第五十四話 愛憎の果てに
↓
アダム王子はとある客室の扉の前に立つ。何度目かの深呼吸。意を決して彼は扉を叩いた。
「イヴ? いるかい? 僕だ。入るよ」
返事はない。喉を鳴らしてドアノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。
音を立てないように扉を開く。この部屋が陰鬱な雰囲気を纏っているのは、カーテンが締め切られているからではない。毛布に包まり、日がな一日すすり泣きをしている者がいるからだ。
アダム王子はちらとテーブルを見やる。運んでおいた食事は手付かずのまま固くなっていた。彼は誰の耳にも届かない、小さなため息をつく。
「となりに座るよ」
返事は当然返ってこない。アダム王子が足を進めるたびに床が軋む。ベッドにアダム王子が腰掛けると、毛布が少し震えた気がした。
「泣き止んで、とは言わない。でもせめて、何か食べて。……アーサー様のことは心から残念だったと思う、だからって……」
「心から残念だったと思う?」
アダム王子の言葉が遮られる。布団が持ち上がり、布が落ちる。イヴの目は腫れ上がり、髪は狂女のように乱れていた。
「まるで他人事ですね。そうですよね、あなたはアーサー様の死に一切関与していらっしゃいませんから。私はあなたと違う! 私が彼を殺したんです。私が無能でグズなばっかりに、私のせいで! それなのに、『心から残念』で済ませられるとお思いですか?」
「……そうだったね、ごめん。僕が悪かったよ」
イヴは再び涙を流し始める。手を組み、躊躇いがちにアダム王子は言った。
「リリアと婚約を解消することにした」
「……は?」
「リリアと話し合って決めたんだ。後見人のベルナール大公にはまだ話してないけど、なんとかする。だから、イヴ。僕と結婚してくれないか」
時計の針が進む。イヴはアダム王子をまじまじと見つめ、彼は耐え忍ぶように床を見つめ続けていた。
「この、恥知らず!」
沈黙を破ったのはイヴだった。彼女は枕でアダム王子を殴る。
「最愛の人を失ったばかりの私にそれを言うんですか? 傷心の私に付け込もうって魂胆が見え透いて気持ち悪い!」
執拗に、何度も何度も枕でアダム王子を殴りつける。
「リリア様と話し合って決めた? どうせあなたが一方的に言いつけたんでしょう、リリア様がどんなにあなたを想っているか知りもしないで!
あなたはいいですよね。その美貌のおかげで、王族というだけで、『アダム王子』というだけで何もかも看過されて! リリア様はお優しいからあなたの不義を赦すでしょう。リリア様が赦せばテオ先輩もあなたの不貞を赦さざるを得ないでしょう。この世界はあなたにとってとてもとても都合がいい。皆があなたを赦す!」
しまいにはイヴの手から枕がすっぽ抜けて床に転がる。イヴは自身の涙を拭った。
「あなたのせいで私の学園生活台無しですよ。友人を失い、誹りを受け、リリア様と絶縁しかけた。でもあなたは赦されるでしょうね、平民の人生をいくらめちゃくちゃにしても赦されるのが王族ですから。
皆があなたを赦しても、私はあなたを決して赦さない。皆があなたの罪を忘れても、私は生涯忘れない。絶対に、絶対に!」
イヴの啼泣が部屋を支配する。殴られたことによって乱れた髪を直そうともせず、アダム王子はベッドに座り続ける。
「これからの話をしよう」
アダム王子は感情の無い声でぽつりと言った。
「ベルナール大公から聞いたよ。アーサー様の庇護を受けていたんだってね。アーサー様は亡くなられた。君はどうやってこれから生きていくんだい?」
「あなたには関係ないでしょう」
「僕を頼るといい」
その言葉にイヴは目を剥いた。彼女は毛布をたぐり寄せ、身を守るように握りしめる。
「君が望むものはなんでも与えよう。金も地位も男も、君が望むものを全て用意する。代わりに僕のそばにいてくれ」
「……どうしてそこまで私に拘泥するのですか。私はただの平民に過ぎないのに。鍵としての役割だって、まともに果たせなかった」
「君を愛しているからだよ」
頭を抱え、どこか投げやりにアダム王子は続ける。
「君が僕を嫌っていることは重々承知だよ。それでもそばにいて欲しいんだ。
君を見てると愛おしさで気が狂いそうなんだ。好きなんだ。君からの愛は望まない、ただそばにいてくれ。それだけで満足するから、何も望まないように努力するから。お願いだ、君は僕の全てなんだ」
音もなく、四つん這いになりながらイヴは彼に近づいていく。アダム王子も振り返り、熱を帯びた視線が絡み合う。二人は熱に浮かされたように、正気を失ったように唇を重ね合わせる。
「あぁ、あぁ、イヴ、イヴ。僕の人生をめちゃくちゃにしてくれ」
やがて部屋には衣摺れの音と喘ぎ声だけが満ちた。




