第十九話 魅惑のベッドタイム
私はベルナール邸の客間にあるベッドへダイブする。オールドマン家のベッドよりも幾分か大きく、私を包み込んでくれるような柔らかさがあった。
「突然押しかけたのに厚遇されている……」
切った手の治療をしてもらったあと、私は急いで実家に帰らねばならなかった。テオが明日の朝には屋敷を出てしまうからである。日は沈んでおり、私は焦っていた。
「今から馬車で帰ってもどうせ昼近い。早馬を出してオールドマン家に解雇の件はなかったことにする旨を伝えてやる。その方が早い。万一屋敷から出て行ってしまっていても、総力をあげてその使用人を見つけてやろう。こうなったのも私の責任だ。
だから、安心して泊まっていけ。ベルナールは客に料理も出さんと言われたらたまらん」
私とアダム王子はベルナール大公の言に従う他なかった。夕食は事前に準備していたかのように豪華で、思いの外会話も弾んだ。
「ベルナール大公はその実、子供が好きなのですよ」
寝巻きに着替えさせてくれたメイドがこっそり教えてくれた。
「失礼ながら、いつもいかめしいお顔をされていらっしゃるでしょう? そのため、誤解されてしまうことも多くて……。どうか、我らが主人を敬遠なさらないでください。性根はお優しい方なのです」
最初こそ恐ろしかったベルナール大公だが、すっかり印象が変わってしまった。ただただいい人だ。
私はベッドの端から端まで転がる。楽しい。緊張がとけ、だらけていた。
ふと本棚の貴族名鑑が視界に入る。
正直なところ、私はベルナール大公とアダム王子の関係がよくわかっていない。甥、と言っていたがベルナール大公は王族なのか? 四大貴族ベルナール家の当主だから王族ではないはず。
致命的なまでに血縁関係を把握してない。シンプルに失礼である。おそらく、貴族名鑑なら血縁関係が分かるはず。
私は椅子を運び、本棚の上部にある貴族名鑑を抜き取る。パラパラとめくると、運良くすぐに該当ページを開くことができた。
「へぇ! ベルナール大公の妹さんが王に嫁いでアダム王子が生まれたんだ! だから後見人になってるのねぇ。で、アダム王子の上の兄弟のお母さんが四大貴族ペシュコフ公の……。ふーん」
呆れるほどに今更である。アダム王子のお母さんの経歴を読んでいると、下の方に小さく現在失踪中、と手書きで書かれていた。
私の心臓が跳ねる。
私のお母様も蒸発している。
妙な予感がした。
オールドマン家のページを開く。私の大叔母も、曽祖父も失踪中と書かれていた。
心臓の音が耳元で聞こえる気がした。
私は適当に別なページを開こうとするが、手が震えて上手くめくることができない。
現在失踪中と書かれている者のなんと多いことか。
気のせいだ、と自分に言い聞かせる。
確か日本でも八万だか九万だかの行方不明者がいるのだ。たまたまだ。不思議なことなど何もない。何を怯える必要がある?
自分に言い聞かせる言葉が自分の中で上滑りする。自分の言葉に私が一番納得していない。
悪寒がした。
落ち着け、落ち着け。自分で恐怖の対象を生み出しているだけだ。空想に怯えているだけ。
嫌な汗があふれ出す。背筋がぞわりと冷える。心臓が早鐘のように打つ。
むせ返るような腐りかけの果実の香りがした。
私は直感的に理解する。
うしろを振り返ってはいけない。
にわかに扉が開く。驚きのあまり貴族名鑑を取り落とす。扉に目を向けると白い寝巻きに着替えたアダム王子がいた。彼の身長とほぼ同サイズの枕まで抱えている。
「リリア様? 大丈夫ですか?」
「えぇ、えぇ。問題ありません」
私は床に落とした本を拾う。先ほどの妙な香りはしなくなっていた。恐怖心も立ち消えた。
一体さっきの香りはなんだったんだろう?
「アダム王子、どうなさったのですか?」
「ええと、あの。一緒に……」
アダム王子は枕をきゅっと抱きしめる。私は己が貞操観念と一瞬だけ相談し、まぁいいかと快諾する。どうせお互い八歳児である。変なことは起こらない。
私とアダム王子はふたりでベッドに入るが、なんとなく絶妙な距離を取る。
「ねぇ、リリア様」
「どうしたのですか、アダム王子」
「もう少し近づいていいですか?」
「どうぞ」
アダム王子は私にギリギリ手が届く距離に近づく。
「アダム王子、照明を消してもよろしいですか?」
「はい」
私はベッドサイドランプを消す。目の前は真っ暗になり、お互いの吐息しか聞こえない。修学旅行の時のような緊張感があった。
「ねぇ、リリア様」
「どうしたのですか、アダム王子」
「もう少し近づいていいですか?」
「……どうぞ」
私の眼前にアダム王子の顔があった。アダム王子の子供体温が心地よい。まるで等身大湯たんぽである。
ベルナール大公が準備してくれたパリッとのり付けされたシーツも、枕の香りも眠気を誘う。
「リリア様」
「どうしたのですか、アダム王子」
お互い眠気でもにょもにょした口調で話す。
「僕、こんな風にお母様のところに眠りに行ってたんです。いい匂いがして、好きでした」
アダム王子の手が私の背中に回る。私もアダム王子の背中に手を回し、彼を抱きしめる。
「僕のお母様は優しい人で。優しい人だったのに。どうして、いなくなってしまったんでしょう」
私はアダム王子の胸に顔を埋める。ただ眠たかった。アダム王子の匂いがした。
「リリア様はいなくならないで。ずっとそばにいて」
「ずっとそばにいますよ」
「本当?」
「うん」
「そっかぁ」
それきりアダム王子は喋るのをやめ、いつしか寝息が聞こえてきた。
アダム王子はどうして私なんかを必要としているのか。私はようやく理解する。
彼は、私を自分のお母さんと重ねている。お母さんに与えられなかった愛情を私に求めている。心の穴を私で埋めようとしている。
だが、彼が私の愛を求めるのも今だけだ。
アダム王子は数年後、亜麻色の髪が麗しいゲームの主人公イヴに出会う。彼らは素敵な恋愛をするのだ。私はイヴに会うまでのつなぎに過ぎない。
アダム王子の隣にいられるのなら、それでも構わない。そう思いたかった。
「ずっとそばにいますね、アダム王子。あなたが望む限り」
そっと呟き、私は意識を手放した。




