ジョンの一生
老人がひとり、狭い部屋のベッドに横たわっていた。目は見開かれ息も絶え絶えで、彼が今際の際にあることは明らかだった。
かたわらには褐色肌の少年がおり、甲斐甲斐しく老人の世話を焼いていた。
「テオ、テオはいるか」
「ジョンさん」
少年は老人の震える手にそっと触れる。
「テオ、テオ。リリア様は……」
「ジョンさんに言われた通り、人払いは済ませました。もちろん、リリアお嬢様も」
「そうか」
老人は激しく咳き込む。少年は湿ったタオルで老人の顔を拭いてやる。それ以上のことをしてやることができなかった。
「テオよ。つまらない老いぼれの昔話を聞いてはくれないか」
「ジョンさんが望むなら」
老人は長く、長く息を吐き出した。
*
父はオールドマンの庭師だった。祖父も、そのまた祖父も庭師だったと聞いている。私は花が好きではなかった。父の手伝いで世話をしてやったが、上手く咲いた試しがなかったし虫も苦手だったから。
父が亡くなったのは私が九歳の時だ。流行り病だった。母は私が生まれると同時にこの世を去っていた。頼れる人は誰もいなかった。
先々代のオールドマン当主様のご厚意で私はそのまま庭師として雇われることになったが、苦心した。
私の父は植物を育む才のある人で、その姿を間近に見ていたから一層自分の不甲斐なさに打ちのめされた。父に教わった通り世話しても植物は応えてくれない。あっという間に萎んでいく花の姿は堪えるものがあった。
それでも慣れるものだ。三年もすれば見れるくらいの腕になった。植物を枯らすことも減った。あれほど植物と向き合い続けていたんだ、当然と言えば当然だ。
父が亡くなってからずっと目標にしていた庭園の赤薔薇たちを咲かすことにも成功した。当時は今ほど優れた肥料もなかったから、薔薇の花一輪咲かせることもむつかしかった。
私は赤薔薇を咲かせたことで庭師として一人前になれたと自負していた。育てた花に愛着が湧いてきていた。
「なによこの薔薇! 気に入らない、気に入らないわ! 今日中に白いのに交換して!」
そう私に怒鳴りつける少女がいた。その人はエリザベス・オールドマン様。リリア様の大叔母に当たる方。彼女は当時七歳くらいだったと記憶している。
理不尽な命令だった。だが一介の使用人である私が逆らえるはずがない。白薔薇の苗を慌てて購入して、私は赤薔薇を根こそぎ抜いた。手が震えた。涙が出そうだった。
もちろん庭園を埋め尽くすほどの白薔薇を一日で買い集めるなんて到底できなくて、薔薇園は寒々としたものになった。
「こんなのなら、元の方が良かったわ」
庭園を見たエリザベス様の一言に私の堪忍袋の緒が切れた。エリザベス様に怒鳴りつけてしまったんだ。私も幼かったとはいえ、無謀なことをしたものだ。普通なら職を失ってもおかしくない。
エリザベス様はとても驚かれて、あろうことか笑顔を浮かべた。
「わたし、はじめて怒られた!」とね。
その一件以来、私はエリザベス様に気に入られて、ことあるごとにエリザベス様が私の元にやってきた。
エリザベス様は先々代の当主様が他所でこさえた、有り体に言ってしまえば浮気相手の子だった。屋敷の皆が扱いに苦慮していたんだ。
屋敷で宙ぶらりんになったエリザベス様と、天涯孤独になってしまった私。ふたりがお互いの孤独を埋め合うように親しくなったのは、自然なことだったかもしれない。
エリザベス様からは色々なことを聞いたよ。
いかに彼女が屋敷で冷遇されているか、好きな食べ物の話、嫌いな使用人の話、大嫌いな継母と兄弟たち、彼女が夢中になっている本について。彼女は活字中毒で、オールドマン家にある本全てを読破したと豪語していた。
彼女は教えたがりで、私に文字の読み書きまで教えてくれた。
エリザベス様と一緒いる時、私はひたすら彼女の話を聞き続けていた。彼女の中で話が完結してるから会話の内容は急に飛躍して分かりにくいし、偏った考え方をしているから首を傾げてしまうような発言も多い。「その通りだ、君は正しい」と肯定してあげないとヘソを曲げる。
わがままで、気まぐれで、面倒くさがりで、気が強くて、なにが怒りのツボかわからない。
私はそんな彼女を愛していた。
エリザベス様のとりとめもない話を延々と聴きながら、彼女の美しい黒髪を眺め続けていたかった。感情豊かな茶色の瞳を見つめていたかった。彼女に振り回されることが楽しくなっていた。
私は庭師という立場を超えて、エリザベス様を愛していた。深く、深く。
だが理解していた。私にはエリザベス様を幸せにすることができない。身分が違いすぎる。彼女を苦労させないほど稼ぎがあるわけではない。何より、エリザベス様は私を庭師として、ひとりの友人として私を好いていた。
私の「愛している」と彼女の「愛している」には大きな隔たりがあった。
エリザベス様はいつかそのやんごとない身分にふさわしい相手を見つけ、幸せに生きていくだろう。私は彼女の幸せそうな笑顔を、遠くから見守っていれればそれでいい。そう、そう思っていた。
エリザベス様は私の予想通り彼女に相応しい男性と出会った。歳の差は二十近くあったが、彼女はそのお方に夢中だった。
曰く、そのお方は外の国を遍歴していた経験もあり、興味深い話をいくつもいくつも聞かせてくれるので一緒にいて愉快なのだと。
私はそのお方のように面白おかしく語れる経験も、話術もない。エリザベス様は無口で退屈な聞き役ではなく、雄弁で快活な語り手を求めていた。
覚悟はしていたはずなのに少なからず傷付き、傷付いた事実に私は打ちのめされた。
「信じられないわ、わたしが結婚できるなんて。卑しい生まれのわたしが」
エリザベス様は結婚前日、私にそう漏らしていた。彼女は十六歳で、出会ってから九年の月日が流れていた。
「ねぇ、ジョン。わたし、幸せになれるかな?」
そう言って、彼女ははにかみながら私に微笑んだ。
その日の夜、エリザベス様は蒸発した。
結婚式の朝、エリザベス様を起こしに彼女の部屋を訪れた女中が異変に気がついた。無くなった衣装は無く、靴もそのまま。貴重品も盗まれた痕跡がない。彼女は寝巻きのまま、失踪してしまった。
これは間々起こり得ることだった。貴族の子息が忽然と姿を消す。「外なる神々のおめがねにかなったのだ」と人々は言った。
これからもずっと彼女の幸せを遠くから見守りたいと願っていた私にとって、耐えがたい出来事だった。見守ることすら許されないのかと。運命を呪いさえした。
私は仕事関係なく庭園へ篭るようになった。残された彼女のよすがはもはや白薔薇しかなかった。私は残された白薔薇をより美しく咲かせることに腐心した。現実で起こる事柄に関心が持てなくなっていった。
エリザベス様の婚約者が別な女性と結婚したことも、現当主のアーサー様が生まれたことも、私の心を動かすことはなかった。私の時はエリザベス様が失踪したその日の夜から止まっていた。体だけがどんどん老いていった。
父の年齢をとうに越え、体中が軋み始めていた頃だった。
「なによこの白いの! 気に入らないわ! 赤い薔薇に植え直して!」
私は耳を疑い、目を見開いた。
エリザベス様によく似た、豊かな黒髪を持った少女が癇癪を起こしていた。
私の時は動き出した。
*
「リリア様は本当に、あの方に似ていらっしゃる……」
老人はむせて咳き込む。それすらお構いなしに老人は語り続ける。
「お前さんに分かるか? リリア様が屋敷の皆に文字を教えると宣言した時の驚きを。リリア様とお前が、ふたりきりで勉強している姿を見た時の衝撃を! まるで昔の私たちを見ているかのような……」
少年は表情を変えずに老人の話に耳を傾けていた。
「テオ。老人の戯言として聞いてくれ。自分と真っ直ぐに向き合え。どんなに逃げても、自分自身からは逃げられない」
「……ジョンさんは思い違いをしています」
少年はぽつりとつぶやいた。
「第一に、ぼくとリリア様はジョンさんとエリザベス様とは違います。第二に、ぼくはリリア様を愛してはいない。
ぼくはリリア様を見ていると苦しいんです。あの人のことを考えただけで心がざわついて、あのお方がアダム王子と一緒にいるだけで苛々して、叫び声を上げたくなるほどに悲しくなる。あのお方を見ているだけで、息を吸うたびに胸が締め付けられて、息を吐くたびに気鬱になる。
大切な主人に、命を救ってくださった大恩人に、そんな感情を向けている。
愛とは、甘美で麗しいもののはずです。ぼくはリリア様を愛していない。この感情が、おぞましく汚泥にも似たこの感情が、愛なはずがない」
「……テオよ。その身を焦がすような激情を、その四肢をもがれんばかりの慟哭を、その草原の輝きに似た青さを。
……人は愛と呼ぶ」
老人は呻くように笑う。
「……私も、そうだった。私もそうして、想いを燻らせて、結局、あの方に想いを伝えることすら……!」
老人は天井を見上げる。顎を上向かせ、呼吸することも難儀であるようだった。
「あぁ、実らないと分かっている想いほど苦しいものはないな。……テオよ。実らない恋など無駄なものだと思うか?」
少年は答えなかった。それが彼の答えだった。
「……そうか、そうだな。テオ、外に出てみるといい。私の実らない恋が生み出した成果物がある」
老人は激しく咳き込む。手を震わせながら、両腕を天に向けて伸ばす。
「あぁ、エリザベス様。そこにいらっしゃいましたか! お会いしとうございました……!」
*
少年は傾きかけた老人の小屋を辞す。太陽の光があまりにも眩く目がくらむ。
胸に詰まるような、甘いかおりがした。少年は時間をかけて瞳を開く。
腰くらいの高さの生垣に、溢れ返らんばかりの白薔薇が花開いていた。どれもが天を仰ぎ、野生の力に満ち、堂々と咲き誇っている。風が吹き、光を反射しながら花々がざざめく。花弁がたおやかに舞い踊り、少年の視界を真白に染める。
少年が呆然と薔薇を眺めていると控えめに近づいてくる者がいた。彼女は烏の濡れ羽色の髪を揺らしながら、少年に声をかける。
「ジョンおじいさんは」
少女の声で我に帰った少年は彼女に向き直る。少女のうしろには何名かメイドが控えていた。
「ジョンさんは、もう。息を」
少年がそう答えると、少女は息を飲む。唇を震わせ、肩をわななかせる。彼女は懸命に微笑もうとする。
「そう、そうなの。ありがとうテオ、ジョンおじいさんを看取ってくれて」
そう言うや否や、少女の双眸から悲しみが溢れ出した。気づいた彼女は必死に目元を拭うがそれでも止まらず、倒れ込むように座り込んだ。
少年はとっさに少女を抱きとめていた。彼女が泣いている姿を少年は初めて目にした。
その後の少年の記憶は曖昧になる。
だが、少年の主人である少女が墓前で語った話だけははっきりと覚えていた。
ジョンおじいさんが作ったサンドイッチが大好きだったの。自分でも作ろうと思ったんだけど、どうにも上手くできなくて。
ジョンおじいさんから教わってもあの味にならなくて。もっと真剣にジョンおじいさんから習っておくべきだった。もっとジョンおじいさんとお話しておくべきだった。
もう二度とあのサンドイッチを食べられないのね。
もう二度とジョンおじいさんに会えないのね。
*
太陽が山際を照らし始める。鮮烈な朝日が、無数の墓石たちを照らし出す。
少年は青年と成り、黙々と墓石の手入れをしていた。一通りの掃除を終えると、青年は白薔薇の花束を墓前に供えた。
「早いですね。あなたが亡くなって、もう三年が過ぎようとしている」
青年は膝を折り、墓に刻まれた名前を親指でなぞる。
「……リリアお嬢様は今年、学園に入学します。ぼくも、リリアお嬢様についていくことになりました。……ぼくは」
青年は深呼吸する。顔を歪め、声を震わせて墓石に語りかける。
「ぼくには、この胸を渦巻く感情が、愛かどうかわからないんです。
ですが、向き合おうと思います。それがジョンさんがぼくに残してくれた想いだから」
青年は頭を垂れ、そのまま彫像の如く動かなかった。
ここまで読んでいただきありがとうござました。
次回から物語の完結篇である第二部が始まります。
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