第159話 変わりゆく状況①
カツカツ……
使用人も寝静まった半夜の頃、広い屋敷に革靴の足音だけが響き渡る。
今宵は闇夜。
凛とした静けさは、星のない重たげな空全体に広がりをみせる。
キィ……
重いマホガニーの扉を押して部屋に入ると、いつもとは違う異質な気配を察した。
『誰だ?』
問い詰めるでもなく、鬼気迫るものでもない、感情の揺れがない声。
『誰だとはひどいな』
『……お前か』
ベッドの側に一人の男が立っていた。
しかし月明かりもないせいか、ただ真っ黒な立ち姿が見えるばかりで誰とも見分けがつかない。しかし部屋の主は卓上のランプに手を伸ばし、火を灯すと指先で呼び寄せた。棚から酒瓶とグラスを二つ取り出し、無造作にテーブルに置くと催促するように男に手を伸ばす。
『はぁ。こちらが頼まれていたものですよ』
『ふむ』
報告書らしき書類を渡すと、男は勝手に瓶を開けてグラスに注ぐ。
『──やはり、か』
クスりと笑う様はどこか楽しそうに見える。
『先祖まで遡れって……結構苦労したんだけど』
『そうでしょうねぇ。君でなければ頼めませんよ』
『……いつになく上機嫌なご様子で』
『それはもう。手札が揃うまであと一歩のところまできましたから』
書類から顔を上げて、手酌で酒を注ぐ様子を目の前でじっと見つめる。
『陛下はそのお嬢さんにぞっこんらしいな』
ここしばらく掛り切りだった調査対象の、あどけない顔を思い出して話を振ってみる。
『…………使いようによっては国が捕れそうなネタだよな』
『そうですねぇ。でもソレには興味ないので』
そう。こういうヤツだ。
興味のないことには無頓着だが、ひと度興味を惹かれれば、ありとあらゆる手段を用いる。利用できるものは利用し、反対にそぐわないものは、骨の髄までしゃぶりつくすか、反芽の牙を根ごと折る。
そうして国を、民を護ってきたのだ。
それも本人からすれば、遊興の一つだと言うから腹立たしい。
『……はぁ、やっぱりか。王権に興味があるように思えないだけに、今回の依頼は意味がわからない』
『そんなことありません。単純ですよ。
僕のポリシーは昔から変わっていませんから』
コクリと飲み干し、肘掛けに体重を預けてゆるりとくつろいでみせる。
『……使えるものは使うってヤツか?』
『えぇ。──ところでもう一件頼みたい仕事があるんですが』
糸のように細い目が優雅に曲線を描き、口角もこれ見よがしに上がっている。
『……俺は今日戻ってきたばかりなんだけど?』
『知っています』
『休みがほしい』
『終わってから存分にどうぞ?』
『すぐに欲しいんだけど』
『それは無理ですねぇ』
『何故だ? お前の手の者は俺だけじゃないだろう』
明確な不満をぶつけてくる男に、部屋の主はサラリと言った。
『ここまでの重要案件だと、任せられる者も限られてくるんですよ。……僕は君に頼みたい』
『……』
『助けてくれませんか?』
窓の外からヒューと唸り声を上げて、遠くまで渡ってゆく風の音が聞こえてくる。
『…………ずるいな』
『えぇ』
『そんなおだてに乗る俺じゃない』
『知っていますよ。……でも君は動いてくれるでしょう?』
首を傾げると紫色の髪がふわりと揺れる。
優美な外見と全てを持つ男。
この外面にどれ程の令嬢が惑わされたことか。
……でもこの男は内面は、虎視眈々と獲物を狙う毒婦となんら変わりはない。
艶やかで 蠱惑的で 男を惑わす毒婦。
『…………はぁ。嫌なヤツ』
『よく言われます』
『……ほんとっ! ポリシー通りだよな』
『えぇ。その通りです。僕は使えるものは何でも使いますから。──だから、はい。次のお仕事です』
『……』
『次のお仕事ですよ?』
『わかったよ! その代わり高くつくぞ』
粗末な封筒をもぎ取りように奪うと、足元に陣を展開させる。
『あぁそうだ。忘れるところだった。
先にこれをアンドレウ卿に届けるように』
『……。ほんとに人遣い荒いよな!
──実は他の奴らなんかとうにいなくて、諜報要員は俺だけなんじゃないか?』
『この性格だからあながち否定できないですねぇ〜』
クスクスと笑う男に『バーーカ』とだけ告げて男は消えた。
この毒婦に魅入られ、駒にされてる時点で俺も終わってる。
──『僕は君に頼みたい』
疲れた体に鞭打って、夜の龍王国を密やかに駆け巡る。しかしその胸の内は高揚し、眠気なんてふっ飛んだ。
あぁ、本当に俺は終わってる。
これが美女ならまだ救いがあったのに……。
夜半の空気が濃く満ちてゆき、その姿は闇夜に消えていった。
──その頃、部屋に残された男は今までの報告書を読み返していた。王宮の中での様子や街でのやり取り。
書類の束を執務机に放り投げると、誰に聞かせるでもなく呟いた。
『……やはりあなたを帰すわけにはいかないようだ』
窓に映る男の顔は、どこか愉しそうに見えた。
◇ ◇ ◇
先生のお屋敷でのお泊り会から二日後、ミレイは王宮の一室で令嬢達とお茶会にのぞんでいた。
『お久しぶりでございます。水姫様』
「お久しぶりですね。皆様」
お互い形式である挨拶を交わす。
目の前にいるのは真っ赤なドレスに身を包んだシャーリー・カラマンリス嬢。庭園でバトルをした後、仲良くなった令嬢の一人だ。
『またお会いできて嬉しく思います』
そう話すのは黄色のドレスのオルガ嬢と緑のドレスのケイシー嬢。
「……あのぉ、失礼ですが何かありましたか?」
『えっ?』
「……いや、雰囲気が以前と違うなって思いましたので」
三人とも顔を見合わせて苦笑する。
『変わったと、思って頂けたのなら嬉しいですわ』
そう俯いて微笑むシャーリー嬢からは、以前のようなトゲトゲしさは感じられない。
『私達、本当の淑女になりたくて……』
本等の淑女?
怪訝な顔をしてる私を見て、ケイシー嬢が『あの日、諭されましたので』と苦笑いを浮かべながら切り出した。
あぁ。そう言えば、先生にコテンパンに言われてたよね。
そう、たしか『上流階級に生まれただけの女に用はありません』……とかなんとか。
……うん。思い出してもキツイな。
『あの日アンドレウ様にご指導頂いて、大切なことに気づくことができたのです。この生活は当たり前ではないの、だと』
そう話すシャーリー嬢を見て、ケイシー嬢も力強く頷き
『えぇ、私も目が覚めた思いでした。
あれから考え直し久しぶりに、お父様のご出勤前に見送りをしましたの。そうしたらお父様ったら、目をお皿のようにまん丸とさせて驚いて、……あろうことか泣いてしまいましたのよ。
……でも無理もありませんわ。見送りなんて子供時以来ですもの』
そうクスクス笑いながら話すのは、とても穏やかな顔をした可愛らしい女の子だった。
「今の皆さんは、キラキラしててとても素敵です!
以前よりもずっと!」
『ありがとうございます』
「……あっ。そう言えばレミスに聞きました。
夜会会場のテーブルのお花やグリーンを急遽、ケイシー嬢のお家の方が取り寄せて下さったって……」
『ええ。あの日、父はあの食堂に居合わせましたの』
「えっ?!」
『あっ。食事はしておりません。打ち合わせに向かう途中で知り合いに会い、立ち話をしてたらあの事件がおきてしまったのです。すぐに出入り口が封鎖された為に、あの場に居合わせたのだとか』
「そう、だったんだ」
たしかにそんな事があってもおかしくないかもね。
『そこで皆様の熱意に触れて、自分も何かできないか、と思ったと聞いております。……我が家は代々、花やガーデニング用の装花を扱う家でしたので、それならばと……』
「そうなんですね〜。たしかにデザートと並んで綺麗にテーブルコーディネートされてました!」
むこうでいうところの花屋さんだね。
『ありがとうございます。お目に触れたのであれば良かったです!
父は水姫様にも大層感謝しておりましたので、伝えますね。きっと喜ぶと思います』
「感謝?」
首を傾げた私にケイシー嬢が『私達を変えたキッカケはあなた様ですよ』と言われ「……へっ?!」と、間の抜けた返事を返してしまった。
プッ……プップ。
「笑わなくても……」
『ごめんなさい。でも変わらず可愛らしくて』
『ええ、変わらなくて安心しましたわ』
令嬢達から笑いが漏れ穏やかな空気が流れた。
『ところで水姫様』
「いや。ミレイでいいですよ。……前回言いましたのに……」
やんわりと抗議の声を上げると三人は顔を見合わせて、そうでしたと、また笑い合った。
『その首元を彩るネックレスは、陛下からの贈り物ですか?』
キランとシャーリー嬢の目が光った。
「えっ……いや。その……」
ミレイの脳裏に、昨日の出来事が思い起こされる。