第三十話 赤き罪の果実が堕つる時
「所詮、愛とか恋って幻想なんですよね」
校舎に戻る道すがら、アレッキーオは語り出す。
「愛だなんだっていう物語をとっぱらっちまったら、人間は野犬やなんかと変わらない存在に落ちちまう。
貴族連中なんて特にそうだ。王家のために子を孕ませ家を継ぐ。王家の家畜と言ってもいい。事実そうです。
でも人は幻想がないと生きていけない。人が人として生くるには尊厳が必要不可欠なんです。
だから俺たちは愛っつーありもしない物語に必死にしがみついて、時には命を賭して人間であろうと努力を続けてる。愛は試すモノじゃない、守り育むものです。ちゃんと丁寧に扱わないと愛は壊れちまう。
……なーんて、我ながらクッセェこと語っちゃってみたり」
私が木の根に躓きそうになると、アレッキーオは必ず手を貸してくれた。授業はもうとっくに終わってる頃合いだった。
「……あんたとアダム王子の間に何があったかは知りませんし、知りたくもありません。ですがまぁ、愛なんて幻想です。幻想が破綻してしまっただけ。ありふれた、世間じゃよくある話です。必要以上にへこまなくってもいいんじゃありませんかね。
王子と婚約破棄になってベルナール大公と縁が切れたのは痛手でしょうが、あんたならどうにでもできるでしょ」
「ありがとう」
「やめてもらえますか? 俺はあんたに感謝されたくて言ってるわけじゃないんだ」
私は小さく笑う。アレッキーオは不満げに鼻を鳴らした。
「……どうしてもアダム王子が忘れらんなくって、それでも当主の義務を果たさねばならない時は俺を頼ってください。俺はあんたに指一本触れない。俺はあんたを傷つけない。あんたは清らかなままだ。跡取りはどうにかして見つけてきます。
あんたのおかげで今日まで生きてこれたんだ、それくらいはお安い御用……」
アレッキーオの声が尻すぼみに小さくなっていく。さっきまで私に歩幅を合わせていてくれたのに、急に大股で歩き出す。
「とかね! そんなこと言えば傷心のあんたなんてイチコロでしょうね! いやーリリア様が尻チョロ女で助かるなぁ! 仮面夫婦計画が始動しちゃうなぁまいったまいった!」
「アレッキーオ君?」
私はアレッキーオを駆け足で追う。すると彼は本気になって走り出す。
「あなたって人は! 親切で優しいくせにどうしてそんなに口汚いの? 耳まで真っ赤! 言ってて恥ずかしくなったんなら素直にそういえばいいのに」
「あのね! 全人類があんたみたいにばか正直でいられるわけじゃないんです! もう黙っててくださいリリア様のばか! 本当ばか!」
アレッキーオは叫ぶ。
「あんたなんて嫌いだ! 嫌いも嫌い、だいっ嫌いだ!」
「うるさいわね! 私はあなたが好きよ、大好きよ!」
これがアレッキーオとの最期の会話になる。
*
事の次第を聞いたテオは件の男子生徒に怒り狂った。姿をくらまし授業をサボった私への説教も忘れ、額に青筋を浮かべ眼光炯々とし、周囲の空間がねじくれて見えるほどの怒気を発していた。
その日の内に該当生徒を特定したテオは、数日後全生徒が朝食を取る寄宿舎で証拠を苛烈なまでにあげ連ねて彼を断罪。泣いて詫びる彼を全裸に剥き、私に土下座させた。
害なす存在を徹底的に追い詰め、退路を潰し自滅に導いていく容赦のなさは、見ている者に彼の師である『血塗れの嫉妬卿』レオン・ベルナール大公を思わせた。
男子生徒は退学処分。私への強姦未遂を行った罪は本土で裁かれることとなった。
血も凍るような、手心など一切ない私刑を見せつけられた生徒たちは、私とテオを露骨に避け始めた。不愉快な陰口噂話を聞く機会も減り、快適な学園生活が戻ってきた。
怒涛の一週間がそうやって過ぎた。休日となり、西塔そばの木陰でテオと読書をして過ごしている。
船の到着に遅れが出ているようで、男子生徒は未だ先生館で身柄を預かられていた。
「テオー。おやつ取ってー」
「これで最後ですよ」
「やだ」
学期末テストも終わり、夏期休暇まであと一週間。テオに寄りかかりながらクッキーをかじっていると、私と彼からの視線を感じた。
「どうかした?」
「憑物が落ちたような顔をなさっているので」
「……うん。アダム王子とイヴがくっついたから最悪の事態を招かずに済みそうだし。色々あったけど、助けてもらったから」
私はイヴを回避するため作戦を練るテオを、イヴと初めて会話するテオを、『ポルノグラフィティ』を歌うテオを、私に寄り添い続けてくれたテオの姿を思い出す。
クッキーを飲み下し、テオの肩に頭を預ける。
「テオ。今まで迷惑をかけたわね」
「迷惑など、何も。……わたくしもこれを使わずに済んで胸を撫で下ろしています」
テオは胸から木箱を取り出し、その蓋を開けてみせた。中には透明な液体の入ったガラスの小瓶があった。
「これは?」
「毒薬です」
言葉が詰まった私をよそに、テオは小瓶を弄ぶ。
「リリアお嬢様が御身の破滅を恐れていたように、わたくしもあなた様を殺めてしまう可能性を恐れていたのです。
あり得ないと思っていながらも、不安で不安で仕方なかった。もしもの時はこれを呷るつもりでした。今となっては笑い話ですが」
「……どうして言ってくれなかったの」
「言ったら止めていたでしょう」
「なんで、教えてくれたの」
「……自分でも上手く説明できません。ただ、これを黙ったままにするのは道理に反する気がして」
鳥たちのさえずりが響く。生温い風が木々を揺らす。
「テオ」
「はい」
「教えてくれてありがとう。あなたのことまで追い詰めてしまっていたのね」
「……どうかご安心を。この毒薬はわたくしの方で処分しておきます」
「テオ。お願い。その毒は私に処分させて。あなたの主人として、あなたに何かをしてあげたいの」
テオは逡巡し、ためらいがちに毒瓶の入った小箱を渡してくれた。
「解毒剤は準備しておりません。危険極まりない薬物です。早々に海に捨てるか土に埋めてください」
「うん。信頼してくれてありがとう、テオ」
テオは久方ぶりに柔和な笑顔を浮かべる。
次の瞬間、彼は鼻を押さえて苦しみだした。体を折り曲げ、目を血走らせくぐもった声を漏らす。
私は悲鳴を上げ、彼の名前を呼びながら背中をさすってやる。テオはぜいぜいと呼吸する。
「臭い……! 鼻が……!」
テオがそう言うや否や強烈でむせ返るような、腐りかけの果実の香りが私を襲う。
心臓が跳ねる。同じ香りだ。幾度となく私が嗅いだ香りだ。
鼻をつまみながら、反射的に臭いが運ばれてきた方向を見遣ってしまう。
西塔から悪臭が漂っていた。塔の最上階には赤髪の生徒がいた。あんな燃えるような赤い髪、この学園にはアレッキーオしかいない。
彼は不自然に体を揺らしていた。
血の気が引いていく。
私はテオをそのままに駆け出した。心臓がうるさい。アレッキーオを視界に入れたまま手を懸命に振る。足を動かす。思うように前に進まない。臭いがきつくまともに呼吸ができない。息が上がる。目が乾燥したようにピリピリする。
アレッキーオは振り子のように揺れる。一度体を後方に反らしたかと思えば、前方に体を大きく倒していく。そのまま塔から落下した。体が縮こまるような凄まじい音がした。
既視感があった。
体が一瞬だけ浮遊感に包まれ、猛烈な重力に引き寄せられる感覚。乱反射する眩い光。直後耳をつんざく聞いたこともないようなおぞましい音。目が痛い。
私は人が飛び降りた瞬間を見たことがあるのか? 忘れた記憶の中にそういったものがあるのか?
私はもう気づいている。視ている。
私は木の根に躓き、転び、傷だらけ泥だらけになりながらも西塔へ走る。
血肉が飛ぶ。よく見慣れた腕が視界の端をかすめてあらぬ方向に飛んでいく光景を知っている。私は見ている。
あたかも当事者であったかのように。
息も絶え絶えで私は西塔そばにたどり着く。
赤髪の生徒は間違いなくアレッキーオだった。かろうじて残っていた髪から判別できた。落下したであろう場所には大きな血溜まりができており、あたりには脳みそ、頭皮、骨片が散乱し、塔と辺りの木々にこびりついていた。
私は知っている。頭上を飛び越えて飛び散る自身の肉片たちを。血に染まる着慣れたスーツを。
私は耐えきれず嘔吐した。
つい先日まで話していた友人の死体を見たショックで吐いた。現場に広がる凄惨な悪臭に耐えきれなくて吐いた。
自分が元の世界で自殺したことを思い出してしまったから吐いた。
明日も20時くらいに投稿します。




