第二十八話 地獄の四角関係
世界がそのまま壊れていく心地がした。テオは私の隣に立ち尽くしていた。私は、自分がどんな顔をしているのか分からない。
アダム王子がこちらに気づく。すると、彼の瞳から涙が溢れ出す。イヴから離れ、蹌踉とした足取りで私たちに近づき、私の両肩を掴む。
「助けて」
アダム王子の双眸からはらはらこぼれ落ちる涙は、美し過ぎるほどに美しかった。
「助けてくれ。お願いだ。頭がどうにかなりそうなんだ。
僕は、リリアの婚約者だ。僕は、リリア以外の女性を愛してはいけないんだ。それなのに、僕はイヴを、リリアと同じくらい、それ以上に愛してしまったんだ。
でもそれはやっちゃいけないことなんだ。僕は、リリアを、リリアだけを見ていなきゃいけないのに、僕は」
アダム王子は両肩を掴んだまま頭を垂れる。床を彼の涙が濡らす。
「リリア、リリア。僕は君を愛してるんだ」
私は手のひらでアダム王子の涙を拭う。
『実現できそうな方法は彼らの恋路を邪魔しないことに思われる。ふたりのラブを阻もうとしたためにゲームの私は破滅したのだ』
数年前に考えた破滅を回避する方法。それを実行するだけでいい。そうすれば死なずに済む。テオや、メアリアンを守ることができる。いいこと尽くしだ。喜ばしいことしかない。
私は大人だ。元の世界で二十年は生きて、こちらの世界でも生まれ落ちてから十六年過ぎた、いい年のおばさんだ。若者を応援するのが年長者の務めだ。
私は思い切り口角を持ち上げて目を細める。
「アダム王子、私、あなたのことを愛しています。異性としてではなく、家族として」
アダム王子の目が大きく見開かれる。
「アダム王子は勘違いなさってるんです。家族に向ける愛と、真実の愛を混同されている。
……いつかはこんな日が来るとは思ってました。その時は、すっぱり身を引くんだって心に決めていたんです」
声に嗚咽が混じりそうになる。鼻声で、聞くに耐えない自分の声に辟易する。
「イヴは、アダム王子の運命の人です。イヴと結ばれれば必ずあなたは幸せになれる。どうか幸せにおなりください」
両肩を掴んでいたアダム王子の手の力が抜けていく。そのまま腕は下され、アダム王子は魂が抜けたように力なくうなだれた。
私は彼の前を通り、教室の隅で立ち尽くしているイヴに近づく。どれほど夕陽に照らされていても、彼女が真白な顔をしていることはわかった。私は彼女を抱きしめた。
「お願い。アダム王子を幸せにしてあげて。あなたにしかお願いできないことなの」
イヴが私を抱き返すことはなかった。腕から解放してやると、ただただ呆けた顔で私を注視していた。私は彼女の頭を撫でる。
「そんな顔しないで。私たちの家の都合に巻き込んでごめんなさい。
……ねぇ、イヴ。こんなことであなたとの友情に傷が付く方がいやよ。私、あなたが好きなの。イヴが大好きよ。これからも友達でいてくれる?」
イヴは震えながら、何度も何度も、頷いてくれる。私は彼女の顔に手を伸ばし、額と額をくっつける。
「イヴ、ごめんね。ありがとう」
私は踵を返し、教室の出口に向かう。扉にたどり着く前に何度か机に体をぶつけ、よろめいてしまう。
「テオ、行きましょう」
テオの脇を通り抜け、教室を出たところまでは覚えている。その数歩足を進めたあと、急に目の前が真っ暗になって立っていられなくなった。誰かに体を支えられ、引きずられるように歩いている。支えてくれている人物から馴染みのにおいがした。
「ぼくの、せいです。ぼくが、ぼくが教室へ連れて行ったばかりに」
「……となりにいるのは誰?」
「ぼくです。テオです」
「ねぇテオ、笑い声が聞こえない? 私を罵倒する声。哄笑が聞こえるの。『泣いている私を嘲る声がする』!」
「いいえ。聞こえません。ぼくとリリアお嬢様以外、誰もいません」
しばらく歩いていたが、歩くことすら億劫になってどこかの階段の途中でしゃがみ込む。テオも私のとなりに座ってくれた。
「テオ、どうしよう。私、どうしようもないくらいアダム王子が好き。年甲斐もなく、心の底から彼を愛しているの。二十も歳の離れた彼を!」
私はヒステリックに騒ぎ立てる。我ながらなんて耳障りな声だろう。すがりつく私を抱きしめ、テオはそっと耳元で囁いた。
「リリアお嬢様、あなた様はまだ十六歳です」
「見た目はね。見た目だけは十六歳の女の子よ。皮一枚剥いでしまえば年老いた醜い女がいる。誰もが目を背けてしまうような下劣な本性が潜んでいる!」
せっかく気を遣ってくれてるテオの言葉すら遮って怒鳴り散らす。あまりにも横暴だ。本当に悪役令嬢になってしまったみたいだ。
「イヴとアダム王子を近づけないように画策してたのは、破滅が恐ろしいからだけじゃなかった。私がただ単純に、アダム王子をイヴに取られたくなかっただけ。
アダム王子に選んでもらえなくって女として劣っていることを、まざまざと証明されるのを厭うただけ!
歳のことを気にするのだってそう。歳を言い訳にして、自分を守る盾にして、歳が歳だから仕方ないって自分に言い訳にするためで、本質から目を逸らそうとしてるだけ。
私の女としての価値のなさよ!
歳を無為に重ねただけでなんの面白みもない女。そのせいで、アダム王子に愛されなかったという事実を認めたくない、ただそれだけ!
使用人のためだと嘯いて、結局、私は自分のことしか考えてない。胸糞が悪くなるくらいのエゴイストなの。どんなに時間を重ねても、私の捻くれ曲がった本性は治らない。人として、全く成長していない。私は、私が大嫌い!」
テオの制服を握りしめ、何度も彼の胸を叩く。テオはされるがまま、何も言わずに私を見つめている。
「アダム王子が好き。どうして好きなのかしら? 説明がつかないの。推しだったから? 違う。王子様だから? 違う。ひとりの人間として、ただひたすらに彼に惹かれるの。ただただ、愛してるの。この世界で一番、ただ、ひたすらに……」
そう言って、どのくらい時間が経っただろうか。
歌が聞こえる。
懐かしい歌。耳にするだけで心は安らぎ、郷愁の念が呼び起こされる。
テオが『ポルノグラフィティ』の「うたかた」を歌っていた。
未だ帰れぬ故郷の歌。忘れがたき愛しい歌。
テオにつられて、私も歌い始めてしまう。鼻声で、ガラガラで、聞くに耐えない歌声だった。
テオが大きな声で歌うから、つられて私も大声で歌う。体を揺らして、リズムを取り始める。
いつも仏頂面のテオが、控えめに微笑んでいた。自然と私も笑顔がこぼれた。歌い終わる頃には私たちは二人で笑い合っていた。
テオは私が感情の渦に飲み込まれそうになった時、いつだってとなりで支えてくれる。
「テオ。ありがとう。大好きよ」
私は彼の胸に顔を埋めながら言った。
「ぼくも、リリアお嬢様をお慕い申し上げております」
テオはいつもの無表情で、淡々と言った。
「なんだか、愛の告白みたいね」
「愛の告白ですから」
真面目くさった顔でテオが言い放った。あまりにも普段とかけ離れたテオの言動に、私は笑い出してしまう。
テオは私の顔をしばらく見つめていたが、けらけら笑う私につられて諦めたように笑い出した。テオの笑い声は、泣き声のようにも聞こえた。
↓
「……『私の「愛している」と彼女の「愛している」には大きな隔たりがあった』、か」
褐色肌の男は自嘲気味にぼやいた。
「あ? てめえ何言つてんだクソじやねえの?」
「いえ、こちらの話です」
誰もが死んだように寝静まった夜のことだった。西塔入り口前に、褐色肌の男と外套を目深に被った男がいた。
「で? 答えはどうなつたんだテオさんがよお。協力すんのかしねえのかハッキリしろや土の民風情がよ」
「協力いたします」
尊大な態度を取り続ける外套の男は満足げに鼻を鳴らした。
「彼の男は愛欲に溺れ、我が主人を深く深く傷つけた。それだけで万死に値する」
褐色肌の男は外套の男に跪拝する。
「喜んでアダム王子暗殺計画に協力いたします。第五王子、ミハイル・フォン・シャルロワ様」
「……俺様の名前を軽々しく呼ぶんじやねえよ、チンカス野郎」




