第144話 月夜①
はぁはぁ……
暗がりの階段を駆け上がる。螺旋の先から空を切る音が反射音のように響いてくる。
……ここだ。
ミレイは息を整えて、最後の十段をゆっくり登り、そっとバルコニーを伺う。
剣先の切る音と、粗い息遣い。
広いバルコニーでは男が一人、剣を振るっていた。
大きな月を背後に背負い、動きに合わせて影が踊る。
対の動きは、さながら演武のように観客を……ミレイの視線と心を奪いさる。
きれい……
雑音のひとつも聞こえてこない、漆黒の夜。一人の男が静謐な空気を支配する。
一歩 また一歩……
引き寄せられるかのように、ミレイの足が動きだす。
『誰だ』
静寂を破る厳しい声に、ミレイの肩がビクリと跳ね、その場で身を縮めて立ち止まる。
月明かりに照らされた女の姿に、男も警戒心を緩め『……ミレイか?』と問いかけた。数秒の間をあけてコクコクと頷きながら「はい」と返答するも、足が動かない。
思えば初めて聞いたのだ、水龍の鋭い声を。
『どうした?』
眼前に移動してきた水龍は、いつもと変わらない声音で優しく問い掛けきた。
ミレイがホッと息をついて顔を上げると、汗を滴らせている水龍が目に入る。銀色の髪は少し湿っているせいか、月光が反射して妖しくも美しく、煌めいている。
「あの……。水龍さまがここに居るって聞いて……邪魔をしてしまい、すみませんでした」
なんだか恥ずかしくなり、勢いよく頭を下げると、水龍は『邪魔なわけがないだろう?』と、頬を緩ませて頭をぽんぽんと叩いてくる。
汗を拭い、筒状の容器に口をつけると、そのままゴクゴクと飲みだした。
これはこちらの世界の水筒のような物で、市井の者から騎士達まで広く使われている代物だ。
いつもとは違うワイルドな姿に、ミレイは目をパチクリさせた。
そういえばこんな姿、初めて見たかも。
いつもは王様らしく、高そうな茶器で優雅に紅茶を嗜む姿しか見てないし。
つい目を逸らせずにいると、僅かに零れた水が、口角からツッーーと顎を伝う。
水の動きといい、それを無造作に袖で拭く仕草といい、なんだか見てはイケナイものを見てしまった気がして、反射的に体ごと反転した。
こっ、これはヤバい……お金取れるやつでは?
きっと世の女子なら、多少の金銭を注ぎ込んでも見たい映像だろう。
月下のイケメン。
滴る汗に、緩められたシャツから覗く胸筋と筋張った首筋の筋肉。捲くられた腕は、想像してたよりも逞しくて……触れてみたいと思わせる。
こんな光景、ちゃんと見ないともったいないはず! でも……
言いしれぬ恥ずかしさが、先に立つ。
『どうした? お前も飲むか?』
肩に手を置かれて振り返ると、思ってたより顔が近くにあった。
「だっ大丈夫ですっ」
『そうか?』
無造作に髪をかきあげると、普段は見えない形の良い額が露わになる。再度、水を嚥下する喉仏の動きに知らずと目で追ってしまう。
ダメだ。……これはヤバい。
このままだと私は……変態になる。
片手で顔を覆い、下を向いて無理やり視線を外す。
──そう言えば、少し前にもこんな思いをした気がするよ。
そう、あれは早朝の私のベッドの上で……。
・・・
いやいや。自らいかがわしい言い回しをしてどうすんの。とりあえず今はこの『無自覚色気だだ漏れ王』の攻撃を回避しなければ。
『──レイ?』
落ち着け〜。
あんなの中学生だってやる仕草でしょ?!
あれくらいで悩殺されて、なんてされて無いし!
そう言いつつも、脳裏に「はぁはぁ」と息を粗くしてる自分の姿が想像できて、一瞬で脳みそまで一気に冷えた。
……うん、帰ろう。
お礼はまた今度にしよう。
今はこのまま離脱した方が、心の平穏を保てる気がする。
『──ミレイ。さっきからどうしたんだ?』
顔を至近距離で覗きこまれて、ミレイは真顔ののち、……真っ赤になった。
「……」
『……』
気まずい沈黙。
ここが灯りの少ない外で良かったと、ミレイは心の底から思った。
『……赤いな』
「見えてるんですか?!」
『夜目がきくんだ』
口をパクパク開いて抗議の声を上げようとするが、言葉が続かない。羞恥で体が火照ってくる。
「だっ、大丈夫! 頭の中を見られたわけじゃないから大丈夫」
『そうだな。初めて会った時は、考えてることがそのまま流れてきたからな』
グルンと首をまわして水龍を凝視する。
「こっ、言葉に出てました?」
『あぁ。頭の中を見られたわけじゃないから大丈夫って、言ってたぞ』
「……それだけ? その前は?」
『……まえ?』
セーーフ!!!
辛うじてセーーフだよ。
あんなイヤらしい目で見てたのがバレたら……普通に死ねる。
血反吐を吐く光景まで見えてきた。
“羞恥に悶える”……なんて良くある描写を自身で体験するとは思わなかったよーー。
その時、サァーーっと風が吹き、日中の湿った空気が全身を撫でるように通過する。ミレイが長い髪を抑えて目を瞑ると、水龍は独り言のように呟いた。
『……今更ながら、あの時のようにお前の心が知れたらいいのに、と思ってしまうな』
「なんですか? 良く聞き取れなかった」
『…………いや、何でもない』
テーブルの上に剣を置き背を向ける。
『それよりどうしたんだ。こんな時間にこんなところまで』
たしかに、そう言われても仕方がない。ミレイから水龍を訪ねるのは、大体なにかあった時だ。
「……あの。御礼を言いたくて」
『御礼?』
「はい。浄化をしてくれてありがとうございました」
淑女の礼ではなく、お辞儀をする。
この方が心を込めやすかったから。
「こんなに早く儀式ができたのは水龍さまやバートン達が頑張ってくれたからだと聞いています。
……私の無茶な願いを聞いてくれて、本当にありがとうございました」
一瞬、水龍の柳眉がピクリと動いた。
『……』
「水龍さま?」
『いや、お前の為ならば、これくらい容易いことだ』
そう言って微笑む水龍の横顔は少し憂いを含んでいた。それが何だか悲しくて、ミレイは一歩踏み出すと水龍のシャツを指先だけで摘んだ。
「私にできることがあるなら言って下さいね。私もあなたの力になりたいです」
『ミレイ』
二人の視線が交錯した時、不意に突風が吹き抜けた。
「ひゃっ」
ミレイは片手で髪を押さえながら、揺れるドレスの裾を抑えこむ。無様な展開にならなくて良かったと、呑気に安堵するミレイの肩に、上着が掛けられた。
『着ていろ』
「あっ、ありがとうございます」
ミレイは自分のよりも遥かに大きく、少し重みのある上着を掻き寄せると「あったかい」と吐息を漏らした。
白い頬が微かに上気して緩む姿に、水龍は無意識に一歩踏み出すと、その華奢な肩を無言のまま抱き寄せた。
冷たい風が通り抜ける隙間もないほどの圧迫感と熱。
風が雲を運び、二人の影は暗闇に溶け込んでいった。