第153話 サンボウ
チュン チュン……
小鳥の囀りの声でミレイの長いまつげが微かに震えた。
朝……?
重い瞼を無理やり開けると、小さな天窓から朝陽が差し込み、得も言われぬ情景を作り出していた。窓を開けて澄んだ空気を肺いっぱいに取り込むと、なんだか体が満たされたように軽く感じられる。
これも先生のおかげかな。
昨夜は食事が終わるとヒルダー様は仕事が残ってるからと、早々に離席したので、先生と私はサロンに移動してデサートを頂くことにした。
「言うつもりは無かったんだけどなぁ……」
フルーティなワインは食後にピッタリで、時間が経つごとに気も緩み、気付いたら言葉巧みに誘導されて、水龍さまにキスされたこと。しまったと言われてて、へこんでいた事を話してしまった。
更に告白はされていないと告げると、先生は能面のような形相で、静かに怒りを露わにした。
先生もあんな顔するなんてびっくりだよ。
嬉しかったなぁ〜。
全部話をしたあとはなんだかすっきりして、思わず『お母さんみたい』とこぼしてしまったけど、先生は笑って許してくれた。
おかげで気持ちの整理ができた気がする。
なんであんなに悲しかったのか、傷ついたのか……。
私はキスされたのが嫌だったんじゃない。むしろ私は……。
そっと唇に手が触れる。
強引なキスは少し荒々しくて、身じろぎひとつ出来なかった。
驚きと少しの悦び。
──そう、私の心は悦んでいた
「まあ……すぐに急転直下で奈落の底に落ちたけどね」
ハハッと虚しい空笑いが漏れる。
間違いだったと言わんばかりの、心の無いキス。
おまけに昨日は朝イチで『謝罪にきた』と、言うんだから頭にもくる。
「──って言うか、謝罪ってなによ。失礼すぎるでしょ?! 更に追い討ちかける理由はなに?
……せめて無意識だった……とか、キスそのものは後悔してないとかさぁ~。そう言ってくれたら、まだ良かったのに……」
さっきまでの清々しい気持ちはどこにいったのか、ついつい愚痴がこぼれる。
「……まぁ、これはただの願望だよね」
昨日は朝も昼も追い返して、流石に夜も来たら相手は王様だし? 受けないとまずいよな〜と、憂鬱になっていたところに先生が来て、あっという間に連れ出してくれた。
まるでヒーローのようで、おばあちゃんなのに先生は本当にカッコイイ!
「……どういうつもりだったんだろう」
拒絶したのは自分なのに、理由を聞きたい気持ちもある。でも……聞くのは怖い。
何故?
それは私が……水龍さまのことを……
「はぁーー……」
重い溜め息が出るのは、ある意味認めたくないから?
コンコンコン。
控えめなノックの音が響くと、侍女さんが入室してきた。私は気持ちを切り替えて、身支度を整えてもらい階下に向かうと、先生も降りてきたところだった。
「先生、おはようございます」
『おはようミレイ。良く寝れましたか?』
「はい。ぐっすり寝れました」
『……そう。──ちなみに昨夜、誰かが訪ねてきたとか、あったかしら?』
どこか探るような先生の視線に、ミレイは数時間前の事を思い出す。
「昨夜……。部屋に戻ってからですよね?
特に訪ねてきた方はおりません」
護衛のこと? それとも他に誰か?
通常、夜中に賓客の女性のもとに男性騎士が訪れるなどない。緊急の時を除いて、侍女を伴うのが常識とされている。
そんなミレイの様子を見て、先生は軽い溜め息をついた。執事のサリドが先生に何か耳打ちをすると『お通しして』と、何故かいつもより低い声で指示を出す。
「先生?」
『おはようございます。朝早くから申し訳ありません。伯母上』
程なくして玄関ホールに現れたのはサンボウだった。
『本当ね。まだ朝食前よ』
「サン……いえバートン。おはようございます」
『水姫様、おはようございます』
互いに礼を交わし、にこやかに笑い合う私達をみて、先生はボソリと呟いた。
『…………ヘタれねぇ』
「……せんせ?」
いま先生に似つかわしくない言葉を聞いたような?
チラリと隣を見ると先生は扇を片手に、貼り付けたような淑女の笑みを浮かべていた。
今、ヘタれって言いました?
えっ? ……サンボウのこと?
『……伯母上?』
サンボウの耳にも届いたのか、口元が引き攣っている。
『なんでもないわ。サリド、食事をもう一人分用意させなさい。……そうね。ゆっくりで構わないわ』
『かしこまりました。奥様』
『貴女達は準備が整うまで、庭の散策でもしてらっしゃいな。バートン、案内を』
『……わかりました』
使用人が捌けていくなか、先生により強制散歩を命じられてしまった。
サンボウにエスコートをしてもらい庭に出ると、空気が澄んで清らかで、朝露に濡れた花々がキラキラと輝いていた。
「きれい……」
『伯母上は花がお好きだから、庭園にもこだわりがあるらしい』
「……らしい、なのね」
フフッと笑いながらツッコみをいれると『花や庭は専門外だ』と、そっぽを向きながら返された。
庭には大理石の円柱や彫像がところどころに配置され、そのどれもが昨日買いましたと、言わんばかりに白く輝きを放っている。
これは努力の賜物よね〜。外にあるのに雨汚れどころか、苔一つついて無いないなんて。
庭園に見とれてボーっと散策していたが、今こそお礼を言うべき時では?と、思い至る。
「サンボウ、あのね。ずっと御礼を言いたかったの。浄化の儀式があんなに早く執り行うことがてきたのは、サンボウ達のおかげだって聞いてるよ。
我儘言ってごめんね。本当にありがとう」
ペコリと頭を下げて謝意を伝えるも、返ってきた反応は淡々としていた。
『向こうの国の者達に世話になったのも事実だし、あの湖は国の為にも浄化が必要だった。だから問題ないし、気にしなくていい』
「……そっか」
……恥ずかしいな、コレ。
「私のために」なんてニュアンスで言っちゃった気がする。そんなのとんだ勘違い女じゃないか!
『でも姫が喜んでくれたのなら、嬉しいな』
頬をかきながらボソッと呟かれた言葉に思わずえっ?と、問い返すと
『頑張ったかいがあったな』と、いつものサンボウの笑顔が返ってきた。
「……頑張ってくれたの?」
『もちろん。他でもない姫が望んだことだ。それは是が非でも、張り切るに決まってる』
……少しは自惚れていいのかな?
もちろん「私のため」じゃ無いのも分かってるけど、誰かの真ん中に「私」がいたのは、今はすごく嬉しい。
「ありがとう」
ミレイは心のままにふわりと微笑んだ。
その笑顔に、サンボウも自身の身の内がブルリと震えるような感覚を覚える。
──心を鷲掴みにされた、気がする
『ひめ……』
一歩近づき、手を伸ばす。
触れられる距離に姫が……愛しい女がいる。
緊張してるのか、上擦った声はいつもとは違う甘さを含んでいた。
「そう言えば、姫……なんだね」
風に靡くミレイの髪を、一房持ち上げて優しく触れるサンボウを見上げて、くすぐったそうに表情を緩める。
『あぁ……。あの時は名で呼ぶことが特別に思えたんだ。姫の特別になれる気がして、なりたくて……許可を求めた』
サンボウの両の手がミレイ頬を優しく包みこむ。
『でも違った。呼び方一つでは何も変えられないし、変わることも出来ない。……公の場で呼ぶ勇気もなかったしな』
それは己の心の内を晒すのと同じこと。
常に腹に一物を抱える自分にはできぬこと。
──いや、それ以前に陛下と争う勇気が自分にあったのか。
同じ呼び名にすれば、同じ土俵に立てるかも……などと、我ながら浅薄なことだ。
「うーーん。だってサンボウは公僕のようなものでしょ? 国賓を公の場で名前で呼ぶのは無理じゃない?」
サンボウの目が微かに覗く。
その瞳は綺麗な紫色をしていた。
『たしかに! ……フフッその通りだな。
目が覚めた気分だ』
手が離れたと思ったら急に笑い出したので、怪訝に思うも、サンボウが楽しそうなので良しとした。
「?? ……よくわからないけど、まだ夢現の状態なの? だとしたらそれは働きすぎだよ?」
そう笑う姫の笑顔は、初めて会った時と変わらず、自然で闊達で何より──綺麗だった。
あの時から育んだ絆。
『あなたを「姫」と呼べることの方が、貴重なのだと今ならわかる。
そう呼べるのは我々だけだ。……そうだろう?』
──それは懇願にも似た想い。
その目は「そうであってくれ」と訴えているように見える。
「そうだね。私を姫と呼べるのはサンボウ、クウ、ロスの三人だけよ。この先もずっとね……」
『そうか……』
サンボウはミレイの手を取ると、親指でその柔らかさを、温かさを心に留めた。
そしてそっと、掌の平に口づけを落とす。
「えっ?!」
『愛しい姫よ。これまでも……そしてこの先も……。
この想いは決して変わらない』
──私の唯一人の愛しい女性
それは変わらないだろう。
あなたが誰のものになろうとも、この想いは変わらない。
──でもこの想いは忠誠心よりも劣る。
なればこそ、私はあなたの臣となろう。
あなたを誰よりも近くで、何者からも護ろう。
智略と策謀を巡らし、時には私が姫の盾となり剣となろう。私はそれだけの武力も持ち得ている。
『……姫。私が側にいる限り、国家権力でさえもあなたの望みのままとなるだろう。
──私はこの国の宰相なのだから』
自分の頬に小さな手を這わせ、鬱蒼と笑うサンボウは、今まで見たこともないような憂いと影を孕んでいた。少し覗く紫の瞳と視線が絡むと、ミレイの背筋がゾワリと震える。
顔に熱が上がる。
紅潮してる自分を自覚して慌てて目を逸らす。
「こっ、国家権力なんていらないよ。私はもともと庶民なんだからね!」
相手はサンボウなのに、友達なのに。
はやる心臓を落ち着かせるように息を吸い込む。けれど、その手を払うことはできなかった。
手があつい……
『サ、サンボウ。もっと自重した方がいいよ。きっと無意識だと思うけど、さっきの告白まがいの言葉といい、今といい……。
こんな事されたら勘違いしちゃう女の子いっぱいいるよ! サンボウはカッコいいし、仕事できるし、優しいんだから、もっと自分を知らないと駄目だよ!』
捲し立てるように一気に言い放ったミレイに、今度はサンボウの方がキョトンとする。
『私は……かっこいい、のか?』
「えっ……知らなかったの? 無自覚は罪だよ?」
姫の整った眉が訝しげに寄る。
『フフッ。そうか……姫にそう言ってもらえるのは嬉しいな』
なんだ。ちゃんと男として、異性として見て貰えていたのか。
……そうか。見ていてなお、あの態度ならば私に勝ち目はないんだろうな。
『夢現……か』
「どうしたの?」
『いや、なんでもない』
たしかにそう思えるような、貴重な体験だった。
己の不甲斐なさと無能っぷりが思い起こされ、自然と頭が垂れる。
『あーー。そろそろ戻ろうか』
「うん、そうだね」
エスコートの手が伸ばされそっと手を添える。
その距離は庭園を訪れた時よりも近く、寄り添うような距離だったが、それをお互いが自然と受け入れていた。
この手が姫を抱きしめることは無いだろう。それでもこの距離を許されている。
──この無垢な笑顔を護りたい
繋がれた手に微かに力が籠もる。
そんな緩やかな時間は突如終わりを迎えた。
『困ります。これより先は御主人様の許可を頂きませんと!』
『何を無礼な! 私が誰だかわからないのか?』
騒ぎ立てる声が静かな庭園に響き渡る。
そちらを見遣ると、護衛騎士数人が壁となり、庭園への道を塞いでいる。しかし強硬手段を取らないところをみると、訪問者は高貴な人なのだろうか。
不穏な様子に隣のサンボウを見上げると、さっきまでの妖艶な雰囲気は霧散し、明らかに不機嫌になっている。
えーー……どういうこと?
ミレイは面倒臭くなる予感しかしなかった。
逃げちゃダメなのかなぁ……。
前回より少し時間が空いてしまいました。
訪れて下さった皆様、すみませんでした。
これからも宜しくお願いします!