第四十八話 反吐吐き令嬢と泣き虫王子
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「なるほど、お伽噺の住人も出張ってきたのか。そりゃあ君らの手に余る。……あいつら正統派がどうとかなんとか言ってた?」
アダム王子が頷くとオールドマン公は頭に手を当て大袈裟に苛立ちをアピールする。
「あいつら、自分らの宗教観念に基づいた研究結果しか加味しない癖に正統派とか名乗りやがってんの! 滅んじゃえばいいのに。……いっけね、ブルッフェン家は私たちの祖先がもう滅ぼしちゃってたね!」
大笑するオールドマン公と苦笑いしかできないアダム王子。傍ではテオが羊皮紙の内容を読み込んでいた。
「火の精霊への祝詞と火の精霊による創世記は覚えたかい? いくら邪神がバダブを嫌うとはいえ異界へ行ったら侵食されるだろう、異界に入ったら唱え続けろ。道中にはさっき渡したルビィの欠片を撒きまくれ。それを目印に帰っておいで。ルビィのカンテラは異界で眩く光り輝く。真夜中が来ても必ず君を照らしてくれるはずだ」
テオは頷く。イヴは所在なさげにオールドマン公を見つめ続ける。
「異界の扉を顕現させるのですか? また誰かが、血を流すのですか……?」
イヴの頭に手を置きながら、オールドマン公は彼女の質問に答える。
「イヴ、それは正統派を名乗るお伽噺の住人が勝手に言ってるだけだ。
バダブの間にはとある伝承があってね。テオ、君も両親から聞いてるんじゃないかな? 異界についてさ」
「わたくしは両親を早々に亡くしたので、あまり詳しくは。
……異界は常に現実と隣り合わせで存在していて、薄い壁一枚隔てた先に……」
質問の真を察したテオは目の色を変える。
「そう! そうだよ! 異界は隣り合わせなんだ!
禍ツ力使いは邪神から人ならざる力を借りるんだけど、扉を開かずとも力を行使してたろう? バダブに残る鍵の伝承も扉を開くために血を流したなんて話は残されていない。
扉を顕現させずとも異界とこの世は繋げることはできるんだよ。だって異界はいつもそこにある。それこそこの薄壁一枚隔てた先に」
誰もが希望に目が輝き始める。オールドマン公はイヴの肩を掴む。
「あとは君が祝詞を唱えるだけだ! 『祝詞は鍵が知っている』とされる! さあ言え!」
「……分かりません」
悄然とするイヴにオールドマン公は笑顔で語り続ける。
「なんてね。もう君には一切の期待をしてないから安心してくれ。
……伝承に残ってる祝詞を精査してみたんだ。そしたら祝詞はなんてこない、当時の流行り歌だったらしいことがわかった。
君は初めて扉を開けた時、我を失ったとかなんとか言ってたよね?
私は仮説を立てた。祝詞は鍵を脱我の境地に追い込む言葉であれば、なんでもいいんじゃないか? なんなら鍵がその言葉を唱える必要すらないんじゃないかってね。未来を視る限りその仮説は当たってたみたいだ」
オールドマン公は粘つく嫌らしい笑顔をイヴに見せた。
「君は本当に男の趣味が悪い」
そう言うや否や彼はイヴの耳元で何やら囁いた。イヴの頬は一瞬にして紅潮し、そのまま膝から崩れ落ちる。
イヴの眼前に一筋の光が差す。その光はやがて縮こまってようやく入れるような、小さな洞穴を象った。
「いよいよだ。テオ、穴が完全に空き次第行け、飛び込め! アダム王子、万が一の時はイヴを連れて逃げろ。鍵に死なれちゃ穴が空きっぱなしで虚ができる」
オールドマン公は超然と佇み、テオはカンテラを握りしめる。アダム王子も指示通りイヴを庇うように立つ。
かくして洞穴は開かれた。
洞穴の先は生命の根源的な恐怖が駆り立てられる闇が、あてどなく広がっていた。見ているだけで身が凍え、息もできなくなるような冷徹な世界があった。
巨大な扉が崩壊した時のように暗闇がこちら側に溢れてくるような様子はない。ただ、隙を見てこちらの世界に転がり込もうと狙い澄ましているかのような、油断ならぬ底知れない悪意を漂わせていた。
鳥肌が立ち汗が滲む。本能が生命の危機を声高に叫ぶ。
むせかえる腐りかけの果実の香りが、愛する者を異界に奪われた記憶を、愛する者を殺害した過去を想起させた。
心を穿つトラウマを鋭く刺激され、さしものオールドマン公ですら釘付けになる。一歩も動けなくなる。
緊張と恐怖で張り詰めた空気をよそに、異界の小さな洞穴に飛び込んだ者がいた。
その者の名は、
*
そういえば前にも、みんなを置いてひとりで突っ込んでいったことがあったな。
私は毒瓶を煽る寸前。何年も前にベルナール大公と対峙した記憶を思い出す。ベルナール大公からテオを解雇するよう命じられ、その撤回を求め直談判に行ったのだ。
当時はこの方法でしかテオを救えないと思い込んでいて、それこそ決死の覚悟だった。
私は苦笑いする。
アダム王子にベルナール邸まで案内してもらって、執務室の前で彼と別れた。彼を巻き込みたくなかったから。結局アダム王子は約束を破って扉の中に入ってきたのだけれど。
アダム王子、鼻水を垂れ流して泣き喚いて、かっこ悪かったけどかっこよかったな。
走馬灯だろうか? アダム王子の泣き声が聞こえた気がした。
アダム王子は泣き虫だ。私の前では特に、簡単に涙を流す。そんな泣き虫王子が成長して、心から愛する人を見つけて、大演説して、みんなを最後まで引っ張って。
私の記憶にはいつだってアダム王子がいた。
「リリア! リリア!」
花に吸われて意識が朦朧としているのだろうか?
「リリア!」
違う。
私は目を見開き声のする方を見やる。
アダム王子だ。
アダム王子が涙を止めどなく流し、鼻水を垂らしながら私に向かって走ってきていた。
私は目を疑った。
ここは異界だ。私がしくじって異界とあちらの世界がつながったのか? 否、扉は間違いなく閉じられたのだ。どうして守りたかった存在が異界にいる?
ベルナール大公の部屋へ泣きながら入ってきた彼と、異界を疾走する彼の姿が重なる。
「どうして……」
困惑がそのまま言葉に出る。アダム王子は顎に皺を寄せ、顔を醜く歪めながら大声を上げた。
「ずっとそばにいるって言ったのはリリアじゃないか!」
『「リリア様はいなくならないで。ずっとそばにいて」
「ずっとそばにいますよ」
「本当?」
「うん」
「そっかぁ」』
子供だった頃、ベルナール邸にて彼とベッドで語り合った会話を思い出す。ふたりとも眠気でぽやぽやしたまま交わされた、大切な約束。彼はその約束のために、こんなところまで駆けて来たのだ。
彼は私の体に生えた薔薇ごと、反吐まみれの私を抱きしめる。その拍子に毒瓶が私の手から落ちて割れる。
「君は僕の運命の人じゃないかもしれない。それでも、僕はリリアにいて欲しい。君と一緒にいるためなら、どんな苦労でさえも愛しいと思えるんだ」
現実に追いつけなくてぼうとする。
アダム王子に抱きしめられながらふと思う。
反吐まみれの反吐吐き令嬢。
涙まみれ鼻水だらけの泣き虫王子。
鏡合わせのようによく似た、みっともなくて見るに耐えない情けないふたり。取り繕ってもボロばかり出る、どうしようもない私たち。
だからこそ私たちは深く惹かれ合ったのだ。かっこ悪い私たちだからこそ、互いを愛しあったのだ。




