第130話 戯れと本心
大きく見開かれたミレイの黒い瞳。
それは透き通るような明度で、でもどこか明るく温かい。その瞳が真っ直ぐに蒼色の瞳を覗きこんだ。
『……どうする? このまま私に身を委ねるなら生涯お前を愛で、存分に甘やかしてやると約束しよう』
言葉の内容とは裏腹に、軽やかな声でさらりと告げる。そこにほんの少しの本心を含ませて……。
「愛でる? 甘やかすって……。急に何を言い出すんですか」
起き上がって距離を取ろうとするも、ベットの上での攻防戦などたかが知れている。動揺で視線を逸らすミレイの白い首に、そっと指先を沿わすと、微かに体が反応する。
赤らめた抗議の顔が手の主を追うと、次の瞬間、ミレイの視線は水龍に絡め取られた。まるで『他所見など許さない』とでも言うように……。
蒼い瞳はミレイだけを見詰めていた。
ただミレイだけを……。
──目を……反らしたくない。
その一挙手一投足、すべてをつぶさに見ていたいなどと……。この私がなんと愚かな男に成り下がったことか。
でも……愛らしい。
揺れる瞳も微かに震える唇も。そのすべてを絡め取り、私のものにできたら……
頬に手を当てると、熱いぐらいのミレイの熱を感じ、自身の腹の底に燻っていた想いが感化されたように熱を持ち始めた。
首すじ、耳裏、顔の輪郭……
ゆらゆらと戯れのように、触れる指先
『……急に、ではないのだが……。気づいていなかったのか?』
「何のことですか? そっ、それよりも私は、おとないの意味を知らなかったので無効です!」
シャーー! と、まるで子猫が逆毛を立てて威嚇するような姿に、知らずに笑みがこぼれる。
『……フッ、仕方がない、見逃してやるか。
お前はお子様だからな』
笑いを含んだ溜め息まじりの物言いに、ミレイはカチンときた。
「お子様じゃないですよ。私はれっきとした大人の女性です〜!」
ムキになって反論したのが不味かった。
そのまま見逃してもらっていれば良かったと、ミレイは後で激しく後悔した。
『………………ほぉ?』
──声音が変わる。
今まで二人の間には明確な『距離』があった。
戯れのような触れ合いを楽しんできた水龍であっても、紳士としての節度を守った距離感で接していた。そして今、その『距離』はスローモーションのような緩慢な動きで、徐々に詰められていく。
気付いたときには、ミレイの視界に映るのは天井の暗い壁と、きらきら光る銀色の髪だった。
「…………えっ?」
『……では、大人の女の扱いをしようか』
顔の横に置かれた左手がベットを軋ませると、ミレイの顔くらいある大きな手が、額から前髪、こめかみに沿ってゆっくり撫であげた。
先程までの笑みが消え、蒼い瞳が見たこともない色を纏ってミレイに注がれる。
「……あの……」
掠れた声で発した言葉に返答はなく、代わりに水龍の親指が丁寧にミレイの下唇を撫でた。
ミレイの背筋にゾクリとした感覚が走り、体がピクンと跳ねた。
何度も、何度も往復し下唇から上唇に撫で上げると、微かな吐息が水龍の指を湿らす。
その反応に気を良くしたのか、更に距離は詰められた。
『…………みれい』
両肘をつき、逃げ道を塞ぎつつ耳元でそっと囁くと、バリトンボイスの良い声が甘さを孕み、ミレイの脳髄を駆け抜ける。
「……んっ」
甘い上ずった声は、さながら蜜がけの苺より甘いものだった。
水龍の唇が柔らかいミレイの耳たぶを軽く喰むと、鼻から抜けるような甘い声が深夜の室内に響き渡る。
濃密な空気が、夜の帳のように部屋を覆っていく。
「…………おっ」
不意に発したミレイの一言に、水龍の柔い動きが止まる。
「お子さまのままでいいです〜!!」
顔にこれでもか!と言わんばかりに熱を集めたミレイは、ギュッと体を縮こまらせて叫んだ。
水龍は目をパチパチして唖然としたあと、額を抑えながら声に出して笑った。
『まったく。色気も情緒もないものだ……』
盛大な溜め息の後で、そっと手を引いてミレイの体を起こすと、先程までの艶めいた空気は霧散していた。
「そっ……それは! だって、水龍さまがお色気ムンムンすぎるんですよ! だだ漏れです!」
『お色気ムンムン? ……なんだそれは』
……ミレイの語録はたまに古めかしいものになる。
『でもそうか。色気を放ってる自覚は無いが、お前の反応を見ていると、どうやら有効なようだな。……ふむ。取り入れてみるか』
「れ……冷静に分析しないで下さい!」
熟れた林檎のような真っ赤な顔で、クッションを胸の辺で抱きしめる仕草が、こちらを意識してます、と言ってるようで、心の柔らかい部分がむず痒くなってくる。
『冷静に分析できない王をお前は良しと思うか?』
水龍の細い指が名残惜しそうに、ミレイの頬と顎をくすぐるように微かに触れる。
睨みつけるような表情も、恥じらいを漂わせてしまっては、むしろ煽られてるとしか思えないのたがな……。まあ、そこも愛らしい……。
「……冷静さは必要ですけど、相手は私じゃなくても良いでしょ? それに私で遊びすぎですよ!」
『……そうか?』
「そうですよ!」
ムキになって怒る様子を楽しそうに眺めて、またほくそ笑む。
『…………異種族間交流』
「…………は?」
不意に零された一言に、ミレイは小首を傾げる。
『お前が言ったんだぞ。
──小さくて可愛いものを見ると触りたくなる、と……。私も異種族間交流をしたくなったんだ。別に良いだろう?』
「なっっ……! そんな昔のことを。
それにさっきのはそんな触れ方じゃ……」
過去の自分の言葉を引用されて反論を試みるも、返ってきた言葉にカウンターパンチを浴びることになる。
『ふむ。どんな触れ方だった? 参考までに教えてくれ』
「……なっっ」
口ごもりつつも、頭の中では先程の光景が見事にフラッシュバックしていた。
説明しろ、なんて鬼畜の所業を事も無げに涼しい顔で言ってくる。
ミレイは頭の奥がくらくらするような思いだった。どうしたって振り回されてるのはミレイの方なのだ。
『どうした?』
「……やっぱり私で遊んでる」
『遊んでないし、からかってもいないぞ。
──それにしても昔って言ってたが、あれはほんの数週間前の話だが?』
「そう……でしたっけ? いろいろありすぎて随分昔の話のように思えます!」
腕を組んでプイッと横を向いたミレイを、掬い上げるように抱き上げ、自身の膝の上に座らせた。
「きゃぁ! 水龍さま、またこれですか!」
『…………いやか?』
拒絶の言葉を発しても、嫌かと問われると……
「別に……嫌なわけでは……」
ゴニョゴニョしながらも拒絶はしない。
自身を許容されることがこんなに嬉しい事だとは知らなかった。
『みれい』
名を呼ぶ。
ただこれだけの行為に心が踊る。
「もう! たしかに私から言ったし、なんなら子供の水龍さまを触りまくったけど、でもダメです!
──これ以上の甘い雰囲気は、私の心臓が持たないからダメなんです!」
自分の腕の中にすっぽり納まりながら、必死に訴えてくる様子に、もっとグズグズに甘やかして、蕩けさせてしまいたい……と、仄暗い感情が湧きおこる。
『ふふっ、そうか。心臓が持たないのなら仕方ないな』
全ての感情をオブラートのように包み込み、優しく微笑む。
──この者に愛されてみたい。
ミレイなら私の全てを受け入れてくれる気がする。
水龍は初めて『愛おしい』という言葉の意味を理解した気がした。
髪を一房掬い、軽い口づけを落とす。
チラリと見上げた視線の先には変わらず赤面顔のミレイがいた。
『今宵はありがとう。私の疲れなどどこかにいってしまった』
その言葉に当の本人はキョトンとしていた。数秒後、ハッと気付いたような表情で「良かった」などと言うものだからおかしくなる。
今の今まで忘れていたのだろうな。
あれほど頭が回るのに、どこか抜けていて、警戒心もない。まったく困ったものだ……。
『さて、と。今夜は帰るとするか』
すると、顔を上げて思わずといった様子でホッと息をついたミレイを目端に捉えた。
……水龍のイタズラ心に火がついた。
──その時、空では薄雲が月を覆い隠すように流れていく。
壁には二人の姿が重なるように、影が映りこむ。
「えっ……?」
『ふふっ』
長身を折りたたむように屈んだ水龍は楽しそうに笑っていた。
「水龍さま!」
『今夜は帰るとしよう。今夜は……な』
クスリと笑って寝室を出て行く水龍さまに向かって、
「この先もずっと帰るんだから! お泊りなんて無いですよ!」と、悪態をついてクッションを投げつけた。
「なっ……なんなの〜。もう……」
乱れた息を整えながらミレイはこめかみに触れた。柔らかい感触と、少し冷たい体温がまだ残っている。
「明日からどんな顔で会えばいいのよ……。もうばか!!」
金色の月が闇の中に浮かび上がる
今夜はまだ眠につけそうにない。