第三十八話 思考の袋小路、愛の迷路
終業式の翌日。今日も船が現れない。
ここ二日でますます学園内の空気がヒリつき、誰も彼も余裕がなくなっていった。暴言、暴力が目立ち始める。
厨房の食糧も底がつき始めていた。イヴやバイオレットは明るく笑顔も見せていたけれど、無理をしているのは明らかだった。
終業式の日以降爆発的に信者が増加した星辰教と、自警団の衝突は手の施しようがないほど過激さを増していた。今や、星辰教の信者は生徒の三分の一に迫ろうとしている。
翌朝の仕込みが終わって解散する時、女の子たちは半泣きになっていた。三人で集まって抱き合った。また明日、とバイオレットが言った。イヴは涙ぐみ、私は笑顔で応えた。
その日の夜も眠れなくて、テオに無理を言って同じベッドに入った。メアリアンと揃いの髪飾りをお守りのように握りしめ、眠ろうとした。
目を瞑っていると急な浮遊感が私を襲う。地面から手足が離れて心細さを覚えるが、馴染み深い香りがして心が落ち着く。
床の軋む音がする。誰かが私を抱えたまま、どこかへ移動しているようだ。物憂くて目も開けることができない。何度か意識が飛ぶ。
私はベッドだかソファだかの、柔らかい場所に下されようとしていた。まぶたが重い。
馴染みの香りが、温かな他者の体が離れようとしていた。私は無意識に手を伸ばし、その人の腕にしがみつく。その人は私の頭を撫でてくれた。その手は心を安らげる不思議な力を持っていて、私はゆっくりと腕の力を緩めていく。
その人は静かに腕を引き抜く。私の頭を撫で、何か躊躇っている様子だった。何かが私の顔に近づき、唇に柔らかいものが触れる。まるで、口づけのような。
そこで私は覚醒する。
眼前で扉が音を立てて閉じられ、鍵のかけられる音が響く。
知らない天井。見慣れぬ床。見覚えのない扉。座ったことのないソファ。近くに転がる金の髪飾り。
部屋に窓はなく、アンティーク調のローテーブルとソファがあるばかり。シャンデリアが心許なげに揺れていた。部屋の角には水やら食糧やらが置いてある。
ここはどこだ?
私は混乱し、扉の前に駆け寄って押したり引いたり、ドアノブを強引に回す。
「誰か! 助けて!」
私は扉を思い切り叩きながら叫ぶ。
「リリアお嬢様」
扉の向こうから聞き慣れた声がした。
「テオ? そこにいるの? 助けて、閉じ込められたの」
「リリアお嬢様をそこに軟禁したのは私です」
テオの言っていることが理解できない。思考がフリーズする。扉を叩く手が止まる。開いた口が塞がらない。
「これから学園で口にするもおぞましい、阿鼻叫喚が始まります。多くの人が命を落とすでしょう。どうかこの部屋で待機を。ここにいる限り安全です」
「待って、テオ。どうしてそんなこと知ってるの? イヴとすみれちゃんは? アダム王子は?」
テオは沈黙によって、他のありとあらゆる言葉より雄弁に返答する。
血の気が引いていく。ドアノブを握っている手の汗が止まらない。
「お願いテオ、ここから出して。いやよ、こんなの望んでない」
「……あなたはぼくの選択を生涯恨むでしょう。それでも構いません。ぼくは、ジョンさんのようになりたくない」
「テオは何を言っているの?」
「あなたを愛している」
「こんな時にふざけないで!」
私は扉を殴りつける。拳が痛みでどうにかなりそうだった。涙声になりながら私は叫ぶ。
「テオが何を考えているかさっぱりわからない。どうしてこんないぢわるするの? お願い、テオ。言うことを聞いて」
「ふざけてなどおりません。ぼくはリリアお嬢様をただひとりの男として愛しているのです」
テオの痛ましいほど誠実な声に胸を突かれる。ここまで感情的な彼を見たことがなかった。
「あなたのことが愛しくてたまらない。あなたがいなければぼくは生きていられないんです。あなたがいない世界など存在する価値がない。ですからどうか、お願いです。生きてください。それ以上のことは望みません」
脳が痺れるような衝撃だった。テオがそういった想いを抱いていたことに気が付きもしなかった。
今までなんとも思っていなかったテオの行動ひとつひとつの意味合いが変わってくる。世界の色が変わったかのような驚きがあった。
「全てが終わったら、必ずやあなた様を迎えに参ります。それまでどうかここで待機を」
それを最後に足音が遠ざかっていく。
「待ってテオ! お願い! ここから出して!」
私は狂ったようにわめき、手の感覚がなくなるまで、腕がピクリとも動かせなくなるまで硬い木製の扉を叩く。
私は疲れ果て、扉に寄りかかっていた。手をまじまじと見やる。リリアの白魚のように美しい指は鬱血と出血で見るも耐えない有様になっていた。手から火が出ているかのように熱い。
手が痛い。早く、ここから出なくては。みんなを守るために。喉が痛い。テオは私を愛していた? 信じられない。頭が痛い。どうしてテオはこれから危険なことが起こると知っていたんだろう。目が痙攣する。この部屋はそもそもどこなんだ?
思考が千々に乱れ、形を成す前に崩れていく。私は痛みを堪えるために目を閉じる。私の荒い息だけが響く。
目が締め付けられるように痛くなる。心臓が脈打つたびに目が痛む。
私は己の前世を視る。
社会人の頃の私だ。初めて仕事の後輩ができてはしゃいでいた。
短大卒の彼女は私と違って身なりにきっちりと気を使う、可愛らしい女の子だった。職場では長い茶髪を一本に結んでいたが、仕事終わりにその髪を下ろす姿が好きだった。髪アレンジのやり方も、彼女に教わったのだ。若手舞台俳優の追っかけをしていて、毎日が楽しそうで、昼休みが被った時彼女の『推し』を見せてもらう時間が大好きだった。
どうして今の今まで彼女のことを忘れていたんだろう?
そこで私は目を見開く。気を失っていたのだ。時計がなく、窓もないためどのぐらい時間が過ぎ去ってしまったか見当もつかない。
もし私が気絶している間に全てが終わってしまっていたら?
悪寒が走る。扉を叩くたび激痛が走る。痛みのあまりあらゆる気力が削がれ、古びたフローリングの床にへたり込みそうになる。
先ほど視た後輩が、えくぼを浮かべながら私に語りかける。
先輩、『また見捨てる』んですか?
心臓を鷲掴みされたような恐怖。張り裂けんばかりの罪悪感が私を包む。体中から脂汗が滲み出る。
私は扉に体当たりを始める。
どうして彼女を視た? 私を苛む、他者を見捨てることへの恐怖心は彼女由来のものだったのか? 私は彼女に、何をしでかしたんだ?
肩が痛み、二の腕が衝撃に耐えきれなくなり、肘関節まで軋み出す。
私は爪をたて、扉を引っ掻き始める。
否、後輩は関係ない。私は、私の意思で大切な人たちを見捨てたくないのだ。ひとりで安穏と隠れ、自分だけ助かるなんてまっぴらだ。
『大好きなわたくしに戻るための儀式です』
そう言って自身を殴り飛ばしたバイオレットの言葉を思い出す。ここで何もしなければ、私は大好きな自分に戻れなくなる。
肉と爪の間に扉の木片が深々と突き刺さる。声にならない悲鳴を上げる。
でも、ここを出て何をするんだ? 私が成したことで救われた人がいたか? かえって事態を混迷に導き、何もかも台無しにしてきたじゃないか。
私は扉にもたれかかる。目を固く閉じる。
背後に、誰かがいるような気配があった。
リリア様、あんたは本当にどうしようもない人です。独りよがりの偽善者で、自分の価値観を容赦なく他人に押し付ける。そのせいで何人が傷つけられたかわからない。
俺も、そりゃあもうふかーく、深く傷つけられましたとも。
背後の誰かは私に、親しげにそう語りかける。助走をつけ、私は扉に再び体当たりし始める。扉はびくともしない。それでも私は足掻き続ける。
何度も何度も同じ過ちを繰り返して、同じ場所を堂々巡り。他人を傷付けて、自分のことをもっともっと傷付けて。
あんたは傲慢で、考え無して、夢見がちで、杜撰で、間抜けで、サイコパスで、非常識でバカで勉強できなくて意味不明で。
俺、あんたのそういうどーしようもないところに惚れたんです。
私は全霊の力を持ってして扉に体当たりする。それでも硬い扉はびくともしない。全身の痛みに耐えきれず、そのまま扉に体を預ける。頭上から軽い音がした。そのまま世界は傾いでいく。
扉の蝶番のネジが外れ、結果として扉を破ることができたのだ。
理解がようやく追いついた時すでに私は扉と共に床へ倒れ、轟音と衝撃によって意識が朦朧としていた。
髪が邪魔だった。視界がますます悪くなる。狂女の如く乱れた髪を、金の髪飾りで雑に結い直した。髪をしばるだけでも右肩が悲鳴を上げる。肩口が焼けるように熱い。骨を折ってしまったかも知れない。
周りを見渡すが、見覚えのない廊下が延々と続いていた。
激痛に喘ぎながら、私は壁伝いに歩き出す。




