イヴの半生 後編
バイバイシリアス。
とんとん拍子で私は入学することになりました。
ひょんなきっかけからアーサー様の娘、リリア様と交友を持てたことは幸運でした。
リリア様は美しいお方でした。烏の濡れ羽色の豊かな髪、磨き抜かれた肌は羨望の的でした。何より切長の茶色の瞳が、アーサー様によく似て麗しい。
私は一目見て彼女が大好きになりました。
リリア様は優しいお方でした。平民を公然と差別する貴族も多い中、偉ぶらずにひとりの人間として私と向き合ってくださる。私の主義主張を必ず一度は受け止めてくださる。いつだって私の話を面白がって聞いてくださる。
アーサー様の性格とはまるで正反対だけれど、彼女が愛しくてたまらなくなりました。
リリア様の婚約者のアダム王子からもよくしてもらいました。人との距離が近い方なので少々驚くことはありますが、お金持ち特有のおっとりした雰囲気を持つ方でした。
リリア様の従者であるテオ先輩は、わかりやすく私を嫌っていました。
意識しているかのように私に対する不快感を露わにし、悪態をついて嫌われようと努力される。私をリリア様たちから遠ざけようとしている。
テオ先輩がそのような行動を取る理由は理解できました。私とリリア様とは身分が違い過ぎます。平民と近づけたくないという気持ちは痛いほどわかります。
中間考査前、四人揃って図書室で勉強会をしていた時がありました。
勉強中にふと顔を上げると、リリア様とアダム王子が肩と顔を寄せ合って眠っていらっしゃいました。姉弟のように寄り添う姿はおふたりの分かち難い関係を雄弁に物語っており、不可侵な空間が生まれていました。
テオ先輩はリリア様のために準備したであろう膝掛けを手に持ったまま、立ち尽くしていました。
先輩の目を見て、詫びしげに佇む姿を見て、彼がリリア様にどんな想いを抱いているかすぐに理解しました。
「報われない恋をなさっているのですね」
私のつぶやきはテオ先輩の耳に届いたようでした。彼は私を怒鳴り飛ばそうとしますが、目を逸らして口を閉じます。同類の匂いを敏感に感じ取ったのでしょう。
先輩はどこか茫洋とした目をしながら、ぼやくように言いました。
「実らない恋など、無駄だと思うか?」
私は有用な答えを持ち合わせていませんでした。テオ先輩は足音を立てないようにそっと近づき、おふたりの邪魔をしないよう控えめに毛布をかけます。
「……このお方は、一生を捧げるに値する素晴らしい方だ。その人に出会えた。その人を愛することができた。それだけで、この恋をした甲斐があった。……そう思う」
テオ先輩はおふたりから離れた席に腰を下ろしました。眩しいものを眺めるかのように目を細め、普段の彼からは想像できないほど穏和な瞳で彼らを見つめます。
「リリア様の幸せはアダム王子と結婚されること。周囲も、本人もそう望んでいる。
……アダム王子はバダブの民であるわたくしを友と呼んでくださった。世界で一番愛した女性と、唯一の友が幸せになる姿を見守りたい。それだけが、たったひとつの願いだ」
そこで先輩は我に返り、忌々しそうに舌打ちをします。
「……話し過ぎた」
それきりむっつりと黙りこくってしまいました。
リリア様は風変わりでいらっしゃいました。容姿を褒めても「リリアだからね」とまるで他人事のように聞き流す。性格が好きだと伝えても苦笑いする。どんな言葉もリリア様の心の深い部分に響かない。
四大貴族オールドマン家の唯一の跡取りであるにも関わらず、自身の価値を驚くくらい軽視している。自己犠牲の度が過ぎる。自分を代替可能な存在だと思い込んでいる節がある。
リリア様は優しいお方ですが、その瞳にはアダム王子しか映っていませんでした。アダム王子以外眼中にないから、自分に向けられた好意に気付かない。
性格こそアーサー様に似ていませんが、人の愛し方は同じ。この人たちは家族なのだと、改めて感じ入りました。
アーサー様によく似た人。優しく、危うい人。
私はリリア様の評価を改めました。
*
リリア様とテオ先輩は次のテストに向けて東館で勉強しており、私はアダム王子に誘われふたり放課後の教室で他愛無い会話をしていました。
私は気づくべきでした。どことなくアダム王子が挙動不審だったことに。男女がふたりきりとなることにもっと警戒するべきでした。リリア様との仲睦まじい姿を見、私を恋愛対象として見ていないと勝手に思い込んでいました。
夕焼けで教室が赤く染まる中、私はアダム王子に口づけをされました。衝撃のあまり、拒絶することもできませんでした。
そしてその姿をあろうことかリリア様とテオ先輩に見られてしまった。
頭が真っ白になりました。
リリア様がどの程アダム王子を愛していたか知っています。すぐとなりで見ていたのですから。
リリア様は私たちを責め立てるどころか祝福してくださいました。私たちへの気遣いが心苦しくて、罪悪感で腹が裂けてしまいそうでした。
「あなたはそうやって、わたくしがいくら望んでも手に入らないものを軽々と投げ捨てる男だったのですね」
去り際に言った、テオ先輩の言葉が頭を離れません。
ふたりがいなくなってどのくらい過ぎたでしょうか。アダム王子はフラフラと近づき、私を抱きしめました。
「ごめん、ごめんね。イヴ、君を愛してるんだ」
愛してるという言葉がここまでおぞましいものだとは知りませんでした。私にはアダム王子の求愛を拒む勇気がありませんでした。
その日から何もかも様変わりしました。
リリア様とテオ先輩が私の前から姿を消しました。元々存在なんてしてなかったみたいに。
生徒たちから、特に貴族の方々から陰惨な嫌がらせを受けるようになりました。陰口悪口は序の口。物を隠され汚物を自席に置かれ自室を荒らされ。
リリア様以外の、数少ない友人からも敬遠されました。私だって平民の子が、婚約者持ちの貴族の寵愛を奪ったと聞いたら距離を置きます。その子の倫理観を疑います。
アダム王子もそのことに気づいていて、ことあるごとに私を庇い、私へ嫌がらせしてきた貴族へ文句をつけます。それが返って敵意を育む。更なる嫌がらせに発展する。
アダム王子を拒絶したとして、もう失った友人も信頼も戻ってこない。リリア様にも私はどうしようもなく嫌われてしまった。アダム王子の好意を頼り、彼に縋るしかなかったのです。
どこを歩くにもアダム王子がとなりにいてくださいました。
アダム王子と言葉を交わすたびに、リリア様が私のうしろでぢっと見つめている気がする。怨みがましい目で、私たちに呪詛を吐き続けているような気がする。
怖くて振り返ることもできません。
アーサー様が盲愛するリリア様の婚約者を奪い取って、私は何をやっているんだ? リリア様を守るために入学したんじゃなかったのか?
これでは、アーサー様に愛してもらえない!
一歩歩くたびに申し訳なさで死にたくなる。呼吸するたびに自己嫌悪に苛まれる。
アダム王子に愛されることが痛かった。愛されて愛されて傷付いて。愛にくたびれ切った時、先生方の大虐殺が起きました。
*
「アダム王子!」
先生方が亡くなった直後、アダム王子が行った電撃演説。舞台袖に戻ったアダム王子は息荒く、皆の目から隠れた途端に座り込んでしまいました。
私はアダム王子に駆け寄ります。
「情けないね、イヴ。見て。こんなに手が震えて。どうにかなっちゃいそうだ」
彼の手は尋常ではなく震え、全身から汗を止めどなく流していました。
「これでもう引き返せなくなった。……一週間で船なんてくる保証なんてないのに、大ボラ吹いて、はははっ。慣れないことはするもんじゃないね。このツケはとんでもないことになりそうだ」
生徒たちの騒々しい声が聞こえてきます。誰もがアダム王子を称賛し、彼の指示を今か今かと待ちわびていました。
アダム王子は私の頭を撫でて疲れたように笑いました。舞台上で見せたカリスマの顔ではなく、年相応の少年の笑顔でした。
「王族としての義務を果たしてくるよ。必ず君を守るから」
アダム王子はその日から一部の生徒たちを従え学校全体を文字通り支配しました。もちろん強硬な政策を取るアダム王子に反感を覚える生徒もおり、怒気のこもったまなざしを浴びることもありました。
アダム王子はストレスと精神不安から目に見えて弱っていきました。彼が制服のジャケットを脱いだ時、あまりにも細くなってしまった腕に愕然としました。
「テオから密通が入った。敵は次の新月の日に僕を暗殺する腹づもりみたい。しかも敵の正体は僕のお兄様だ。一番、仲の良かったお兄様なんだ。笑えるね」
演説から数日後、ふたりきりの教室でアダム王子に言われました。
「僕といたらイヴも危うい。食堂にいるリリアのところに行って。リリアならきっと君の心を支えてくれる。
星辰教信者のローブも手に入れた。星辰教に入信したふりをするんだ。そして新月の日をやり過ごして。星辰教にはテオも紛れ込んでいる。『友からの頼みだ』って伝えて。そうすればテオは君を見捨てられない」
「アダム王子はどうなさるのですか。他の人だって……」
アダム王子は苦笑しました。彼は机の上に座り、遠い空を見つめています。
「僕は皮膚を鋼より硬くできるんだ。このことはベルナール大公とオールドマン公爵、テオしか知らない。大丈夫、ちょっとやそっとじゃ死なない。
……僕は、王子だ。生きている国民のために最善を尽くす義務がある。でも、それを打ち捨ててでも君だけは守りたいんだ。
腐れ冷血漢と言われても構わない。そのためなら婚約者が僕に向ける好意も、テオが宝物みたいに大切にしてる友という言葉の重みすら利用する」
血反吐を吐くように、自身を苛むように言葉を続けるアダム王子。彼の発言は震えるほど冷たいものでした。
「イヴ、イヴ。君を愛してるんだ」
*
アダム王子に逆らう意志の強さなんてなくて、結局は彼の指示通り動きました。
彼の思惑通りリリア様は私を赦し、更には護身のための短剣まで与えてくださいました。アーサー様から賜った物だそうです。ルビィの美しい輝きを見、この短剣はリリア様のために振るうことを誓いました。
星辰教に紛れる旨をテオ先輩に伝えると、最初は難色を示されました。友という言葉を出した途端、腹を立てながらも私へ新月の日の詳細を伝えてくれました。
「……新月の日、リリア様はどうされるのですか?」
質問すると、テオ先輩は敵愾心剥き出しに言いました。
「貴様がリリア様の身を案ずるな。新月の日は口外するなよ。リリア様にもだ!」
私ひとりだけ助かることが申し訳なくて、バイオレットさんに星辰教徒となるよう説得もしました。
「……もし、星辰教に入らないと危険だとして。星辰教徒でない生徒は誰が守りますの?」
バイオレットさんは穏やかな表情を私に向けました。
「私はバイオレットである前に貴族ですの。貴族が平民に称揚されるのは、貴族としての責務を果たすからですわ。私は最期まで自分が大好きな自分でいたいの。
ねぇ、イヴさん。あなたはご自身が生きる為の最善を尽くしてくださいまし。あなたは私の大切な、その……。あの……。とっ、ともだちっ、だから……」
時は流れて、新月の日がやってきました。
*
何を間違ってしまったんだろう? どうすれば良かったんだろう?
私は回想を終え、歯を食いしばって西塔の階段を登りきります。
「……あの黒くて、大きい扉は閉じられていました! 何もかも、元通りに……。テオ先輩が言っていた船も、無事でした……。ただ、ミハイル王子も、あの子供も……。リリア様も、どこにも……」
そこまで言うと視界が涙で歪みます。足元から崩れ落ちてしまうような悲しみに、必死になって争います。
リリア様が消えた。アーサー様に守れと言われた、私の大切な友達!
「リリアの嘘つき! ずっとそばにいるって……! お母様みたいに、いなくならないって約束したのに!」
アダム王子は火がついたように泣き喚きます。人目も憚らず、駄々っ子のように。
テオ先輩はますます深刻でした。力なく塔の壁に寄りかかって座り込み、目は虚ろ。生気は感じられず、急に老け込んだように見えます。
もう、どうしていいかわかりませんでした。
ねぇ、リリア様。あなたならどうしていた?
その自問自答も、粗暴に開けられた扉の音で遮られてしまいます。
「なんだお前ら!」
星辰教のローブを羽織っていましたが、明らかに生徒と呼べる年齢ではない三人の男たちが現れました。男たちの手には血濡れた剣が握られ、怯えている様子でした。
「どけ! 殺すぞ!」
「おい待て! バダブがいるぞ!」
ひとりの発言で、男たちの意識が入り口近くのテオ先輩に向けられます。
「お前だな、裏切り者が!」
男の一人が剣を振り下ろしますが、テオ先輩は避ける素振りすら見せません。
胸に突き立てられる凶器と鋭い金属音。私が悲鳴を上げようとしたその時です。
「私の可愛いリリア、お待たせ!」
高らかに叫びながらそのお方は現れました。あまりに場違いな名乗りに皆が目を向けます。四人目の乱入者は肩で呼吸しながら叫びました。
「このかっこいいおっさんをどなたと心得る! 恐れ多くも四大貴族が一角オールドマン家当主、アーサー・オールドマン様であるぞぅ!」




