第七話 決意の夜に
アダム王子はそのまま馬車に詰め込まれ、逃げるように帰っていった。私は見送ることもできず、メアリアンの話も聞かずに自室のベッドに引きこもった。
取り返しのつかないことをしてしまった。
ドレスにシワがつくことも厭わず、髪飾りも外さずに私は見慣れたベッドの天蓋を見つめ続ける。
時間がどのほど過ぎたかわからない。暗くなってきた気もするが、目が慣れてしまったせいで暗いのか明るいのかもわからない。
アダム王子の歓心を買いたいあまりに、彼に無理強いした。彼の望むところを知ろうとして、彼にとって望ましくない行為をしてしまった。我欲のために彼を傷つけてしまった。
ゲーム通りだとはしゃいで、推しだ好きだと勝手に偶像化し神聖視して、七歳児の子供だとたかをくくって見下して。
私が彼に子供らしくあって欲しいと願った本当の理由だって、子供の方が扱いやすいから。自分より精神的に成長しているアダム王子を見せつけられて、いたたまれなかっただけ。どこまでいっても自分のことばかり。目の前の相手と向き合おうともしない。
アダム王子は何度も拒絶のシグナルを出していた。私はそれらを無視し、都合良く解釈して自分の思い描いた型にアダム王子を嵌め込もうとした。考えを押しつけるばかりで、相手の考えを聞き入れようとしなかった。
呼吸が浅くなる。体が鉛のように重く、寝返りを打つことさえできない。体が沈んでいく感じがする。暑くもないのに汗が止めどなく溢れ出し、額に髪がへばりついて不快だった。
彼を思いやるふりをして、自分のことしか思いやっていなかった。アダム王子に好かれたかっただけ。
そう、私はアダム王子に愛されたかった! ゲームの主人公イヴのように愛されたかったのだ! そのためにイヴの真似をし、イヴになりかわろうとした!
その結果がこのザマだ。
顔が焼けるように熱い。手足に必要以上に血が巡り、いてもたってもいられない。羞恥心のあまり頭がくらくらする。
なんて痛々しくて、恥知らずで、身勝手な女!
こんなの、アダム王子に愛されていると勘違いし、友人という名の取り巻きを顎で使いながらイヴを執拗に攻撃する、傍若無人なゲームのリリアとなんら変わらない!
どんなに行動を真似しても、どんなに甘言を囁いても、愛されなくて当然だ。
私は主人公イヴではないのだから。
どうあがいても、どう抵抗しても、破滅して当然だ。私はリリアそのもの、いや。
悪役のリリアよりもはるかに卑しい存在なのだから。
ハッ、と息を吐いたきりうまく呼吸できなくなった。体に酸素が回らなくなり、息苦しい。
誰かが部屋の扉を叩く。私は扉を開くことも、返事をすることもできない。
先触れもなく扉は開く。
「リリアお嬢様、失礼いたします!」
メアリアンの声だ。私には彼女を一瞥する力も残されてない。
彼女は部屋の明かりをつけ始める。蝋燭の光が眩く感じる。メアリアンは私に大股で近づくと両手で私の上半身を強引に起こす。
「リリアお嬢様、しっかりなさってください。お気持ちは分かりますが、その気持ちひとつで何もかも台無しにされてはいけません」
メアリアンは真剣に私を心配していた。それでも上半身を起こしている体力が残っていなくて、ふらふらとベッドへ倒れそうになる。メアリアンは私を器用に支え、髪留めを外しドレスを脱がしにかかる。
柔らかい寝巻きに着替えさせてもらったためか、随分心地が良かった。
「お腹が空いたでしょう。ひとつだけでもいいので、どうか召し上がってください」
メアリアンは皿に盛られたサンドイッチを差し出した。レタスとベーコンを挟んだだけの素朴なサンドイッチだった。その香りを嗅いで、私はお腹が減っていたことを思い出す。
私はサンドイッチを一切れ手に取り、ごく控えめにひと口食べた。バターがたっぷりと塗ってあるパンは慣れない独特な味わいで、そのまますとんと胃に落ちる。
「美味しい……」
私はつぶやく。
「そのサンドイッチ、ジョンさんが作ってくださったんですよ。私がリリアお嬢様の部屋に行くって知ったらこれを、って。お腹が空いてるとロクなこと考えませんからね!」
庭師のジョンおじいさんの名前が出てきて私は驚く。彼には嫌われているとばかり思っていたのに。私はもうひと口、もうひと口と食べ続け、あっという間にサンドイッチを食べ終えてしまった。
メアリアンは私をベッドに寝かせ、毛布をかける。
「屋敷の者はあなたを心配しています。みな等しく、あなたを愛しています。だからどうか、今日はぐっすりおやすみください」
慈愛のこもったメアリアンの茶色い瞳から目が離せなくなる。お調子者で、うっかりさんの彼女のイメージが変容していく。
「ねぇ、メアリアン。お願いがあるの」
彼女は笑って私を促す。
「抱きしめて欲しいの」
十六歳の子に甘えるなんて我ながら情けないが、人肌が恋しかった。誰かと触れ合いたかった。
「はい!」
メアリアンは勢い良く私をベッドの脇から抱きしめる。汗と煤の、働き者のにおいがした。
へへへっ、と彼女は笑う。
「……リリアお嬢様急に変わって。みな良かったねって。お嬢様が大人になってくれて良かったねって言ってますけど、少し寂しかったんです。変な話ですけど、抱っこをせがませれてすごく、すんごく嬉しいです」
彼女の柔らかな声が私を包む。
「私、両親が戦争で……。リリアお嬢様が生まれる前に、戦争があったんです。それで、両方とも死んじゃって。
リリアお嬢様が我儘言ったり暴力振るったりするのはおっかないですけど、奥様がいなくなって、やりようのない悲しみからくるものだって何となく分かっていたから。私も、その悲しみをほんの少しだけ理解できるから。私は、私だけは、ずっとリリアお嬢様のそばにいようって」
メアリアンは私を落ち着かせるように、背中を優しくたたいてくれる。
「リリアお嬢様、失礼なことを言います。あなたは確かに貴族ですが、貴族である前にまだ子供なんです。庇護されるべき存在なんです。
悲しかったりつらかったりしたらおっしゃってください。ひとりでなら飲み込まれてしまう感情の渦も、他の誰かと一緒ならきっと乗り越えられますよ」
私は鼻の奥がツンと痛くなる。涙を堪えるためにメアリアンを強く抱きしめ返す。
彼女の体温が毛布越しに伝わってくる。彼女の呼吸音が聞こえる。彼女の心臓が脈打つのを感じる。
彼女は生きている。
彼女はゲームの中のキャラクターではない。
この瞬間も、心臓を絶えず動かし続けている生身の人間だ。
私は漠然と死にたくないから破滅を回避しようとしていた。
今は違う。
私が破滅したら目の前の心根の良い人が仕事を失い、路頭に迷ってしまう。優しい彼女の生命が脅かされてしまう。
私はこの人を、この屋敷に仕えてくれている人々を守りたい。
私は絶対に破滅なんかしてやらない。
破滅したとしても、この人だけは、この屋敷の人々だけは必ず守りきってみせる。
もう『二度と』、失ったりなんかしない!
メアリアンの腕の中で私はそう誓った。