第十六話 踏み出せない一歩
「申し訳ございません、お嬢様」「あの『血塗れの嫉妬卿』を敵に回したくはありません」「わたくしめには家族がございます。大公に歯向かって、職を失うことだけは」「お嬢様も関わらない方がいいですよ」
私は諦めきれなくて、ベルナール大公宛に嘆願書を書くことにした。文書は稚拙でお世辞にも良くできたとは言い難い。
「テオがいなくなってくれて清々する」「バダブの民なので致し方ない」「忌々しい子がようやく消える」「輩が禍ツ力でとんでもないことをしでかす前に追い出せてよかった」
私はみなに嘆願書へサインをお願いしたのだけれど、首を縦に振ってくれる人は誰もいなかった。ジョンおじいさんは文書を手に取るなり渋い顔をし、メアリアンは私の話を聞くと目尻をつり上げた。
「テオを、バダブの民を許してしまったら、私の両親の想いはどうなります。私が憎み続けなければ、私の大切な人たちは報われない。お父さんの苦痛を、お母さんの無念を私が覚えていてあげないと、ふたりがあんまりかわいそうではありませんか」
そう語るメアリアンは目を血走らせ、今にも泣き出してしまいそうだった。
私はひとり、屋敷の離れの廊下で深呼吸を繰り返していた。
誰かと話すたび屋敷の者に染み付いたバダブの民への厭悪を思い知る。テオは禍ツ力など使えない。テオは何も悪いことをしていない。いくら言葉を尽くそうと、偏見は一朝一夕では風化しない。差別はなくならない。
テオを守るために、他に方法はないのか。
頭で考えようとしても、屋敷の者が嘆願書に賛同してくれなかったことのショックから考えをまとめることができない。いいアイデアが思いつかない。
涙がこぼれそうになるたびに私は深呼吸を繰り返す。
泣くな。泣くな。泣いたところで状況は悪くなるばかりだ。ほら、『泣いている私を嘲る声がする』。
私は自身の考えに違和感を感じる。
嘲笑? 私は今ひとりだ。今の、強迫観念めいた発想はなんだ?
誰かの足音が聞こえる。反射的に目を向けると、テオが私に近づいてきていた。
「テオ……!」
「リリアお嬢様」
テオは努めて平静を装っているが、動作に余裕がない。髪の毛が乱れ、くたびれ切った雰囲気があった。
私は胸が締め付けられる思いだった。
「テオ、テオ。きっと私がなんとかするわ。だから安心して。いい考えが今に浮かぶから。必ずあなたを守るから」
私はテオと目を合わせることができない。彼は私の前に立ち、首を振った。
「リリアお嬢様、もういいのです。ぼくは明日の朝にでもお屋敷を出ます」
私は息を飲む。テオは見たこともないような人懐っこい笑顔で、私をあやすように話す。
「リリアお嬢様には本当によくしていただきました。思い残すことは何ひとつありません」
思い残すことがないなど嘘だ。
『ぼくをここに置いてください。それ以外は何も望みません』
私は以前吐露されたテオの叫びにも似た懇願を思い出す。
「……そうですね。最後にひとつだけよろしいでしょうか」
テオは私の持っている嘆願書に目を向ける。
「その文書をぼくにいただけませんか? ぼくに文字を教えてくださったあなた様を思い出すよすがにしたいのです」
諦め切った、妙に老けた笑顔に私は腹を立てる。
「そんなことをさせるために文字を教えたんじゃない!」
私はテオを突き飛ばすように払いのけ、肩を怒らせながらでたらめに歩き出す。
明日の朝にテオが出て行く? 明日の朝なんて、あと十数時間しかないではないか!
テオが去ってしまう事実をうまく飲み込めない。テオがいない屋敷を想像できなくなっていた。
『彼はバダブの民だからなぁ。仕事が上手く見つかるといいんだけど』
お父様の言葉が頭にこびりついて離れない。
『炭鉱夫になったら三ヶ月で死ぬとか言われてるらしいけど、それでも賃金がもらえるだけマシだよね!
煙突掃除人の募集もあったなぁ。肌が爛れたり煤が元で病気になったりして死ぬ人も多いみたいだけど仕方ないよね、バダブの民だもの!』
お父様の発言の意味をやっと理解できた気がする。テオはこの屋敷から出たら間違いなく死んでしまう。テオの母親だって、バダブの民を恨む者に殺されたのだ。彼が死んでしまうかもしれないのに、指を咥えて見ていることしかできないのか。
小さい子供ひとり守れず、何が四大貴族! 何が公爵令嬢!
私は意図せず薔薇園に足を向けていた。やるせないと、必ず薔薇園へ向かう悪癖ができていた。いつかのように庭に設置された青銅色のベンチに私は座り込む。
歩き回っている最中に、テオを救えるかもしれない方法をひとつだけ思いついていた。成功する可能性は著しく低い。私の足りない頭ではもうこれしか考えつかないのだ。
この方法を取れば、最高位の権力者ベルナール大公と対立してしまう。学園入学を待たずして私は破滅してしまうかもしれない。
私が行動を起こさねばテオの生命が脅かされてしまう。わかっていても足がすくんでもう一歩が踏み出せない。このまま見て見ぬふりをしてやり過ごせばいいのではないかという考えが頭にもたげてくる。
都合が良かったではないか。リリアを殺すかもしれない存在を遠くに追いやれるのだから。願ったり叶ったりだ。
でももう、ダメだ。私はテオが好きなのだ。彼の控えめな笑顔が、口元を押さえて私より上品に笑う様が大好きなのだ。
ずっとそばにいて欲しいのに、そのために行動できない。
どうして私には勇気がないのだろう。
思えば、昔からそうだった。
元の世界にいた頃、私は真面目な生徒として認識されていた。大人に歯向かう体力も気力もなく、命令に唯々諾々と従っていたからだ。大勢に抗ったことがなかった。その方が楽だから。抵抗は疲れるからと易きに流れ、無気力のまま時間の渦に沈んでいく。
一度として反抗らしい反抗をしたことがなかった私が、『血濡れの嫉妬卿』と呼ばれるベルナール大公に反旗を翻すことができるのか?
ぐるぐるぐるぐる思考は堂々巡り。悩んでばかりで何ひとつ大事を成すことができない。
あぁ、私は『また』見殺しにするのか。
私は目を見開く。
『また』? 『また』とはなんだ?
思い返しても誰かを見捨てたりした記憶はない。それにも関わらず臓腑を灼くような悔悟の念に駆り立てられる。刺すような痛みを眼球の奥の奥から感じる。
この感情はどこから湧いてくる? 記憶を思い返そうとするたび私を襲うこの痛みはなんだ?
心当たりはひとつだけ。
日本にいた頃、社会人になってからの記憶だ。私にはその頃の記憶の大半を失っている。
社会人になった私に何があった?
他人の息遣いが聞こえる。駆け足で、誰かがこちらに向かってきていた。その人物はよく見知った人物だ。私はまた涙がこぼれそうになったが、泣いたら彼は傷つくだろうから私は努めて笑顔を作った。
「アダム王子! ようこそ、オールドマン家へ」




