第四十話 エログロナンセンス
思えば、不審な点は多々あった。
何をするにも一緒だったテオが、今学期に入ってひとりで行動することが増えた。
彼はいくらなんでも物事に精通し過ぎていた。
学園で起きた惨事は私の責だと泣きついた時、彼はあたかも件の原因を知っているかのような言い回しをした。
小さな、小さな違和感。私はそれを見て見ぬふりをした。疑惑を自分の胸の内で握り潰した。
私はテオを無条件で信頼していた。下手を打ったら彼に殺害される未来の可能性があったにもかかわらず、だ。
テオは私の秘密を知る唯一の人だったから、彼はいついかなる時も私の味方だと信じたかった。知らず知らず彼に甘え、深く依存していた。
テオは星辰教徒に紛れ、アダム王子に両手剣を向けていた。半身が焼け切れたような喪失感。目が眩むような失望。
テオが何を考えているか分からない。彼の行動を理解できない。
テオは私たちを裏切ったのか?
*
誰かがひたすらに「ごめんなさい」と謝り続ける声が聞こえた。夢を見ているのだろうか。心身の疲れのせいでまぶたが重い。
テオに抱き起こされた直後私は気絶したことを思い出す。そのあとの記憶がない。
私が寝そべっている床は石張りになっているようだ。空気は冷やりとしていて湿気っぽく、カビ臭い。手を動かそうとも、身じろぐことすらできない。
そこで私は手足が縛り上げられていることに気づく。
薄目を開ける。
天井が妙に高い、広々とした円形の部屋だった。多数の蝋燭が点在して置かれているのにも拘らず仄暗い。
少しずつ視界がクリアになっていく。
床には幾何学模様の魔法陣めいたものが描かれていた。無数の紙片が壁に張り付けられている。ローブを深々と被った人物が壁や床になにかを書きつけながら歩き回る。彼の背丈は子供ほどしかない。
「いいよなあ、うらやましいよアダム! ベルナール大公のお陰で後ろ盾完璧で? 婚約者はオールドマン家次期当主!」
異様な部屋の中心でひとり、早口でまくしたてる金髪の男がいた。
黒のローブを羽織った、アダム王子と見紛うほどによく似た美しい人。
双子のように瓜二つでありながら、アダム王子ではないとすぐ気づく。アダム王子が浮かべないであろう、薄汚い嘲笑が口元に張り付いていたからだ。
当のアダム王子は拘束され、地面に転がっていた。彼は手足を荒縄で縛られながらも額を地に擦り付け、「ごめんなさい」と言い続けている。
アダム王子によく似た男は蹴り飛ばす。
「なんでおめえばつか優遇されんだ? おめえはただのスペアだ! 兄様の代替え品のくせによお! 自惚れやがつて、身の程を知れ恥知らず!」
男は蹴り飛ばす。
男はイヴの腹を蹴り飛ばし続ける。
手足を固く縛り上げられた、無抵抗な彼女を、ひたすら足蹴にし続ける。
ぷつり、と何かが切れた音がする。
「お前は何をしている?」
自分でも驚くほどに低い声が口から飛び出る。男は足を止め、私に邪悪な笑みを向けた。
「ようやく目覚めやがつたかリリアサマ! いやあ待ちくたびれた、くたびれた!」
明るく、戯けたような口ぶりは陰鬱なこの部屋において息が詰まりそうなくらい浮いていた。
「自己紹介まだだつたよな? 俺様第五王子のミハイル・フォン・シャルロワ。そこのクソバカゴミ愚弟殺しに来た」
私は息を吐いたっきり上手く呼吸ができなくなる。想定外の人物が想定外の発言をしたことに、激しく動揺する。私の反応に気を良くしたのか、ミハイル王子は満足げに何度も頷く。
「あんまりてめえサマが目を覚さなかつたもんだからよお、アダムとゲエムやつてたんだよ。リリアサマが目え覚ますまでこの……。なんてつたつけ。いぶ? ……まあいいや、この『鍵』を痛めつけてよお……」
ミハイル王子は目を顰めた。
「なんだよ、ただのゲエムじやねえか。異界の門を開けるんだ、『鍵』は殺さねえよ。それにこの女、アダムとデキてたんだろ? 胎に不義の子いたら不味いじやねえか。俺様は社会通念上の正義を実現しようとしたまでだぜえ?」
「黙れ」
考えるより先に言葉が走る。
アダム王子は気が狂ったように謝罪を続けていた。イヴは体をのけぞらせ、泡を吹いていた。
髪が逆立つ。奥歯をぎりぎり噛み締める。はらわたが煮えくりかえる思いだった。
ミハイル王子は困ったように頭を掻く。あたりをうろついていた子供が、ミハイル王子に封書を手渡した。
「……おう、やるか。お伽話の、今更だけどもよお、こんなんで扉とやらが出現すんのかあ?」
「扉の顕現に関してハ、先の戦で実証済みでス。今宵は月無夜。妖魔共が眠りこける夜。バダブ共の力が最も弱まる神々の聖夜。異界の扉は必ずや陛下の前に顕現しましょウ」
背丈が私たちの半分ほどしかない彼は、まるで子供らしくない道化じみた話し方をする。イントネーションも独特だ。
「その胡散臭えのどうにかならねえの? まあいいけどよお。おいアダム、そんでもつてリリアサマ! 耳かつぽじつてよおく聞きやがれつてんだ!」
ミハイル王子は乱雑に封を切り、手紙の内容を読み上げ始めた。
「『扉を顕在化させるには、大地を血で満たさねばなりません。特に四大貴族の血は扉顕現確率を飛躍的に上昇させます。
異界の扉の開き方は二通りあるとされています。ひとつめ。禍ツ力を用いて扉をこじ開ける方法。ふたつめ。鍵を用いて扉を開く方法。
禍ツ力を使って扉を開けられることは実験でも実証されています。しかしながら扉を閉じることができません。繰り返し禍ツ力を使用すると術者自身が異界に囚われてしまうというリスクもあります。
ふたつめの鍵を用いた方法。
鍵とは異界の神に愛された巫女のことです。鍵は制限なしで自在に扉の開閉を行うことができるとされています。
扉が顕在化したのち、鍵に祝詞を詠ませれば儀式は完了します。鍵の不在もあり、この手法を用いた先例はありません』
ほおん。意外と簡単ちや簡単に開けられんだなあ、異界の扉つてやつはよお」
「先の戦でいく度も強引に異界の扉を開きましたかラ、空間が歪んでいるのでス。例えるなラ……。布のまったく同じところに針を何度も通し続けるト、生地が痛んで繊維の穴が大きくあくでしょウ? それと同じ原理でス。
扉を呼ぶための血の量は少なくなリ、開門の難易度も格段に下がっておりまス」
「それも扉を開くのに必要なのか」
「この世に必要のないことなぞ存在しませン」
子供は男に恭しく頭を垂れるも、腹立たしげにミハイル王子は舌打ちをした。
「……そうやつて従順なフリしてよお。てめえらは肝要なところで裏切りやがる。底意地知れねえ腹黒じじいが」
「陛下とて我々の進言を無視してバダブと手を結ばれたでしょウ」
「てめえが俺様を裏切つても生き延びられるようにだよ。そも人手が無え。『禍ツ除け』はいくらあつても足りたもんじやねえ」
「我々正統派では生きたバダブの青年は他のそれよリ、『禍ツ除け』の効能が低いト……」
「うるせえ死ね」
ミハイル王子は強引に会話を打ち切り、私へ意地の悪い笑顔を向けた。
「リリアサマのご機嫌取りもしねえとなあ! 今ならこの俺様、ミハイル様が禍ツ力やら異界についてやら、なんでも教えてやるよ! 優しい男は好きだろう?」
私は呼吸をするのに精一杯だった。しばらく私の無様な喘ぎだけが部屋に響く。
「……異界の扉を開いて、どうする気?」
ようやく絞り出した言葉に、ミハイル王子は首を傾げた。
「禍ツ力とかの質問つて言つたよな聞いてねえのバカなの? ……仕方ねえ、寛大な俺様が特別に答えてやるよ感謝しろ。
俺様はよお、アダムを殺すように言われてんの。でもよお、いくら王族でも王族を殺すなんて法で許されてねえわけ。ふつうに殺したらそれこそ極刑よ。
じやあどうするかつてえと異界にぶん投げちまえつてことだ。そもそも法には異界について明記されてねえから裁きようがねえわけ。完全犯罪成立つてワケだ!
それに、この実験が成功したら俺様は『初めて人為的に異界の扉を開閉した男』つて称号を手に入れる。これを武器に俺様は成り上がる。俺様はスペアなんかで終わらねえ!」
楽しげに展望を語るミハイル王子を直視できず、私は俯いてしまう。
「先生たちやアレッキーオ君を殺したのもあなたたち? 扉を開くために?」
「……そうだよ。禍ツ力で心身操つて自殺させたり、先公共惨殺したんだよ。てめえらが預言者とか呼んでた女がな。
……元々こんな大量殺人、計画になかつたんだよ! 扉を開くのだつて秘密裡に目立たねえようにつて話だつたのに、あの女が全部台無しにしやがつた!」
「……扉を呼ぶには血が必要であリ……」
「人ひとり入るくらいの扉ならコンスタティーノのガキ殺すだけでいいつて話だつたじやねえか! 話をややこしくしやがつて!」
声を荒げながらミハイル王子はローブの子供の胸ぐらを掴む。私が黙りこくっていると、ミハイル王子は子供を放り投げ、猫撫で声で話しかけてきた。
「好きな先公でもいたのか? まあ、諦めてくれや。もうみんな死んじまつたんだ。恨むならブルッフェンの下衆ども恨むこつたな。
リリアサマ、コンスタンティーノのガキとも仲良かつたんだつけか。……あいつ、親に売られたんだよ。アレのクソおやじに金握らせたら『息子のことは煮るなり殺すなり好きにしてくれ』とか言つてたんだと。
リリアサマは知らねえだろうけどよ、あのガキ、実親に散々食い物にされて相当苦労してたつて話だ。死ねてよかつたつて、そのガキもそう思つてるに違えねえよ」
私の脳裏に寂しそうなアレッキーオの笑顔が浮かぶ。泣き腫らした顔で、楽しげに悪態をつく彼を思い出す。
「アレッキーオ君はきっと、死んで良かったなんて思ってない」
うつ伏せのまま、肺が圧迫されたまま発した声は、潰されたヒキガエルの断末魔のように聞くに耐えないものだった。
「塔から落ちる前、彼の体が前後に揺れてたの。禍ツ力に操られてなお、塔から落ちないよう必死になって足掻いていた。
アレッキーオ君は確かに自分の運命を呪っていた。それでも彼は前向きに諦めながら、明るく絶望しながら生きることができる人だった。
アレッキーオ君は生きたかったの、最期の最期まで!」
地面に顔を擦りつけながら私は叫んだ。私の髪を鷲掴む。ミハイル王子だ。彼はそのまま強い力で私の髪を引っ張り上げる。顔が上向き、彼とまともに目が合った。先ほどまでの嘲笑が消え、ひやりとする無表情があった。
ミハイル王子はそのまま私の顔面を床に叩きつけた。
「死人の口使つて自分の意見押し付けんな」
凍てつくようなミハイル王子の声。無様な私の呻き。狭まる視界。口内に広がる鉄の味。濡れる口元。アダム王子の悲鳴に似た謝罪。
「生徒に紛れさせた俺様の兵からさ、リリアサマのこと聞いてたんだよ。貴族らしからぬ変な女つて。
でもよお、やつてることは他の四大貴族サマや王族と一緒だクソつたれ。期待した俺がバカだつた」
頭上でカチャカチャ金属と布が擦れる音がする。思考がまとまらない。視界に映るものすべての輪郭がぼやけていく。
「なあリリアサマ、国教会の聖典つて読んだことあるか? あのイカれてるくれえ分厚い本。俺様あれ大好きでさあ。だつてあれよお、王族の威光だなんだ謳いながら要は他民族轢き殺して、レイプして、セックスしたって話だろ? 五百年前から人間は何一つ変わつてねえ! 今も昔も人はエログロナンセンス大好きだつたんだなあつて。
ちなみに俺様もエログロナンセンス大好き♥」
私は仰向けに転がされる。私のとなりには下半身を露出させたミハイル王子が立っていた。
「どうせアダムが死んだらリリアサマには新しい婚約者として俺様があてがわれるんだ、仲良くしようぜ? お伽話の、愚弟の瞼開かせてこれから起こる一部始終を見せつけてやれ! 眼前で婚約者をお兄様に寝取られる気分はどうだアダム王子様?」
アダム王子の金切声が響く。子供はアダム王子へ馬乗りになって顔をこちらに向かせようとしていた。恐怖すら感じない。何も考えたくない。ミハイル王子がネグリジェの裾をたくし上げ、レースの下着を破り捨てたその時である。
視界の端から、銀色に光る物体が高速で飛んでいった。
子供が「ギャッ」と叫ぶ。ミハイル王子は「どうした」と子供に目を向ける。私は物体が飛んで来た方角へ目を向ける。
テオだ。
黒々とした執事服を纏ったテオが、鬼気迫る様子でこちらに向かってきていた。彼のまなじりは吊り上がり、金瞳は憤怒で鈍く光る。あまりの気迫に怖気が走る。彼の靴のつま先からは鋭利な刃物が飛び出ていた。
ミハイル王子が異変に気づき、テオの方を見やる。それと同時に、テオは刃物が飛び出た靴でミハイル王子の顔面を思い切り蹴り上げた。
ミハイル王子は紙切れの如く地に転がり血を撒き散らす。
「リリアお嬢様……!」
私の血で服が汚れるのも厭わず、テオは私を抱き寄せた。テオの首筋の匂いを嗅いで、テオの慣れ親しんだ体温を感じて、涙がこぼれる。麻痺していた感情があふれ出す。自分がこの状況に怯えていたことをやっと理解する。
テオは私たちを裏切っていなかった。
テオの名前を呼びたかった。どのほど自分が恐ろしい思いをしたか訴えたかった。どの言葉もどの感情も言語化できず、赤ん坊のような嗚咽に変わる。
ミハイル王子は悲痛な声をあげながら悶えている。顎から頬にかけての皮が剥がれ、そこから止めどなく血を垂れ流していた。
アダム王子に跨っていた子供も地に伏していた。頭と心臓部分にテオの投擲したナイフが突き刺さっている。即死だろう。
「土が! 土風情が! この俺様を裏切つたな! 許さねえ、許さねえぞ!」
テオは舌打ちしながら私を解放する。いつもの穏やかな無表情で、彼は諭すように私へ語りかける。
「リリアお嬢様、少々お待ちを。できることなら、耳目を閉じていてください」
テオは静かに私を横たえ、上着で私の視界を覆った。何も見えない。耳に響くのはミハイル王子の怨嗟の声とアダム王子の「ごめんなさい」という声だけだ。
「貴様と組めばリリア様だけはお守りできると思ったが、もういい。死ね。頼むから死んでくれ。後生だから死んでくれ。お願いだから死んでくれ。貴様がいるだけで空気が澱む。貴様が存在するだけで世界の格が一等落ちる」
それらの声を遮るようにテオが言い放つ。テオの気配が離れて行く。
「クソが! 衛兵! 衛兵! 出て来いクソ共!」
「上の二人は殺した。残りの十人は他生徒たちを蹂躙している最中だ。戻って来ない。ここにいるのは貴様だけだ」
ミハイル王子が獣じみた咆哮を上げる。
「わたくしがアダム王子と通じている可能性を勘案しない。鍵の小娘が邪教に紛れ込んでいる胡散臭さを無視する。わたくしと結んだ、リリア様に手を出さないという盟約すら反故にする。
貴様はどうしてそこまで無能なんだ? なぜそこまで考えなしでいられる?」
響く殴打音。血が飛び、肉が弾け、骨が砕ける音がする。アダム王子の助命を願う声すらかき消す暴力の奏で。
「だから貴様はスペアで終わる」
ミハイル王子の絶叫がこだまする。
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