イヴの半生 前編
数年前の記憶。
そこは聴取室。眼前に鉄格子があり、看守は私の一挙一動に目を光らせていました。空腹で何も考えられません。手足は鎖で拘束されていました。
鉄製の扉が開かれます。栗色の髪、黒い眼帯に覆われた右眼。そして嘘臭い笑顔を携えた男が現れました。看守は黙って立ち去ります。
「初めまして、私はアーサー・オールドマン! 見た目はただのイケおじだけど、何を隠そう四大貴族が一角オールドマン家の現当主さ。気軽に崇め奉ってくれて構わないよ。君、イヴって名前なんだよね?」
私は頷きます。
男は歓喜しました。鉄格子越しに握手を求められ、私は唖然としてしまいます。心底愉しげに男の瞳は揺れていました。
「そう、君はイヴなんだよ! イヴでなければならない! 異界の扉を司る鍵、異形の神に選ばれしひとり巫女は必ずイヴという名前を持って産まれるんだ! 私はずっと君に会いたかった!」
男の言っていることが全く理解できませんでした。彼の興奮に反比例して私の心が冷めていきます。
「君は事件の重要参考人だ。事件に関係のないことでもいい。私は君の全てが知りたい。語ってくれるね? 君の半生を」
*
私の生まれ故郷は戦争の爪痕残る貧しい村でした。皆一様に疲れ切った表情をし、爪の先に火を灯すような生活をしていました。
私には母がいました。母は私のために働き続けました。働いても働いても生活は楽にならず、食糧は減り続けました。私はいつもお腹を鳴らして、いつも食べ物を探していました。
生活苦から、母は私を売ることにしました。売られる前夜、母は聞いたこともないような温かい声でささやいたのです。
私はお前を愛している。愛しているよ。
あぁ、なんとかわいい、私のひとり娘!
その一言だけで救われた心地がしました。奴隷商に売られる悲運も、理不尽な貧苦も、何もかも受け入れられる気がしました。
だって私はおかあさんの、たったひとりの愛娘なのですから。
過酷な肉体労働も、空腹のあまり眠れない夜も、母のあの言葉のおかげで耐え忍ぶことができました。
『お前を愛している。愛しているよ』
可哀想なおかあさん。私と離れたくなかったんだわ。それでも生活が苦しくて仕方なく私を売った。おかあさん、寂しい思いをさせてごめんなさい。
必ず帰るわ。帰って、私もお母さんを愛してるって伝える。必ず。
あの言葉は私にとって、いかなる食料より価値のある言葉でした。
売りに出された翌年の暮れ、私は流行り病を患い、まともに働けなくなってしまいました。
私を憐れんだ奴隷商は、ペシュコフ公が利権を持つ炭坑へ働きに出るよう取り次いでくださいました。
さらには炭坑までの道中にある、私の生まれ故郷に寄ってくださったのです。
情け深い奴隷商に感謝しつつ、私は母に挨拶するため家へと駆けます。走り出すとすぐ息が切れ、咳には血が混ざっていましたが関係なかった。話したいことが山ほどありました。
おかあさん、ずっと会いたかった!
私、一生懸命働いたの!
聞いて、ペシュコフ公の鉱山で一年勤め上げることができたら奴隷の身分を解放してくれるって!
母はすぐに見つけることができました。
私は足を止めました。呼吸が重くなり、心臓が張り裂けるんじゃないかと思うくらいに脈打ちます。
母は見たこともないハンサムな男の人と歩いていて、腕には赤子を抱いていました。三人の距離が、親密さが他人ではないことを自明なものとしていました。
おかあさん。
私は掠れ声で何度も母を呼びました。手を伸ばし、三人に近づいていきます。
おかあさん、その腕に抱いている子は誰?
おかあさんの娘は、おかあさんが愛しているのは、私だけでしょう?
知らない男の人が私に気づいて振り返り、母を庇うかのように立ちはだかります。
「金はないぞ、失せろ乞食!」
男の人は威嚇するようにがなりました。服は擦り切れ穴だらけ、顔を泥だらけにした私はなるほど確かに物乞いにしか見えないでしょう。
それでも私は母と話がしたかった。抱きしめてもらいたかった。愛していると額に口付けてもらいたかった。
おかあさん。
私は世界で一番大切な人を呼びます。
母はその声でようやく、私が娘であると気づいた様子でした。驚きはほんの短い時間。眉間を寄せ歯を剥き出しにし、痛烈な嫌悪の情を示します。
男の人が振り返ると母はころりとそれらの表情を捨て、きれいでありふれた笑顔を見せました。
「知り合いかい? 君を呼んでるみたいだけど」
いいえ、あんな子知らないわ。
きっぱりさっぱり母は断言しました。もう母は私を瞳に写していませんでした。私は母の言っていることを理解できませんでした。
知らない? 嘘だ、だって私はおかあさんに愛されているんだもの、知らないはずないわ。
私はおかあさんに愛されている!
おかあさん。愛しているわ。
私は泣きながら叫びました。母は私に一瞥もくれず、鼻を鳴らして言いました。
気持ち悪い。
*
「そこから記憶が曖昧になって。気がついたら、目の前の地面がずっと、ずうっと先まで抉れてて。おかあさんも、となりにいた男の人も、おかあさんが抱っこしてた子供もいなくなっていたんです。私がやってしまったんです」
男は頬杖をつきながら、嘘臭い笑顔を私にむけていました。
「本当に申し訳ない。おかあさんにもいつも言われていたのに。私が何もかも台無しにするって。私さえいなければおかあさんは幸せになれたって。
私がちゃんとしていたら、誰も傷つけなかった。私が良い子だったら、おかあさんは私を拒絶なんてしなかった。だっておかあさんは私を愛してくれているから」
男は首を傾げます。表情豊かな左眼が隠れ、黒い眼帯が私を睨め付けます。
「めんどくせぇクソ女」
背筋が凍えてしまうほど淡白な声でした。
「君の世界観は徹底してるね。君と、君の母親しかいない! 確かに君は謝罪した、でもその謝罪はあくまで母親に対してのみだ。君が理不尽に殺した無辜の人々への謝罪の言葉ではない。自己中心的で、嫌な女!」
「……やめて、ください。大きな声、苦手なんです」
「ふぅん、その腕の火傷とも関係がありそうな話だね。奴隷貸しは商品価値を落とすような小汚い火傷付けないし、借りた方もそんなことしないだろうさ。借り物だからね!
さて、じゃあ誰が君を大声で怒鳴り散らしながらそんなことしたのかな?」
男は嫌味たっぷりにたずねてきます。私は耳を塞いで、吐血しながら叫びます。
「おかあさんは言いました! 私を、愛していると!」
「どうせ奴隷商に売られる前の晩にしか言われてないんだろ? ははっ、ありがちありがち。
君の母親はね、我が子を売り飛ばす罪悪感を軽減するために『我が子を愛している母』を演じただけだよ。別れ際に無責任な愛を押しつけてものの見事に子を縛り付ける。君たち親子は揃いも揃ってクズだねぇ!
君が幸せになれる方法を教えてあげようか? 向き合うんだ、母親に愛されなかった事実とね。でも無理だよね? 母親に愛されてるってことが、自身に抱いている唯一の存在価値だから。どうあがいても幸せになれないな君は!」
男の哄笑が耳鳴りのように響きます。涙で視界が歪みます。
「いやごめんごめん。君みたいなクソ女大嫌いだから、ついいぢめ抜いちゃった。悪意も悪気もあったよ。ごめんね!
こっちは君がいくらクソ女であろうと手元にさえいてくれればなんだっていいんだ。
ありのままの君が一番さ! 幸せになれないだろうけど、私関係ないし!
そうだね。詫びに君の文脈で最高の提案をしてあげるよ。
君のおかあさんは罰を望んでいる。罰を受ければあるいは、君のおかあさんも君を赦してくれるかもしれない。
私についておいで。死んだ方がマシだって思えるくらいの苦難を、罰を君に与えるよ。きっとね! 大丈夫、私の勘は当たるから!」
格子越しに差し出される男の手を、私は取ってしまいました。
*
「君はね、特別な能力を持っているんだ。小規模の虚の発生及び君の母親を含めた村人十余人が失踪した今回の事件は、その能力が暴走した結果さ」
牢獄から連れ出された私は男の、アーサー様の横顔を見つめ続けました。
「君はつまらない癇癪で無関係の人々を殺した咎人だ。それと同時に異形の神から寵愛を受けた選ばれし人間でもある。
君は神から与えられし能力を制御する術を学ばないといけない。それが人より優れた能力を持って生まれた者の義務だ。
……でもまぁ、私でさえ制御の方法とかサッパリなんだけどね! できない時はできないから。安心も信頼もしないでね!」
あっけらかんと笑うアーサー様に大きな不安を覚えます。彼の手を取ってしまったことを深く後悔しました。
ただ、心底愉快そうに動く茶眼から目を離せなくなりました。
その日から私はアーサー様に随伴することとなりました。
良いお医者様を紹介してくださったこともあり、私の体調はみるみる快方に向かいました。
アーサー様は私に異国の詩やらバダブの民謡やらを朗誦させました。
「うーん。やっぱり異界の扉は開かれないかぁ。伝説に残ってる鍵の祝詞はハズレ。手詰まりだ。『祝詞は鍵が知っている』……。ねぇ、なんか頭に直接ありがたいお言葉とか降ってこない?」
私が首を振るとアーサー様は露骨に肩を落としました。
「祝詞、祝詞さえ分かればまだ違うんだけど。……ん? 力が暴走した時、君は何も言ってなかったんだよね? もしかして祝詞無しでもできるってことじゃない? ちょっとやってみようか」
扉を開く実験は幾度となく繰り返され、実験の数だけ失敗を重ねました。
アーサー様は王都で公務を果たす傍ら、時間さえあれば「フィールドワーク」と称して国の方方へ足を向けました。
オールドマン家には帰らず、貴族やら商家の家を転々とする。アーサー様と親しい方は大概女性で、見目麗しい。そして私に嫉妬の眼差しを向ける。
アーサー様は貴族でありながら平民と、特にバダブの民との交わりを持つ変わった御仁でした。友のように親しく語らい、幾度も交渉してバダブの秘儀に参加する。彼らの言葉を羊皮紙に書きつけ、勤勉に本を読む。その姿はまるで学者先生のよう。
「バダブと関わってた方が安全なんだ。私は爆弾なんだよ。知り過ぎた。私の愛し子を巻き込むわけにはいかないんだ」
馬車での移動中、アーサー様がポツリと言いました。憂いを帯びた彼の横顔は美しく、思わずぢっと眺めていました。
私は貴族の邸宅にお邪魔している時、アーサー様に質問したことがあります。
「私が片目になった理由?」
信じなくてもいいけど、とアーサー様は前置きします。
「この右眼はね、数千年先まで見通す事ができたんだよ。でも人間の脳はそんな知識量処理しきれない。覚醒して、情報が溢れて、脳が壊れる寸前に右眼を抉り出したんだ。だから私は片目。
左眼だけじゃ数分先の未来しか見えない。私はポンコツになった」
音楽の調べよりも美しい声に私は思わずうっとりしてしまいます。そのまま彼はこの家の主人の部屋へと去り、朝まで戻りませんでした。
「あの女たらしに惚れるんじゃないぞ」
四大貴族が一角ベルナール・レオン大公の元にひとり預けられた際、私は忠告を受けました。
「あいつは女を犬猫か何かだと思っている。同じ人間として認識していない。自分に惚れた女どもを順位付けして争わせて遊んでいる、真性のサイコパスだ!
救いようのないナチュラルボーンサディストで、努力家のマゾヒスト。それがあのナルシストの本性だ。呪われろ忌々しい!
クソッ、娘の誕生日だからってガキの面倒を押し付けおって……! 私とてリリアの誕生会に行きたかった……!」
後日。王都に戻る最中、私はアーサー様にたずねます。
「私がマゾ? まぁ、そうなるようにしたからね。
私の左眼ってポンコツだから、眼に見えていることが『今』の出来事なのか数分後の『未来』の出来事なのかごちゃごちゃになっちゃうんだ。困るんだよこれがさぁ。特に楽器弾く時。自分がどこ弾いてるかわからなくなる。楽譜がこんがらがって、めためたな曲弾いちゃう。
……話が逸れたね。確認に一番手っ取り早いのが痛みなんだ。痛いのが『今』。痛いの嫌がってちゃ話にならないから、痛みを快楽に読み違えるよう調教したんだ。
君も暇な時私を殴ってくれて構わないよ」
暖かな茶色の瞳が私の心を捉えて離しません。胸が暖かい感情で満ちていきます。
アーサー様にはリリアと呼ばれる御息女がいらっしゃいました。
「君と同じくらいの歳だけど、君よりはるかに可愛くていい子なんだ!」
私は彼女に対してどろりとした嫉妬を覚えました。
アーサー様には御令室がいらっしゃいましたが、何年も前に失踪してしまったそうです。
「私がこの世で最も愛する女性だよ」
私は彼女に対して激しい嫉妬を覚えました。
アーサー様は孤独な人でした。最愛の女性を失い、溺愛する娘とは訳あって一緒にはいられない。憐れな人でした。
いつもバダブの研究や娘のことしか考えていないから気まぐれに女性を扱う。平然と女性に手を上げる。面倒見が良い女性、神経衰弱になっている女性を見つけることに優れている。
幾多の女性がアーサー様に溺れ狂っていく姿を見ました。
私は豪奢な椅子へ腰掛けるアーサー様に口づけします。煩わしそうに彼が私へ目を向けました。今だけは、私だけを見てくれている。
ときめきで胸が潰れそうになります。
「愛しています。アーサー様。
おかあさんもアーサー様も、私が邪な存在だと看破しました。事実、私は悪辣で唾棄すべき存在です。あなた方ふたりは正しい目を持った、真人間です。私は真っ当な人が好きです。
アーサー様、ちゃんとおかあさんが私を嫌っていると、憎んでいるという事実を真正面から受け入れましたよ。こうすれば少しでもあなたの好みの女に近づきますか?
愛しています、アーサー様。愛してください、アーサー様!」
アーサー様は鼻で笑いました。
「君は男を見る目もないんだね」
*
ある日アーサー様が慌てた様子で帰ってきました。
「リリアの異界の匂いが強くなってる」
顔は青白く、脂汗を流しています。彼はふらふらと歩き、あらゆる家具を倒し、そのまま床にへたり込みます。
「なぜだ? テオか? テオの匂いも強くなっていた、本はもう気付かれている。だがその程度じゃこれほどの匂いは……未来視の開眼? リリアは過去視だ、未来と過去の両の眼が開眼した? いや……学園?」
うわ言のようにつぶやきはほとんど私に聞こえません。アーサー様は床に散らばった書類をかき集め、目を血走らせて紙をめくります。
「コンスタンティーノの資金移動、ミハイル王子の留学、ペシュコフの沈黙……。リリア、アダム王子。四大貴族の血筋が全て揃う。孤島……」
手を急に止めたかと思うと、アーサー様は甘いマスクを私に向けます。
「うん、なんかあるね。今後の憂いを今回で絶とう。
イヴ、入学試験上手いこと改竄させておくから学園へ行ってきてくれ。私のかわいいリリアを命懸けで守って。下手したら死ぬかもだけど、構わないよね?」
名前を呼ばれたことに震えるほど興奮し、アーサー様に頼られたことが嬉しくて、必要とされている実感が湧いて胸が苦しく、私は何度も頷きます。
「それがあなたの望みなら」




