第三十二話 老人の命は刈り取られ
「魔眼について、詳しくはベルナール邸にあった文献で知りました。魔眼は二通りあると。
ひとつは未来視。五秒先の未来が視える者から何千年先と視える者まで、観測できる範囲は千差万別。
もうひとつが過去視。過去視は未来視と比べてとても限定的な能力です。過去視の持ち主は自身の過去を、前世の記憶のみ観測することができるそうです。
……別の世界に関する記憶を思い出す時、目が疼くような経験はありませんでしたか?」
テオは私を毛布に包んだまま横抱きにし、医務室を出た。私はテオの首に手を回す。
「あった、と思う。……何かを思い出す時、目が痛かったりした」
「本来の過去視であれば過去の自分がいかに果てたかまで視ることができるそうですが……。
元々四大貴族の血統には人間離れした力が宿るとされていました。ベルナール家の『鉄膚』、ペシュコフ家の『言霊』、コンスタンティーノ家の『魅了』、そしてオールドマン家の『魔眼』。
今日では力が発現しない場合の方が多いと聞きます。リリアお嬢様が不完全な能力を持って生まれたとしても不自然ではありません」
「なんとなく、わかった。気がする。
……異界と禍ツ力のことは? アレッキーオ君のことで知ってることはない?」
テオは東館を早足で進みながら、渋々といった体で語り出す。
「おおよそリリアお嬢様のご明察の通りです。異界や禍ツ力について知れば知るほど、異界へ囚われやすくなる。どうして知識を蓄えると異界の邪神共に拐われてしまうのか、原理は分かりません。ですが確かな事実です。
わたくしが頑なにリリアお嬢様の推察を否定し有耶無耶にしたことも、これが理由です。異界の真に迫ること自体、大変危険です。
アレッキーオ様の件は何もわかりません。何かを断定するにはあまりにも尚早過ぎます」
「そう」
テオは何も言わず廊下を歩き続ける。
胃が縮こまる心地がした。私はオールドマン家の書庫で手に入れた禁断の知識を、ベルナール大公の家で嗅いだ異臭のことを全てテオに話している。
私の軽挙妄動が大切な人の命を脅かしている。胃がキリキリと軋み出す。私は涙を堪えるためにテオの首筋に顔を埋める。
「……テオ、ごめんなさい。ごめんなさい。私のせいで危険な目に」
「わたくしがもう少し早く異界の仕組みに気づくべきでした。わたくしの責任です。どうか気に病まないでください。
それに、リリアお嬢様だけが危機に晒されている状況の方が耐え難い」
「……でも、どうして危険な本がオールドマン家にあるの?」
蹴破るように東館の扉をテオは開き、港がある先生館へ向かう。
「……四大貴族の義務の話をしましょうか。
四大貴族はあらゆる税を免責され、さまざまな特権を与えられる代わりに重い責務を課せられます。コンスタンティーノ家は国境の防衛。ペシュコフ家は鉱山の採掘と開発、王家への定期的な貴金属の献上。ベルナール家は国内への安定した食糧供給。怠った場合、凄まじいペナルティが課せられます。
オールドマン家は一般にそういった責務はないとされています」
『四大貴族とその領地って、国からの税の殆どが免除されてるじゃないっすか。そのかわり兵役やら国境警備やらの義務がありますが、オールドマン家にはそれすらない』
私はアレッキーオとの会話を思い出した。
「あくまで、一般に。実情は異なります。
オールドマン家の真の責務は、口承や土着宗教として残っている禁忌の知識の調査。異界と禍ツ力に関する書籍の蒐集、および邪悪な真理を外部に漏れないよう管理すること。
この責務の都合上、外部へは『オールドマン家は果たすべき義務はない』というポーズを取っている。危険な知識を守っているとは喧伝できない。知るだけで危い知識が存在しているということ自体、民衆に伏せねばならない知のひとつですから。
自然、禁断の知識を管理しているオールドマン家の方々は、禁忌の知識に触れてしまう。そして何人も何人もオールドマン家の方々は失踪する。……リリアお嬢様のお母様のように」
『オールドマンは異界の神々に愛され、そして異界を志向する』
ベルナール大公の言葉が頭をよぎる。
「……待って。みんな、禍ツ力のこととか、異界っていう単語とか知ってるじゃない。それって、ダメなんじゃないの?」
「異界や禍ツ力の知は伝承の深い所に根ざしていて、それらを完全に消し去ることなど不可能です。
オールドマン家の役割はその真実を秘匿し無害化させること。とどのつまり、異界の真理に民衆が触れなければいい」
「……じゃあ、バダブの民が禍ツ力使えるって噂を流したのは……」
私はしばらく考え込んで、再び質問する。
「オールドマン家の、異界に関する本の装丁が変わってたのって……?」
「幼いオールドマン家の跡取りや使用人たちを禁忌の知識から守る知恵でしょう。字の読めない者を多く雇用していたのもそれが原因です。
……リリアお嬢様や、活字中毒だったあなた様の大叔母様にはこんな小手先だけの知恵、役に立ちませんでしたが」
「……異界や禍ツ力の知識に関わりなく失踪は起きてるって、テオが」
「お伽話の住人の仕業です」
「お伽話の?」
「わたくしもそれ以上のことは……」
「……そうよ。どうしてテオは詳しいの? オールドマン家の当主しか知り得ない知識を、どうして」
「旦那様に詰問したのです。オールドマン邸を発つ直前に。ほとんどの質問に答えてくださいました。もはや隠し立てしても仕方ないと判断されたのでしょうね」
私は馬車でのやりとりを思い出す。確かにお父様と話したとテオは言っていた。
「あなたが馬車ですごくへこんでたのって」
「えぇ。異界と失踪事件の関係性についての見立ては正しいと、リリアお嬢様に危険がさし迫っているとはっきり旦那様に肯定されたからです」
本校舎を横切る。先生の指示で全生徒が寄宿舎に待機を命じられていたため、人っ子ひとりいない。
「旦那様はリリアお嬢様の身を案じておられた。
時流に逆らいわたくしを雇用したのもリリアお嬢様のため。異界の神々はバダブを嫌う。異界の魔の手からあなたを守るためにぼくを侍らせた。
あわよくば、本懐にも利用できたらとお考えだったようですが……」
「……お父様は一体何を企んでいるの?」
「異界攻略です。旦那様は異界に囚われたリリアお嬢様のお母様を、奥様を救出しようとなさっている。
旦那様がオールドマン家へ滅多に帰らなかったのも異界の神々から逃げ回り、異界攻略の手掛かりを探していたからです」
「いろんな情報が出過ぎて頭パンクしそう……」
「はっきり申し上げて、この学園に残ろうが残らまいが我々の身は危うい。
ですがここに残れば確実にリリアお嬢様は心を病まれてしまう。こんな所、さっさと逃げ出すに限ります」
テオは乱暴に先生館の扉を足でこじ開けた。先生たちの待機している職員室は真っ直ぐ一本道だ。
「……私たちって、船に乗せてもらえるのかしら」
「金と権力には使い時があります。今が使い時です」
テオは足を踏み入れる。
アレッキーオが自殺した時と同じ異臭がした。
テオは足を止め、息を飲む。
私の心臓が早鐘のように打つ。脂汗が止まらない。
「テオ、下ろして」
「……しかし」
「大丈夫。平気。落ち着いたから。大丈夫だから。私を連れて行って、お願い」
もちろん痩せ我慢だ。今だって空っぽの胃の中のものを吐き出しそうになっている。
テオはゆっくりと私を下ろす。私を包んでいた毛布が床に落ちる。
「……前に出ないように。少しでも体調が優れなくなればおっしゃってください」
私は返事をしなかった。テオは半歩前を歩く。歩くたびに床が軋む。緊張のあまり上下の空間が歪んで見え、真っ直ぐ歩けているかどうかも定かではない。職員室へ近づくたびに悪臭が酷くなる。
ようやく職員室の扉の前に立つ。あまりの臭気に目も開けていられない。
予感がした。
目が沸騰しそうなほどに熱い。眼球に針を刺したような痛みが走る。
扉を開いたら最後、引き返せなくなる。
私はテオの手を握った。
「リリアお嬢様。どうか、離れてください」
「……テオ。あなたが良き使用人であろうとするように、私もあなたの良き主人でいたいの」
震える声で私は言った。今すぐにでも逃げ出したかった。でも、テオに全てを背負わせて逃げ出すのはもっと嫌だった。
テオは私を横目で見、諦めたようにうなずいた。こうなったら私がテコでも動かないことをテオはよく理解してくれていた。
私たちは二人で扉に手をかける。警戒しながら、そろそろと扉を開く。
私はこの光景を視ていた。
血みどろの事務机を。散乱した書類にへばりついた肉片を。頭部が切断された遺体たちを。その遺体の中に攻略対象であるムスチフラフ先生の姿があった。私を襲った男子生徒も四肢をもがれ、今もなおびくりびくりと震えている。床はおびただしい血で満たされ、文字通り血の海と化していた。
私は思い出してしまった。私にとってこの光景は既知のものだった。
私は足元から崩れ落ちてしまう。
『恋と邪悪な学園モノ。』には全滅エンドが存在していた。攻略対象がひとりでも主人公イヴに対してマイナスな感情を持ってしまうと、強制的にこのルートへ入ってしまう。
攻略対象全員と生徒、主人公イヴまでもが死んでしまう胸糞ルート。私は中学生の頃一度だけこのルートをプレイし、自分の中でこのルートを『なかったこと』にした。存在そのものを忘れるように努め、今の今まで忘れていた。
どうしてこのルートに入ってしまったんだろう?
答えは事理明白だ。
私の肩を揺さぶり、必死になって声をかけてくる彼を見やる。
『あの女は、リリア様の命を脅かす存在です。そんな唾棄すべき存在に、好意を抱けるはずがありません』
テオはイヴを蛇蝎の如く嫌っていた。私が破滅を回避するために、彼の知識を得るために『恋と邪悪な学園モノ。』のストーリーを教えてしまっていたから。イヴが私の生命を脅かす存在であると伝えてしまっていたから。
私の考えなしの行動のせいだ。
『なにもかも、無駄なことに思えるのです。良かれとして行動したことの全てが。悪いように悪いように転がり落ちて、全てが裏目に出て』
馬車でテオが言っていたことを思い出す。テオはいつだって正しいことしか言わない。
破滅しないように足掻けば足掻くほど、生き残ろうと抗えば抗うほど、運命の渦へ飲み込まれる。どうしようもない深みに落ちていく。
『降りかかる最悪の結末を知っていながら、己の無能さ故に退けるどころか、より深みに溺れてしまった。なんて蒙昧で、怠惰で』
ゲームにあった、磔され血を止めどなく流すアダム王子の一枚絵を思い出す。ゲームの悪役令嬢リリアが首をへし折られた姿を視てしまう。ゲームのテオが芝生で八つ裂きにされ、絶命している絵が頭に浮かんでくる。
私の無責任さのせいで、私が生きたいと願ったせいで大切な人たちが死んでしまう。
私の行動ひとつひとつが一切合切全てを台無しにした。
「こんなことなら」
私はよだれを垂れ流す。焦点が合わない。
「私ひとりで死んでしまえばよかった」




