第四十三話 私が「私」だった頃 後編
後輩が辞めて数日過ぎた。彼女のやっていた雑務が全て私に回ってきていたので、食事中すら仕事をしていた。仕事のミスが増え、怒られる回数も増えていた。
「仕事が増えたからミスは仕方ない、って思ってんじゃないの? そういう甘えがミスの増えた原因なんじゃないの? もう二年目なんだからしっかりしてよ」
すみません、としか言えなかった。職場の人たちはいつだって正しいことしか言わない。
そんな時だ。後輩の両親が会社に乗り込んできた。
うちの娘はこの会社のせいで精神病を患った。それにも関わらず、自己都合退職として処理するとはどういうことか。会社都合退職とするのが適当ではないのか。おたくらの会社、おかしいんじゃないか。
こちらは娘を守るためならば、裁判をすることも辞さない。
彼女の両親は受付に、猛烈な勢いでまくしたてたそうだ。
その日、課の上席者は会議で席を外していた。社長はいたが、最初から社長を出してしまうのは上手くない。その場で結論を出さねばならないし、決まったことの引っ込みがつかなくなる。そこで私に白羽の矢が立った。
「最初の数分だけでいい、御両親の対応をしてくれないか。うんうんと話を聞いているだけでいいから。それにほら、君は彼女と仲良かったじゃないか。君であればあるいは、彼女の御両親も穏やかに話し合ってくれるかもしれない」
行きたくなかった。心臓が縮こまる思いがした。断れなかった。そういう応対をするのも仕事だ、と言われてしまったから。
私の手は震え、手汗で上手く扉の取っ手も握れない。
応接室にはでっぷりと太ったごま塩頭の男性と、神経質そうに目を光らせる針のように細い女性がいた。その人たちの面影から間違いなく後輩の父母であることを知る。二人とも尊大な態度でソファに腰掛けている。
君が娘の言っていた子か。
あの子のお父さんが言った。私は無作法を犯していないか怯えながらはい、と返事する。
娘から聞いているぞ。君は、(呪詛のような罵倒)
「申し訳ございません」
私は謝罪する。
(後輩がお父さんに語った私への雑言)
「私がいたらないばかりに大切な御息女を傷つけてしまいました。誠に申し訳ございません」
私は謝罪する。
(人格否定)
(自主規制)
(私への叱責)(罵詈雑言)
「はい。謝罪ばかりで申し訳ございません。はい。もう謝罪しません」
私は謝罪する。
(人格否定)
(聞くに耐えない罵声)
「申し訳ございませんでした」
私は謝罪する。
(自主規制)(自主規制)(自主規制)
全て、全て思い出している。全て視ている。
だが、これだけは許してくれ。これだけはどうしても、言葉にしたくないのだ。
ごめんなさい。
生まれてきてごめんなさい。
*
私の様子を見ていた同僚が慌てて出て来て席を代わる。どうやって職場の自席に戻ったか記憶がない。頭が働かない。仕事が手につかない。
後輩がクソババアと呼んだ、妙齢の社員が私のそばにやってきて言った。
「どうしてあの子が精神を病む前に助けてあげなかったの?」
何を言っているか理解できなかった。
は? 後輩病んだのお前が原因じゃねえか。
言ってやりたかった。言えなかった。
私は後輩を可愛がろうとした。彼女のために尽くした。良き先輩であろうとした。
最後だけ、最後の最後だけ彼女の叫びを無視してしまっただけ!
怒りは涙に変わり、怒声は獣じみた咽び声になった。
妙齢の社員は露骨に顔を顰めた。
「泣きたいのはこっちよ」
くすり、と嗤う声が聞こえた。他の社員が給湯室で、泣いた私を嘲笑っているのだ。カッと顔が赤くなる。
腹を破り溢れんほどの激昂が、私を絶叫させた。
私はみっともなく職場で泣き喚き、嘲笑され、叫び、白い目を向けられ、衝動のままに会社を飛び出した。
仕事を放り出して逃げ出して、数分間は気分がハイになっていた。そしてさらに数分過ぎると不安と罪悪感と羞恥心で消えてしまいたくなった。
成人して、人前で、しかも職場で泣くなんて。信じられない恥知らずだ。みんな嗤っていた。あんな声を上げて泣いたのだ。恥ずかしい。恥ずかしい! もうあんな場所に居られない。
業務中であるのに外に出てしまった。私はクビか?
うだるような暑い、夏の日だった。半袖のワイシャツが、インナーが体に張り付き気持ち悪かった。外にいるだけで体力が削れていく。尋常ではないくらい汗が流れていた。
とりあえず家に帰ろう。自分の家が恋しい。私はスマホで改札を通る。
そこで私は気がつく。スマホ以外の荷物を会社に置いてきたのだ。
財布も鍵も、全て職場にある。
血の気が引いていく。このままでは家に帰ることすらできない。合鍵なんてものもない。
あれほど大騒ぎしておいて、どんな顔で職場に戻ればいいんだ?
暑い日だった。暑い日であるのに悪寒で震えが止まらなかった。私は駅のホームでベンチに座りながら、行き交う電車を漫然と眺める。
今日一日職場から逃げても、明日には出社しなければいけない。私を嘲笑う者たちと共に働かなければいけない。私が痴態を晒した場所へ戻らなければならない。
会社を紹介してくれた親のメンツもある。おいそれと仕事を辞めることもできない。
それに仕事を辞めてしまうと私はすぐに干上がってしまう。貯金などほとんどないのだ。
会社に戻らねばならない。働かなければならない。
胃に穴が空いてしまいそうだった。
眼前のホームに電車が入るとアナウンスがある。その時、私の頭に天啓が舞い降りる。
ここで電車に轢かれてしまえば、会社へ行かなくてもいいのでは?
どきりと心臓が跳ねる。あまりにも抗い難い魅力的な提案に、胸の高鳴りが止まらない。気持ちが高揚していく。
私は喜び勇んでベンチから立ち上がる。電車のライトがチラチラとホームを照らし始めていた。
あの会社へ行かなくていいのだ! こんなにわくわくするのはいつ以来だ?
そうだ、思い出した。『恋と邪悪な学園モノ。』を買った時もこんなふうに興奮していた!
私は線路へ飛び込んだ。体が一瞬だけ浮遊感に包まれ、猛烈な重力に引き寄せられる感覚。乱反射する眩い光。強烈、としか言いようのない衝撃。
直後耳をつんざく聞いたこともないようなおぞましい音。
もし次の生があるのなら。次はちゃんと最後まで、後輩を。年下の、自分より力のない子を。
頭上を飛び越えて飛び散る自身の肉片たち。血に染まる着慣れたスーツ。
最後まで守り抜くんだ。
そこで私の意識は途絶えた。
*
「僕のせいだ。僕があの時、テオを止めなかったら。ちゃんとあの子にとどめを刺しておけば」
「後の祭りです。それに、下手に手を出していたら禍ツ力で返り討ちになっていた可能性もあります」
『過去視』を終える。私は現実へ戻ってくる。
周囲を見渡す。西塔の一階だ。経年劣化で隙間風が吹くようになってしまった木造の狭い部屋。見たこともない地下へ繋がる階段があった。考えるまでもなくそこから私たちは登ってきたようだ。
西塔一階の入り口に私たち四人は円座していた。
アダム王子は泣き続け、イヴは彼を慰めるように寄り添っている。私はテオに膝枕されていた。
「リリア様。お気付きになりましたか」
テオが私に疲れ切った笑顔を見せる。
「現状をお話します。……どうか、お気持ちを強くお持ちください。
逆賊の船はこの塔の地下に停泊してありました。しかしながら、地下は異界に飲み込まれてしまった。この島から脱出することは不可能です」
「……木を切り倒して、丸太とかで船を作って脱出することはできませんか……?」
イヴの提案にテオは首を振る。
「いくらなんでも時間が足りない。よしんば完成して海上に出たとしても、異界と繋がりできた虚によって海流は大きく変わる。海の藻屑となるのが関の山だろう」
イヴはうつむき、黙り込む。
「この孤島全体が、間もなく異界に飲まれるでしょう。下手に泡を喰って逃げて体力を減らすよりも、異界へ飲まれたあと一瞬でも長く生きれるよう体力を温存しておくべきです。もう、できることがそれくらいしかないのですから」
テオの沈んだ声にアダム王子は涙を流す。イヴは表情を更に暗くする。
禍ツ力やら預言者先輩たち、ミハイル王子の存在やら細々とした点でゲームと異なる部分は多いが、大筋はゲームと同じ道を辿っている。
ゲームでは謎の悪しき力の暴走を止めるため、イヴは単身扉へ入り封じの呪文を唱えるのだ。
私は体を起こそうとするが、全身が重い。前世を視る前と後では比較にならないくらいに。
私が他人を、特に年下の子たちを見捨てることに激しい嫌悪感を覚えるのは後悔からか。
泣くたびに嘲笑が聞こえた気がするのは、職場のトラウマのせいか。
全てを忘れてもそれだけは忘れなかったのか。なんと哀れで、愚かしい。
今までの記憶が、私の背中に覆い被さってくる。
『リリアお嬢様はその死を無意識的に、過去視で視ないようにされているのでは?』
『視たくないから、視えないってこと?』
テオとの会話を思い出す。テオの言うことはいつも正しい。
私は視たくなかったのだ。自分の愚かしさから逃げようとしていたのだ。
「リリアお嬢様。無理をなさらず。あなた様のことはわたくしがお守りいたします」
テオが私を引き止めようとするが、構わず立ち上がる。私はイヴの正面に座り、彼女と目を合わせるようにして質問する。
「ねぇ、イヴ。……封じの呪文は?」
聞いたところでなんだというのだろう。仮にイヴが知っているとしたら、私はどうするつもりなんだろう。
イヴは眉を困ったように下げ、酷く困惑した表情を浮かべる。
「リリア様は何を言っているの……?」
『封じの呪文は、謎時空のオープニングを見たゲームのプレーヤーしか知り得ない情報だ』
はっ、と息を飲んだ。
私はこの世界に転生してきた意味と、この世界で果たすべき役割を知る。




