を向く仕草は、どこかぶっきらぼうで、少しだけ耳も赤い。
なにこれ。可愛いんですけど!
たまに見せてくれる一面は、はっきり言ってたまらない!
それにしても私のためなんて……
でも……
「……なんで?」
可愛らしい姿を見れてラッキーと思いながらも、ふとした疑問に小首を傾げる。水龍は柳眉をピクリと動かしただけで何も喋らず、ソニア達は笑顔のまま気配を消した。
『…………少し歩くか』
「えっ? ……はぃ」
セッティングしてくれたにも関わらず、早々に席を立つ。
せっかく淹れてくれたんだし、飲み終わってからでもいいのに。そう思うのは私が庶民だからかなぁ。
もちろん口に出しては何も言わない。
なぜなら彼は王様だから。
一見、傍若無人のような行動だが、それを諾と許されるのは、王族の権威はもちろん、水龍が築いてきた信頼と尊敬がそこにあるからだろう。
やることやってるんだもんね、この王様は。
……まぁ、よくある小説に出てくるような我儘放題の王様だったら、私も惚れてない……か。
自覚してからというもの、水龍さまが二割増にカッコよく見えて仕方がない!
妙に気恥ずかしくなり、緩む頬を隠すように両手でムニムニしてみる。
『何をしている?』
「みゃぁっ!」
いきなり目の前に現れたイケメン度120%の破壊力に変な声が出た。
『……』
「……」
は、はずかしいーー!
「みゃぁ」って何よ! まだ「わぁ」でしょぉ?!
「こっ、これは顔をムニムニしてたから変な声が出ただけで……」
『フッ……フフフッ。まるで子猫だな』
控えめながら吹き出すように笑いだした。口元が緩み、顎の輪郭が崩れて小刻みに肩も揺れている。
『こんな可愛らしい子猫なら、飼い慣らして側におきたいものだ』
取り繕うことのない素の笑顔に、思わず言葉を失う。
いつもの笑顔ももちろん素敵だけど、今は心から笑ってくれてるみたいで……
トクン……
胸が早鐘を打つように、わめき散らしている。
「こ、子猫って……。何言ってるんですか!
それに水龍さまは知らないだろうけど、子猫は大変なんですよ。引っ掻くし天の邪鬼だし!」
──そばにおきたい。 って、……ほんとに?
もっと もっと 見てみたい
素のあなたを……
私だけに見せてほしい
『なら、お前そのものじゃないか』
完璧な美の化身から、再び溢れた笑顔。
それを目の当たりにしたあげく、浮かんだ思考がフラッシュバックする。
『ミレイ?』
カアーッと体温が急上昇していくのがわかる。
なっ、何を考えてたの 私!
恥ずかしいーー!
「なんでもないです!」
水龍さま相手に、こんな!
こんなの…………まるで独占欲じゃない
水龍をすり抜けて、湖に突き出た桟橋の方にどんどん歩く。
マズイ。マズイよ……
この前もだけど……私、どんどん好きになってる。
『ミレイ?』
水龍は手を伸ばして、一瞬躊躇した。
水龍も水龍で頭を悩ませていたのだ。
やっと口づけの許しを得たのに、今度は特別な宝石を本人に伝えずに渡したからだ。
先日のカリアスの言葉が頭をよぎる。
──『外堀を埋めるための行為』
もちろんそういうつもりはなかった。
身につけてくれたら嬉しいとは思ったが、実際、毎日身に着けていると報告を受けた時は……正直、嬉しくて、愛おしくてたまらかった。
終始、私の腕の中にいるような
ミレイが私のものになった気がした。
……まぁ、実際「気がした」だけなんだが。
心の中でそっと涙を流した。
ミレイの事になると、最近は全てにおいて後手になり、翻弄されている。
でもそれが嫌ではない。
しかし今日は違う。
ちゃんと話をして想いを伝えよう。
濁りのない蒼色の瞳に、長い睫毛が影を落とす。秀麗な額にかかる銀髪がさらりと風になびき、憂いを含んだ表情の中にも瞳だけは強い意思を示し、それが得も言われぬ艶を生み出している。
ここに令嬢達がいたら、間違いなく失神の嵐たっただろう。
「きゃあ!!」
不意に女の悲鳴が静かな湖に響き渡った。そして次の瞬間、ドボンッ! と何かが水に落ちる音した。
『ミレイ?!』
振り向きざまに駆け出す水龍。
水の中で見たのは、グングン底に向かって落ちていく……いや、引っ張られているミレイの姿。
なにっこれ?! 引っ張られてる?!
しかも、なんか覚えがあるんですけどーー!
──そう、あれは南の龍湖のこと。
今と同じように精霊に湖に引きずりこまれたのだ。
ってことは……これも精霊のしわざ?
でもスピードが違う! こんなの振り切れないよ
ゴポッッ
ヤバッ 息が……
とっさに反転した体で見たのは、すごい勢いで向かってくる水龍さま。
水龍さま……来てくれた
ゴポッッ
でも……
『おい! なんの真似だ。その女を離せ!!』
『龍王陛下だよぉ』
『ほんとだぁ~』
『ほんもの〜?』
凄む水龍とは裏腹に、ミレイを引き込んだ本人達は詫びれもなくキャッキャと笑っている。
水龍は水牢でミレイを覆い、息をひとつ吐いた。
『……これはこれは龍王陛下』
『はぁーー。とりあえず話は地上で聞こう。この女はニンゲンだ』
『承知しました』
ゴホッゴホッ
ヤバかった。今回は本当にヤバかった
和やかな湖散策のはずが、死の恐怖を味わうことになるとは。
『なんの為にこんなことをした』
鬼の形相で仁王立ちする水龍さまの前には、泣きじゃくる小さな女の子が三人。
でも普通の女の子では、ないことはひと目でわかる。
……足がないのだ。
ホラーとかではなく、むしろおとぎ話的な意味で。
「あのぉ……。彼女達はいったい……」
『ん? あぁ。この子らは人魚の子供だ』
「…………へぇ~。……にんぎょ」
静かな沈黙のなか、一陣の風がミレイの濡れた体を吹き抜けた。
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