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第五十二話 夜明け


  ↓


「……うん、やっぱりだめだったか」


 オールドマン公は白いハンカチーフで己の頬についた血を丁寧に拭き取る。


「アイロニカルな陰謀論者はいつの時代も絶えないけれど、世界を悪しき方向へ導く黒幕は存在しないんだよ。

 人は歪んだ形でしか願いを実現できない無力な存在だから、皆が未来を予見できるほど賢くないから、全員が頭の足りないお人好しだから世界は狂っていく。ひとりの英雄ではなく、無知と誤謬の集合体が歴史を作っていく。

 それでもなお、他者のために祈り続ける人間を私は可憐だと思う。愛おしいと思う」


 彼のかたわらには誰一人いない。傍目からは大きい独り言を言っているようにしか見えない。


「早く出ておいでよ、『血塗れの嫉妬卿』。洒落にならないくらい時間がないんだ」


 彼の背後の草木が揺れる。血だるまになった男が天高く飛び上がり、両腕をオールドマン公に振り下ろさんとする。


「ずるいずるいずるいずるいずるい!」


 男の絶叫。水の跳ねる音。広がるアルコール臭。オールドマン公の手に握られた空っぽの酒瓶。


 オールドマン公が目にも止まらぬ速さで、嫉妬卿の顔面に酒をぶちまけたのだ。

 嫉妬卿からの殺気は急激に萎む。地に足をつけたかと思うと、たたらを踏んでうつ伏せに倒れた。


「……賊は死んだか」

「お前がほとんど殺してんだよ」


 呻くような嫉妬卿の質問にオールドマン公はすげなく返す。彼は服が汚れることも厭わず嫉妬卿を引っ張り上げた。


「魔性は封印するだなんだ言ってこのザマか。いい加減自分の年考えろおっさん。さっさと自分の足で歩け大馬鹿太郎さんめ」

「……すまん」


 オールドマン公はハンカチーフを嫉妬卿の顔に向かって投げやる。嫉妬卿は何も言わずにハンカチーフで血を拭う。

 彼らは西塔に向かって歩き出す。


「レオン、事後処理と娘を頼む」

「……そうやってお前は! 毎度毎度面倒ごとばかり押し付けおって!」

「悪い、頼む。お前しかいないんだ」

「……おい。何を『視た』? 数分後の未来に何がある?」

「数分後に分かるさ」


  *


 テオは私を俵担ぎしながら異界を全力疾走していた。揺れる視界の中私は叫ぶ。


「テオ! また来た!」

「『我らが主たる火の大精霊が昇天すると主の伴侶であり妹、光の精霊は嘆き続けた。

 彼の者を哀れんだ光の精霊の眷属たちは、禁忌を犯し光の精霊を生者のまま天へと昇らせた。人々はそれを月と呼んだ。

 光の精霊は生きたまま天へ昇った罰として、主たる太陽へ永久に追いつけないよう定められた』!」


 テオは叫ぶ。私は背後から迫り来る黒くて長細い鉤爪に一握りのルビィの欠片をぶち撒ける。鉤爪はおよそ生物の出し得ない奇怪な、わななきにも似た音を発して、どんどろりと溶けていく。


 ほんの少しのことだ。

 私はテオに抱きかかえられていた。地面に撒かれたルビィの欠片を辿っている最中だった。先ぶれもなしに天から逆さ吊りとなったビル群の明かりが消え始める。


「真夜中です! 真夜中が来る!」


 テオがそう叫ぶとあたりに漂う甘やかな香りが消え失せた。テオが走り出すと四方八方から手が、冗談みたいに膨れ上がった手が、ひしゃげひび割れ痛々しい手が、人間という存在を冒涜するかのようにでたらめな手が、次々に私たちへ襲いかかった。

 瞬きするたびに世界が暗く染まっていく。地面に撒かれたルビィの欠片が心許なく明滅し始め、輝きを失う物さえあった。

 

「テオ! ルビィの欠片だっけ? まだある?」

「先程お渡ししたので最後です!」


 私は悲鳴を上げそうになるのをすんでのところで堪える。

 ルビィの欠片は使い切ってしまった。ビル群の光が消えてからはどうしてか息苦しく、何もしていなくとも勝手に疲労感が蓄積されていく。テオは驚異的な体力で走り続けているが、限界が近づいていることは明らかだ。外の世界へ繋がる白い洞穴は目前だが、まだ距離がある。

 作り笑顔を顔に貼り付け、私は呵々大笑する。


「なんとかなるわ! だって私とテオがいるんだもの!」


 明々白々の空元気にテオは一笑する。彼はさらに速度を上げる。私はテオの死角となる背後に注意を向ける。


「『我らが主、火の大精霊を失った眷属たちは主を模して蝋から人間を作り上げた。我らが主と同じ褐色の肌を持つのはかく理由である。我らの眼が灯火の如く黄金に輝くのはかく理由である』!」


 テオの祝詞だけでは異形の手の勢いこそ殺せても消し去ることはできない。

 ふしくれだった異界の手が私を掠め、髪を一房引きちぎっていく。千切られた髪は沸騰したように膨れ上がり、腐った匂いを発しながら霧散した。

 全身から玉のような汗が流れる。あの髪が数秒後の自分の姿だと想像して、パニックと恐怖で吐き気がした。


 からんころんと軽妙な音が鳴り響く。

 白と橙色の眩い光が異界に差し込む。


 アダム王子が洞穴のすぐそこで、ルビィのカンテラを掲げているのだ。


「テオ、かがんで!」


 テオはスピードを殺さず頭を下げる。私たちの頭上をルビィのカンテラが飛んでいく。

 アダム王子が投げうったカンテラが地に落ち砕けた。炎のように暴力的で、台風のように強烈な光が異界に広がる。金属を引っ掻いたような、赤子の鳴き声のような音と共に、異様の手は爛れ腐り溶けていく。

 

 テオは私を庇うようにしながら地を蹴る。凄まじい速度で、ほとんど転がるように真白に輝く穴をくぐる。


 視界が白む。体にまとわりついていた空気が、世界が一変する。テオと一緒に宙に浮きながら、外の世界に戻って来れたのだと知る。

 浮いていたのはほんの一瞬。私たちは西塔の床に叩きつけられる。

 テオが守ってくれたとはいえ、衝撃で肺に溜まっていた空気を吐き出し咳込んでしまう。


「リリアお嬢様!」


 すぐさまテオが私を抱き起こした。アダム王子が穴から出てきた姿を視認する。


「イヴ、穴を閉じて!」

「……閉じないんです!」


 アダム王子の声にイヴは半泣きで答える。


「アーサー様に教わった通りにしているのに、穴が、閉じないんです!」


 誰もがその一言に唖然とし、数秒間の空隙が生まれた。


 その致命的な瞬間を狙い澄まし、悪意が形を持って襲いかかる。


 ぶよぶよと醜く肥えた手が穴からにゅうと飛び出て、イヴに襲いかかる。アダム王子は呆気に取られてワンテンポ反応が遅れる。テオは私を抱えているため反応できない。イヴは動揺し、口を開けたまま逃げることも避けることもしない。


「狙うとしたら鍵だよね。鍵さえ壊せば穴を塞げなくなる。私だってそうする」


 イヴを突き飛ばし、彼女の身代わりとなった者がいた。栗色の髪をした眼帯の男。私はどうしてその人物がこの場にいるのか、理解が追いつかない。


「お父様……?」


 黒く肥えた手はお父様の頭を鷲掴みにし、腐臭を周囲に撒き散らす。お父様は黒手によって宙吊りにされながらも、淡々と言葉を続ける。


「イヴ、もう一度言う。想像しろ。穴を塞ぐイメージするんだ。脳内で何度も穴を埋めろ。君には力がある」


 地面にへたり込んでいたイヴは頭を振りかぶる。できないと言わんばかりに頬を濡らす。


「お父様!」


 私は黒手を追いやろうと後先考えず立ち上がろうとした。テオも祝詞を上げながら、黒手に向かって鉄針を投げつけようとする。私の肩は抑えつけられ、テオの手はより頑強な手によって止められる。


「やめろ。今度こそ手がつけられなくなるぞ」


 背後には血と泥まみれのベルナール大公がいた。私は驚きのあまり二の句が継げなくなる。ベルナール大公は苦虫を潰したような表情でお父様を見つめていた。


「イヴ。従え。今は泣くな。目を閉じろ」


 お父様の冷静な声にイヴはおののき、大粒の涙を流しながら目を閉じる。彼女は小刻みに震えていた。


「目を閉じろ。想像するんだ。黒いかいなを穴の中に閉じ込めるんだ。嫌な存在を丸ごと穴の奥へ押し込めるイメージをしろ」


 イヴは目を閉じたまま眉根を寄せる。彼女は必死になって嗚咽を堪えていた。


「繰り返せ。泣くな。想像しろ。何回でもかいなを穴の中に閉じ込めろ。嫌な存在を全て穴の中に閉じ込めろ。イメージしろ。繰り返せ。穴を塞げ」


 イヴは制服のスカートを握りしめる。彼女の息は荒くなり、歯を食いしばる。暗澹たる洞穴が揺らぎ、少しずつ萎んでいく。


「塞げ」


 イヴは再び力強く目を瞑る。穴は確実に塞がれていく。黒手は穴を塞がれんと膨張し、よりゆがんだ形に変容していく。見ていて哀れに思える儚い抵抗だった。穴は非情に黒手を引き裂く。黒手が発する金切声に似た音。

 

 かくして洞穴は閉じられた。


 アダム王子は呆けたように動かない。イヴは床に突っ伏して泣き続けた。テオは私を抱きしめたまま呆然としている。ベルナール大公は油断なく黒手を睨め付けながら、ぼそりと言った。


「貴様も私を置いて逝くのか、痴れ者が」


 洞穴によって引き裂かれた黒手は、見苦しく床に叩きつけられ、お父様を握りしめたまま芋虫のように丸くなって、微細に震えたかと思うと鼻が曲がるような腐臭を放ちながら、どんどろりと溶け消え去っていった。


 黒手のあった場所にお父様がいた。

 私は立ち上がり、お父様の元へ歩く。仰向けに横たわったお父様の顔は目を背けたくなるほどに爛れていた。

 腐臭を放つお父様の体は想像以上に軽くて、抱きしめた体はぞっとするほどまだ温かい。

 涙がひとりでにこぼれ、ただ静かに私は泣き続ける。


 部屋が白む。背後のガラス窓から朝日が差し始めたのだ。光が強くなればなるほど私とお父様の影は濃くなる。お父様の体は冷たくなっていく。



 こうして長い、長い一日の終わった。


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