第三十六話 昨日よりもおとといよりも
権力を効果的に利用して部屋に転がり込んだのはいいが、そのあとどうすればいいのかわからない。
女子生徒のバイオレットは明らかに不機嫌そうな表情を浮かべ、テオも彼女に敵意剥き出しだ。端的に言って空気が最悪である。
「……机に食事を置いて行っていただけないかしらん? 今食欲がなくて」
「ダメよ、そんなこと言う若い子は本当にご飯食べないんだから」
私は図々しく机にサンドイッチを並べ、椅子に腰掛けるよう促す。
「座って、ひと口だけでいいから食べてみて。お腹が空いてるとロクなこと考えないから」
言い終わったあと、ふと気づく。いつかメアリアンに言ってもらったことを、そのままバイオレットへ伝えている。
バイオレットは不服そうに席へつく。気が進まなそうにサンドイッチのひとつを手に取り、ひと口頬張った。
「……おいしい」
彼女は消え入りそうなほど小さな声で言った。私は彼女の反応にひと息ついて、そこでようやく部屋が薄暗いことに気がつく。
「テオ、カーテンと窓開けてきて! バイオレットさん、洗い場借りるわよ!」
テオの返事も待たずにずかずかと人様の洗面台へ向かい、櫛を拝借する。サンドイッチを少しずつ食べているバイオレットの髪を手に取り、丁寧に梳いてあげる。いつかのメアリアンと同じように。
テオが窓を開けてくれたおかげで清廉な風が室内に入り込む。柔らかな光が室内を照らす。
「テオ! 顎で使いまくって申し訳ないんだけど、お茶! 紅茶淹れてきてもらってもいい?」
「……すべてはリリア様のお望みのままに」
不承不承といった体でテオが部屋を辞する。私はそのまま彼女の髪を梳き続け、バイオレットは黙々とサンドイッチに手を伸ばす。
彼女の金髪は艶があり、丈夫で指通りが滑らかだった。ついつい髪アレンジして遊んでしまう。
元の世界ほどちゃんとしたシャンプーやトリートメントがない中で、ここまで美しい髪を維持することは並大抵のことではない。
「あなたの金髪、とても綺麗だわ。手入れ一生懸命やっていたんでしょう? ボサボサじゃもったいないわ」
バイオレットは一瞬固まる。私はまた洗面台に赴き、手鏡を手に取る。私はテーブルに戻って手鏡を彼女に向けた。
「お食事中ごめんなさい。髪型が上手くいったから、あなたに見てもらいたくって」
彼女は夢中になってサンドイッチを頬張っていたが、鏡に目を向ける。
以前会った彼女は肩甲骨まである髪を縦に巻いていたが、高めの位置でお団子を作ってみた。両サイドから編み込みつつ髪を持ってきたので、髪ひもも上手く隠せている。巻きグセがついているから想像以上にふわふわとした仕上がりとなり、私は大満足である。
「うん、やっぱりバイオレットさんすごくかわいい!」
彼女はしばらく手鏡を喰い入るように見つめ続けた。瞳を潤ませ、唇をわななかせ、手からサンドイッチを落とし、しまいには声を上げて泣き始めた。口にはサンドイッチが入ったままである。
「どうしたの? バイオレットさん、ごめんなさい、どうしちゃったの?」
私はハンカチで彼女の涙を拭うが、止まる気配がない。口からサンドイッチをこぼしながら嗚咽を上げる彼女が、必死の形相で泣き続ける彼女が痛ましくて、可憐で、愛おしく思えて彼女に手を伸ばし抱きしめていた。
テオもこんな気持ちで泣きじゃくる私を抱きしめ続けてくれていたのだろうか。
「そうよね、意味わからないわよね。急にいっぱい人が死んで、悲しんでたら苦手な先輩が自分のテリトリーに入り込んできて。不安だったわね、怖かったわよね。ごめんなさい」
バイオレットは私の制服をシワになるほど握りしめひたすら泣き続けた。
そのうちテオがお茶を持って帰ってきたが、彼には部屋を出てもらうようにお願いした。バイオレットの性格上、他人に、殊更異性に涙を見られたくないだろうと考えたから。
私は力一杯泣く彼女のために『ポルノグラフィティ』を歌った。曲はなんでもいい、歌詞も間違っていい。となりに誰かがいることを彼女に伝えたかった。
あなたの深い悲しみを知った者がいると、あなたの涙を受け止める者がいると、彼女に伝えたかった。
テオがあの時「うたかた」を歌った真意をようやく悟る。私のとなりに自分がいると、私の悲しみを受け止めると、それを私に伝えたくってテオは歌ったのだ。
「バイオレットさん。あなたにしたことは全部、私が他の人にやってもらったことなの」
バイオレットの涙が落ち着いた頃、言葉が口をついてこぼれ出た。
「ありがとう。あなたのおかげで、自分がどれほど得難いことをしてもらってきたか、よっくとわかったわ」
私は彼女の額に頬を寄せ、目を閉じる。鳥の声が響き、夏の香りがした。
やおらにバイオレットが私から離れ、テーブルに置きっぱなしになっていた手鏡を手に取った。
「まぁ! なんてこと! 目は真っ赤、まぶたは腫れ放題! バイオレット・ホイストンともあろう者が、こんな醜態を晒すなんて! こんなに無様なわたくし、わたくしは大嫌いですわ!」
そう叫ぶや否や、彼女は自分自身の顔面を己の拳で殴りつける。
「バイオレットさん?」
「お気になさらず! 大好きなわたくしに戻るための儀式ですので!」
そう語る彼女の目には活気が戻り、顔の血色も随分良くなっていた。
「というよりあなた、他人の部屋にずけずけ入り込んで、人の食事中に髪をいぢくり回して一体どういう了見なのかしらん?」
「あっそれは本当に申し訳ないと」
「全くもって非常識! 四大貴族の名折れですわ!」
バイオレットは腕を組んでそっぽ向いてしまった。彼女の声色は鮮やかで、どこか楽しげである。立ちすくんでる私を睨みながら彼女は反対側にある椅子を指さした。
「どうぞお掛けになって! ……少し、昔話をしたい気分ですの」
*
「……二十五年前、バダブの民との戦争になったきっかけを覚えていらっしゃる? バダブの青年に、我がホイストン家の嫡子、わたくしの叔父様に当たる人が殺害されましたの。子供ながらに聡明で、ホイストン家の次期当主と目されていたそうですわ。
当時ホイストン家の当主であったお爺様はそのことで心を病まれ、お隠れになってしまった。わたくしの父が幼くして当主になったのだけれども、事態を収束化するどころか失策に失策を重ねてしまった」
彼女は自前のティーカップを準備し、私にお茶を淹れてくれた。私は控えめにお茶をすすりながら彼女の話の続きを待つ。
「戦争を引き起こした責任も問われて、領地の大半を失って。三十年くらい前まではホイストン辺境伯は四大貴族すら凌ぐ勢い、だなんて持て囃されていたのに見るも無惨に落ちぶれて。
男子が生まれなかったから、お父様はわたくしを男に育てようとして。剣も、領地経営の勉強も必死になって、言葉遣いも性格も男になろうと努力したのに、そのあと弟が生まれて。
昨日まで剣を握らないと鞭打たれたのに、次の日から剣を持つだけでぶたれて。男の言葉遣いで話すと生意気だと責められて。わたくしの努力の一切合切が無駄になって。
令嬢らしい所作を覚えても不完全で。お母様に男みたいで気持ち悪いと言われて、お父様はわたくしに見向きもしなくなって。幼なじみの婚約者も全然顔を見せてくれなくて、それどころか婚約破棄を手紙で言い渡されて。
学園生活初日からオールドマン家のあなたに喧嘩を吹っかけたせいで浮いてしまって、友人ひとり作れなくて」
彼女は言葉を切り、低い声で言った。
「わたくしは、ボクは。どうして生きてるの」
重い沈黙が部屋を支配する。私はなんと声を掛ければいいかわからない。
「なーんて! 悩んだ時期もございましたが! ウジ虫の如くうじうじ悩んでるわたくしなんて、わたくしが許しませんことよ! そんな虫っケラになってる暇があるならお家再興のために努力するのがこのバイオレット・ホイストン! 転んでもタダじゃ済まないんですから!」
立ち上がりふんぞり返るバイオレット。彼女の力強さと輝きから目を離せない。
「リリア・オールドマン様! あなた、生徒たちにお食事を配り歩いていらっしゃるんでしょう? わたくし、協力いたしますわ! それであなた様に恩を売って売って売りまくるわ! それで四大貴族オールドマン家とのふとーいパイプをゲッド! ついでにベルナール大公とのコネももぎもぎしますわよ! そうすれば三食よくわからない草を煮詰めたスープご飯とはおさらば! 完全完璧完全無欠! これぞバイオレット・ホイストン!」
口に手を当て高笑いをする彼女が先程まで暗く沈んでいた女生徒と同一人物とは思えない。
私はついつい笑ってしまう。
「はぁ? オールドマン様、わたくしの計画をばかにしていらっしゃるのかしらん?」
「違うのよ、あなたがあまりにも人間としてしなやかでたくましいから、清々しい気持ちになって笑っちゃったの。あなた本当に強い人ね。私、あなたのことが好きになっちゃった」
好き、という言葉を耳にするや否や、バイオレットの顔は薔薇色に染まる。
「バイオレットさん。お願いがあるの。私たちのお手伝いをしてください。人手が足りなくて困っているの。あなたのお家の再興にも、四大貴族とのパイプ作りも必ずやお手伝いするわ。だから、お願いします」
私は頭を下げる。しばらくそうやっていたが、バイオレットは何も言ってこない。顔を上げると、茹で蛸のように真っ赤になったバイオレットがいた。頭から湯気まで出ている。
「……べっ、別に! 生まれて初めてかわいいって言われたからって、あなたの役に立ちたくなったわけではありませんのよ! 四大貴族のパイプ作りはただの口実で、純粋にあなた様と友達になりたいとかそういう訳でもなく! 好きって言われて照れてるとか! 違う、違いますわ! 勘違いしないでいただけます!?」
*
「オールドマン様! ご覧ください! わたくし、初めてお野菜の皮むきが最後までできましたわ!」
「あんら〜、野菜の実より皮の方が分厚くなってぇ。あとは繰り返し練習するだけよ、頑張りましょう」
「野菜に謝れ」
「ちょっとテオ?」
「食糧とて有限です。貴族様のおままごとのために無駄にできる食材など微塵もありません。お遊び気分ならとっとお帰りください」
「テオさん落ち着いて」
昼の戦いも終えたオールドマン亭に新たな仲間が増えていた。言わずもがなバイオレットである。予想はついていたがテオとバイオレットは水と油であった。
「すみれちゃん、ごめんなさいね。あのこんこんちきの助は気にしなくて大丈夫だから」
私はバイオレットのことをすみれちゃんと呼ぶようになっていた。彼女は頑なに私のことをオールドマン様と呼び続けている。
「いえ、いえ……! テオ先輩のおっしゃっていることは歴然とした事実……! 事実無根の甘言を聞かされるより、わたくしの血肉となるであろう耳の痛い言葉こそ必要なんですの!」
肩を震わせ、口惜しげに歯軋りをしながらも彼女の瞳の輝きは失われない。
「テオ先輩、その発言、わたくしはしかと受け止めました! 今日明日中に料理技術を身につけ、必ずやあなたをギャフンと言わせてみせますわ!」
テオは当然のように無視する。バイオレットはそれすら自分のいいように解釈し、熱心に野菜むきを再開する。
「テオさんちょっと。すみれちゃんに当たり厳しくない?」
私はこっそりテオに耳打ちする。
「先に宿敵バダブがどうの差別しないのなんのと絡んできたのはあちらです」
「もう!」
私はテオのとなりに立ち、テオが洗った食器を拭く作業に取りかかる。黙々と、淡々と、皿を受け取り磨き続ける。
「……テオ、それとね。私がダメになってる時、いつもそばにいてくれてありがとう。『ポルノグラフィティ』を歌ってくれてありがとう。となりにいてくれてありがとう。
昨日よりもおとといよりも、ずっとずっとあなたのことが好きになった。ねぇテオ、あなたが大好きよ」
テオは立ち止まり、私の瞳を真っ直ぐに覗き込んでくる。
「あなたはいつだって、ぼくの悩みなんか簡単に蹴り飛ばしてしまうのですね」
「……やっぱり何か悩んでたんじゃない!」
テオは大袈裟な音を立てて皿を洗い始める。
「ねぇ、ちょっと! テオ! 思春期だから相談とか恥ずかしいのかもしんないけど! ほら、おばさんに話してみなさいよ!」
「あなた様はまだ十六歳です」
「オールドマン様! ご覧ください! 先ほどより野菜の実が大きくなりましたわよ!」
「黙って手を動かせ」
「おいこらテオ野郎」
厨房に賑々しい声が響いた。




