第十八話 小さな勇者たち
ベルナール邸へこっそりと経つ直前、ジョンおじいさんが私に手紙を渡してきた。中身をたずねようとすると、ジョンおじいさんは踵を返して去ってしまった。
私は馬車に揺られながら手紙を紐解いている。そこには未来ある若者を慮り、テオの解雇を白紙に戻すようこいねがう旨が書かれていた。
あの時私の文書を見て渋い顔をしたのは私の文書が拙かったからで、テオを拒絶したからではなかった。
私はジョンおじいさんの流麗な字体に胸が熱くなる。手紙を握り締めながら必死で涙を堪える。
「ありがとう、ジョンおじいさん」
*
「テオ……? テオ……あぁ、バダブの民の」
すっかり忘れていたと言わんばかりのベルナール大公の態度が、神経を逆撫でする。彼の口元にはうっすらと嘲笑が浮かんでいた。
「たかが使用人ひとり、しかもバダブの民の使用人のために地位を放り投げるとは……。酔狂だな。いや、ただの世間知らずのお嬢さんか。確か男だったな、その使用人は。あながちウブなご令嬢様であらせられるリリア・オールドマン様は誑かされたんだろう、その下郎に。それとも禍ツ力でもかけられたか」
あまりにも嫌味ったらしい言い回しに私は絶句してしまう。
「バダブの民という点を除いても、婚約相手の浮気というのは通念上度し難い。今なら若さ故の過ちということで許してやる、とっととテオとかいう小僧をクビにしろ。お前はただ利用されているだけだ。目を覚ませ。
……それにバダブの民は人肉を喰むという。そんな野蛮人をそばに置くなど気は確かか」
私は手を震わせながらベルナール大公にジョンおじいさんからもらった手紙を差し出す。
「どうか、こちらを。我が使用人が書き記した、解雇撤回の嘆願書です」
「嘆願書?」
ベルナール大公は鼻で笑いつつ嘆願書を受け取り、粗暴に書面を広げる。
「はっ、解雇に反対する者はたったひとりか!」
「いいえ、私も入れてふたりです」
「くだらん」
大公は手に持った手紙を容赦なく破り捨てる。紙が破られる音がわざとらしいくらい大きく部屋に響く。
このひとは、ジョンおじいさんがせっかく書いてくれたものを、なんてことを。
爪が食い込むほどに手を強く握りしめる。
「私は貴様らオールドマン家のためを思ってクビにしろと言っているんだ。バダブの民ひとりのためにアダム、ひいてはベルナール家の格が下がったらたまらん!
バダブの民なぞ誰も彼も一緒だ! そこに在るだけで災厄を撒き散らす、唾棄すべき連中だ! バダブの民と耳にするだけで虫唾が走る、失せろ! 私の気が変わらんうちにな!」
私は確信する。
この人は家の体面だなんだと一見まともそうな理由を並べ立ててはいるが、気に食わない存在を排除したいだけだ。バダブの民への強烈な差別意識が言葉の節々から滲み出ている!
私は堪え切れずに懐に忍ばせていた短剣を引き抜く。
『これを肌身離さず持ち歩くんだよ、いいね?』
お父様に言われた通り持っていた短剣が、こんな風に役立つ時がくるだなんて。
にわかに書斎の空気が変わる。
誰かが動き出す前に私は自分の手のひらを短剣で切る。すぐに手は赤く染まり、その手をベルナール大公に見せつけるように掲げる。
「ご覧ください。私の体内で脈打つ赤き血潮を。テオに流れている血も、私と同じ赤い血! そこに民族は関係ありません!」
手が燃えるように熱い。痛みでヒリヒリする。だがテオはこれ以上に傷つけられ、痛みにもがいている。
目前にふてぶてしく腰掛けるベルナール大公が、憎たらしくてたまらなかった。
「だいたいなんですか、会ってもいない相手に対して好き放題悪口を巻くしたてて。そういうバダブの民がいたかもしれません、ですがそれはテオではありません。あなたの妄執です。ただの偏見です。妄想と現実の違いくらいしっかりつけてくださいよ、大公様でしょう?
念のため言っておきますがテオは禍ツ力なんて使えませんし、人間も食べません。彼が食べるのはサンドイッチです。イチジクジャムのサンドイッチです!」
偏見で相手を歪んだ形に解釈するだなんて、アダム王子の考えを都合よく決めつけていた私みたいだ。同族嫌悪も相まってベルナール大公への怒りが収まることを知らない。
「それに私がテオに惚れてる? どこまで大公様は節穴でいらっしゃるんですか。私はアダム王子に首ったけです。あんな素敵な婚約者がいてよそ見なんてするわけがないじゃないですか! 私はアダム王子を愛しています!」
そこまで言い切り、私は興奮と酸素切れでぜいぜいと肩で息をする。呼吸が落ち着くにつれ、冷静に自分の行動を省みる。
やっちまった。
ベルナール大公の言動が頭にきて言いたいことを言い散らかしてしまったが、後半はただの暴言である。
ずっと彼の後ろに控えていた老執事は気ぜわしい様子で私とベルナール大公を見比べている。ベルナール大公は俯いてしまったため表情がわからない。
「言いたいことはそれだけか」
「……はい」
ベルナール大公は答えない。
私は自分の運命を予見する。もはや私の身分剥奪では済まない。刃物もチラつかせてしまった。不敬罪及び殺人未遂でお父様諸共死刑となってもおかしくはない。
私が絶望して目を閉じると、扉が開く音がする。驚いて振り返ると鼻水を垂れ流し、目を泣きはらしたアダム王子が乳幼児のごとく頼りない足取りで部屋に入ってきた。
血の気が引いた。私は慌ててアダム王子に駆け寄る。
最悪なタイミングでアダム王子が入室した。
「入って来ないでって言ったのに……!」
その一言にアダム王子が声を上げて泣き始める。
やってしまった、言ってはいけない一言を言ってしまった! どうしようどうしよう。背後にはベルナール大公がいるのに。
私はアダム王子を抱き寄せて背中を叩き頭を撫でる。泣かないよう祈りながらなだめるが制御が効かない。
泣かないで、笑って!
ふと私は思いつく。
「『なんと美しい方でしょう。私は貴方以上に美しい方を生まれてこのかた見たことがない。貴方の美しさを何に喩えようか』」
私はアダム王子の耳元でそっと囁いた。それを契機にアダム王子は徐々に泣き止んでいく。
「アダム王子、私はベルナール大公に抗議していました。ですが手酷く失敗してしまったのです。あなたにまで罰が与えられるかもしれません、私はそれが恐ろしいのです。どうかお帰りください、どうか」
「いや、です。絶対にいやです。僕、も、リリア様といます」
アダム王子はしゃっくりを繰り返しながら、時に嗚咽をあげながら話す。
「リリア様は、おっしゃいました。勇敢な僕が、好きだと。勇敢でいなければリリア様に好きでいてもらえないから、でも入ったら嫌われてしまう、でも、僕は、勇敢でありたくて。あなたの好きな僕でいたくて。多分、このまま逃げたら、もう二度とリリア様と対等に話せない気がして、でも嫌われたくなくて、時間ばかりが過ぎて、それで……」
どんなにキツく言い放っても、アダム王子は私から離れないだろう。
アダム王子を巻き込みたくなかった。間違いない事実だ。アダム王子が現れたことに安心している私がいることもまた、紛れもない事実だ。
「ありがとうございます、アダム王子」
私は抱きしめていた彼を解放する。
「ひとつだけ。勇敢じゃないアダム王子も大好きです」
ここまできたら私のことなんてどうでもいい。せめて彼だけでも守る。私は彼の手を握り振り返る。
老執事は目を丸くし、ベルナール大公も面を上げ私たちを見つめていた。
「アダムが」
ベルナール大公は口元を手で押さえながら言った。
「あのアダムが、我が甥が、自分の意思でここに入ってきたのか。そう、そうか……」
ベルナール大公の口からくぐもった声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には獅子が吼えたようなけたたましい笑い声を上げていた。
私もアダム王子も事態についていけず、ふたりで顔を見合わせた。
「……リリア嬢。非礼を詫びたい。君の人となりを知るいい機会だからと試すような発言をした。心から謝罪させてくれ」
私を試す? 言葉の真意が分からずたじろいでしまう。
彼は立ち上がり、私に近づいてくる。その眼差しからは険が取れていた。
「先の発言は市井の人々がバダブの民に対して持っているごく一般的な見解だ。貴族とてそれは変わらない。バダブの民を側に置く君も社交界で鼻つまみ者として扱われるだろう。
バダブの民の少年を従者に据えるならば、これらの差別と戦い続けなければいけない。言葉で語るよりはるかに厳しい戦いになるだろう」
私の目線に合わせるように彼は屈み、穏やかな声色で続ける。
「リリア嬢、君にその覚悟があるか?」
私は逡巡する。その間もアダム王子は私の手を握り続けてくれた。私もその手を離さなかった。
「……わかりません。ただ、テオのことを諦めれば必ず後悔することだけ、それだけは確かにわかります」
緊張のあまり声が震えたが、ベルナール大公の瞳を真っ直ぐに見つめて私は断言する。ベルナール大公は目を細めた。
「愚問だったな。私は君の心意気を称賛しよう。だが、君のそれは勇気ではなく蛮勇だ。捨て鉢になってはいけない。刃物をちらつかせるなんてもってのほかだ。感情に囚われるな、しっかり勝ち筋を見極めた上で行動しなさい。いいな?」
私は頷くことしかできない。ベルナール大公は私の頭を優しく撫でる。
「さて、アダム。お前は物心ついた時から自分で物を考えることができない、愚昧な存在だと私は思い込んでいた。言われたことだけこなす人形だとな。私は認識を改めねばならぬ。お前は変わった。
だがな、自分の意思で行動するなら全ての行動に責任が伴う。他人に意思を委ねていれば起きなかったであろう苦難もお前に降りかかってくるだろう。
いいか、お前の大切な人を守りたいのであれば賢くなれ。自分の意志を通したいのであれば強くあれ。いいな?」
アダムが頷くと、ベルナール大公は満足そうに立ち上がった。
「今日はもう遅い。我が屋敷に泊まって行け。手を怪我していたな、手当てするからついて来い。
……あぁ、そうだ。リリア嬢、これを返しておく。良い文だった」
ベルナール大公に差し出された紙を見て驚く。先程渡していたジョンおじいさんの手紙だった。
「さっき破り捨てたのは……」
「別の紙だ。君を怒らせて本性を引きずり出してやろうとした。ひどいことをしたと思う。すまなかった。
信じてもらえないだろうが、私は人の想いを無碍にできるほど冷徹漢ではない。……正直、別な紙を裂いたとバレやしないか冷や冷やしていたが、その様子だと上手くいったみたいだな」
執事は主人のために黒の扉を開けていた。部屋から出て行こうとするベルナール大公を呼び止める。
「あのっ! 結局テオは……。そのまま屋敷で働いてもらってもいいのでしょうか?」
「……小さな勇者たちにせがまれた願いを踏みにじれるほど私は人でなしではない。
だが、私はアダムの世話人として果たさねばならない責がある。もし何か問題が起これば解雇するよう命じる。わかったか?」
ベルナール大公は発言とは裏腹に、諦めたような苦笑いを浮かべている。ようやく騒動に決着がついたのだと私は知った。




