第五話〖出会い〗
【一】
カイザは安堵した。荒れ狂う拍動も乱れた呼吸も、やがて落ち着き、冷静さを取り戻した。上半身を起こし、薄いベニヤの壁に手をかける。
明け方。トタンの屋根に雨の音。雨漏り用のバケツはあふれ、赤茶色の水たまりが広がっている。
「どうしたの、カイザ?」
カイザの母ルミナは、柔らかな声でささやいた。
「ゴメン、母さん。起こしちゃったね」
「うなされていたわよ。悪い夢でも見たんでしょう?」
「うん」
「あらあら、怖かったでしょう。どんな夢?」
「大きな黒い怪物が飛び出して、子どもを食べちゃう夢。食べられたのは五、六歳の男の子で、たしか金髪だったと思う」
カイザ組のメンバーに金髪はいない。夢の中だけの架空の友だち。カイザはそう考えた。
「最初は、その子と仲良く遊んでいたんだ」
「どんな遊び?」
「えっと、たぶんカードゲームかな?」
「カードチェスね」
ルミナの顔色が変わったような気がした。カイザは壁をぼんやり見つめていたが、背後の気配を感じ取った。
「わ、わからないよ。僕はカードゲームなんてやったことがないから」
「母さんの言いつけ、ちゃんと守っているわよね?」
カイザはうしろから抱き寄せられた。背中に柔らかいものがあたる。
「カードチェスだけは、絶対にやってはダメよ。母さんとの約束でしょ?」
ルミナは耳元でささやいた。長い赤髪がカイザの頬をくすぐる。
「大丈夫だよ、僕はそんなのやらないから。カードハンターはカードを拾うのが仕事。遊ぶためじゃない」
カイザは頭をなでられた。その指先は冷たい。思わず腹に力が入る。
「カードクリエイターは怖い人たちなのよ。怪物を生み出して、人を襲わせるわ」
カイザは夢で見た黒い怪物を想像した。
二年前、都のクリエイターがひょっこりあらわれた。クリエイターランクが上がったところで、やっと実体化能力を手に入れたのだろう。頭のおかしなクリエイターは、瓦礫ノ園で「力試し」をおこなった。
ここは、社会から見捨てられた人が流れつく場所。瓦礫ノ園で暮らす人々は、誰からも守ってもらえない。のちにカイザ組のメンバーになる少女、金子ココナは、そのクリエイターに家族を殺された。
ちょうどそのころ、ルミナは病に倒れ、カイザは家で看病していた。もし外に出ていたなら、カイザも殺されていただろう。運が良すぎて、結果的に母が病気になった。そんな皮肉を、ココナによく言われた。
「カードチェスなんてしたら、危険な目に遭うに決まっているわ。カイザは母さんの言う通りに生きていればいいのよ」
ルミナはカイザを優しく包み込み、頬ずりした。背中から伝わる体温。守られているという感覚。まるで子宮の中に戻ったかのような心地よさ。カイザにとって、ここは瓦礫ノ園で唯一の安全地帯だった。
「母さんの言う通りに?」
「そうよ。それが一番、安全なのよ」
なぜだか、カイザはぞっとした。最愛の母のはずなのに。居心地よいはずなのに。肩にかかるルミナの腕や髪が、絡みつく蛇のように見えてしまった。
ルミナが体を悪くしてから、カイザはカードハンターとしてひとり立ちを余儀なくされた。今、ルミナを養っているのはカイザだ。
だが、本当のところ、カイザは母に頼って生きていた。カイザが外にいる間、食事の用意をして待っていてくれる。相談に乗ってくれる。いつでも味方でいてくれる。
拾い集めたカードはカイザ組で分配して、持ち帰る。そのカードを最後に整理するのはルミナの仕事だ。
自分が見つけたカードなのに、自分で管理させてもらえない。回収業者に引き渡すときも、交渉はルミナがやる。週に一度、直接家まで来てくれるように頼んであるのだ。
カイザにはまだ早いとか、足元を見られるに決まっているとか、色々理由をつけてルミナが全部仕切っていた。
自分はもう十四歳なのに、このままではいけない。カイザは胸の内ではそう思っていたが、母の優しさを裏切るようで、なかなか言い出せなかった。
(クリエイターは怖い人ばかりだなんて、決めつけてもいいのかな? カードチェスはそんなに危険なのかな?)
声には出さず、自問した。バケツからあふれた雨水が、壁を伝って広がってゆく。
【二】
雨がやみ、日が昇った。カードハンターたちがチラホラと活動をはじめだす。今日の空はスカイブルー、雲は可愛いピンク色。旧時代の空は、毎日こんな色だったという。カイザが生まれるよりも、ずっとずっと前の話だ。
「カイザったら、わたしをおいてどこに行くつもりよ?」
ココナは右足をかばってふらつきながら歩いた。
近くを見渡すが、カイザの姿が見つからない。昨日、ココナは足の裏を怪我した。カイザは休むように言ったが、無理をして家から飛び出してきた。
ココナはいつも、カイザにベッタリはりついて行動していた。カイザが走ればココナも走る。カイザが止まればココナも止まる。カイザはそんなココナを邪険にしたことなど一度もなかった。
だが、ココナが少しでも気を抜くと、カイザはひとりで別の場所に行ってレアカードを拾っていた。昨日も一昨日も、そのパターンでカイザがおいしいところを持っていった。
「カイザはわたしのこと、どう思っているんだろう?」
カイザは優しい。昨日も、ココナの怪我をみてやり、背負って帰った。だがその優しさは、ココナだけに向けられているのではない。カイザは誰にも対しても同じように接する。ココナはため息をついた。
「好きな女の子とかいるのかなぁ」
カイザは少女と見まごうほどの端正な顔で、立ち振る舞いも落ち着いている。瓦礫の園の子どもとは思えないような、どこか高貴な印象を人に与えた。
カイザ組のリーダーとして、メンバーのみんなから慕われている。カイザのことが好きな女の子がいてもおかしくはない。
ココナはカイザの居場所を聞いて回り、あとを追いかけた。
【三】
瓦礫ノ園で暮らす人たちの大多数は、家族でまとまって暮らし、家族ぐるみでカードハンターをして生活している。カイザ組のように、子どもだけで組織されたカードハンターのグループというのはかなり珍しい。
カイザ組のメンバーは、ほかに行くところがなかった。身寄りがなく、天涯孤独の子。捨てられた子。カイザの場合は、病気の母と二人暮らし。ココナの場合は、両親と兄をクリエイターに殺され、年老いて動けない祖母と二人暮らし。
「なんとかしなくちゃ、このままではいけないんだ。なにか良い方法はないかなあ」
カイザは下を向いてカードを探しながら、ひとりで考えごとをしていた。羽織っていた紫の布きれが、風でパタパタ揺れ動く。
いつか、カードハンターの時代は終わる。カードは探し尽くされる。そうなったらなったで、カード以外のものを拾えばいいと考えているカードハンターは多い。白札ほどの価値はつかないが、ゴミ山から再利用可能な廃材を集めて生きるという方法もある。
親がカードハンターの場合、子はカードハンターになるしかない。ほかの生き方を知らないのだ。非覚醒者が稼ぐ方法は限られている。
だが、瓦礫ノ園の人々は、意外にもみんな陽気で明るい。カイザのように悲観的にものごとを考える者もいなくはないが、自分の仕事に誇りを持っており、決して卑下などしない。
「ああ、どうしようかな」
カイザには、ほかにも悩みの種があった。母の病気のこと、母との関係のこと、あとココナのつきまとい。
都に行けば、いい薬が手に入るという。だが、非覚醒者は都に入ることを許されない。しかも薬は高価なものだ。絶望的な状況だった。
いつか、母が死ぬかもしれない。だから甘えてばかりではいられない。カイザは本当の意味での自立を考えた。もう子ども扱いはされたくない。
ココナにはもう少し大人になってもらいたいと望んでいた。カイザとしては、親や兄を殺されたことには同情するが、ココナと同い年の自分が兄がわりにされるのは荷が重い。対等な友だちだと思っていたのに、いつの間にか妹のようになっていた。
「見つけた! 今日も僕はツイている」
カイザの口ぐせが発動した。
白札を拾おうとした、そのときだった。
「ちょっと待ったぁ! そのカード、あてのモンやねん。返してくれへんかなぁ」
奇妙な喋り方の少女が、カイザのほうへ走ってくる。髪の長さは胸にかかる程度で、風でうしろになびいている。髪色は今日の空に似た水色。左目が悪いのだろうか、胡散臭い片眼鏡をしている。フレームの色は髪と同じ水色だ。
「さっき、カードを落としてもうたんや。このへん探しとってんけど、中々見つからんくてなぁ。たぶんそれ、あてのカードや」
少女はかなり背が高く、たぶん百八十センチメートルを超えている。対人距離がわからないのか、接触スレスレまで近づいてきて、カイザを見下ろした。
「というわけやから、カードはもらっていくでぇ!」
少女はその長い指で、カイザが持っていたカードをふんだくった。泥棒猫のような早わざだ。
「ちょっと待って。そのカードが自分のものだって、どうしてわかったの? 白札なんだから見分けなんてつかないはずだよ」
「カードの汚れ具合とかを見たら分かるねん。これはあてのカードや!」
「嘘をついているね」
カイザは少女の顔をまじまじと見つめた。
「あては嘘なんかつかへんでぇ」
少女は目をそらした。
カイザには人の嘘を見抜く才能があった。幼いころから母親の顔色をうかがって生きてきたからだろうか。自分よりも立場の強い人間を見たら、つぶさに観察して、敵か味方かを判断した。
たまに都や外国からクリエイターがやってきたときには、彼らが自分たちのことをどう思っているのかを探った。瓦礫ノ園の人々に同情する者、軽蔑する者、無感情な者、悪意を向けて攻撃してくる者……。非覚醒者、弱者ゆえに身についた生きる術だ。
その能力は、カイザ組結成時にも役に立った。子どもたちの性格を見抜き、ペアを組ませた。そして今も、少女の嘘を見抜くのに役立っている。
「なんや、あてを疑ってるんかぁ? 嘘ついとるっちゅう証拠でもあんのかぁ?」
少女は口が上手く、頭の回転も早そうだ。早口で滑舌もよく、生まれてから一度も言葉を詰まらせたり噛んだりしたことがなさそうなほどだ。自分の能力に自信があるのか、そのぶん人の気持ちには鈍感そうだ。
どうやらカイザとは真逆の性格で、人の顔色なんて見ず、好き勝手にやりたいことをして生きてきたのだろう。現に今も、カイザが拾ったカードを自分のものにしようとして好き勝手な主張をしている。
服は汚れていないので、瓦礫ノ園の住民ではなさそうだ。都、あるいは外町から来たのだろうか。外国人の可能性もある。
服装は小綺麗なものの、こだわりは特にないのか、長袖の白いシャツとジーンズは丈があっていない。手足が長すぎるせいかもしれない。靴は結構汚れていた。
小綺麗な服だと思っていたが、よく見るとシャツの袖に黄ばんだようなシミがあった。ここ数年はそんな色の雨は降っていないはずだから、ジュースなどをこぼしたあとに違いない。
そして怪盗のような胡散臭い片眼鏡。下からのぞき見たところ、左目のほうが右目より微妙に小さく、細い。なにか事故でもあって、左上半身が傷ついたらしい。
左耳の上部に、V字の欠け。切れたのか、えぐれたのか。古傷のようだ。
シャツの襟元から、ガーゼか包帯のような白い布が、数ミリほどだが顔を出している。胸元と左肩をぐるぐる巻きにしている白い細布が、シャツごしにうっすら見えた。
目や耳と同時期の傷だとすれば、すでに治っているはずだ。傷痕を隠すために巻いているのだろう。
胸元はきつめに巻いているようだが、おっぱいをよくよくよく見ると、痛々しくも左胸が小さ――――。
「クルルァ、どこ見とんねん。スケベなガキやなぁ」
観察は強制終了した。その間、わずか二秒。
「初対面で女性の胸をガン見するとは、失礼すぎるやろぉ。自分で女性とか言ってもうたやないかい、オエエッ。っていうかあんたの名前、カイザやんな?」
「それがどうしたんだよ?」
「やーっぱりそうかぁ。豪運のカイザで間違いあらへんなぁ?」
「そういううわさが広まっているみたいだね。僕は覇田カイザだよ」
「せやと思ったわぁ。中性的なマスクに紫の長髪ゆうたら、そうそうおらへんわなぁ。あては白銀ギンガ、ヨロシクゥ! 東のはずれにある兵頭対局所の副所長やってるねん。昨日できたばっかりやけどな。またよろしく頼んますぅ」
ギンガはカイザの手を取り、ぶんぶんシェイクハンドした。カイザはその隙にカードを奪い返した。と、思ったらすぐに奪い返された。
「カードを返して欲しかったら、あてと勝負せぇ」
「なんの勝負だよ?」
「そんなん決まっとるやろぉ、カードチェスや。カイザ、あてと対局しやがれ!」
「初対面でいきなり対局を挑むなんて、失礼すぎるでしょう」
さっきのギンガの言葉を少し変えて言い返した。
「クリエイターちゅうのは、そういう生き物なんや」
「あいにく、僕はクリエイターじゃないんで」
「対局空間に行けん非覚醒者でも、地べたで練習対局くらいならできるやろぉ」
「ルール知らない」
「教えるでぇ」
「デッキ持ってない」
「貸したるわい」
「カードチェスだけはしちゃいけないって、言われているんだ」
「カードは返さへんでぇ。ええんかぁ?」
「もういいよ、そのカードはあげる。持っていきなよ」
カイザはギンガとの会話に疲れた。カードをあきらめて、立ち去ろうとする。
「ちょっと待ちぃや」
ギンガはカイザの肩を掴んだ。
「なんだよ?」
カイザはしぶしぶ振り返った。
「せっかく見つけたカードやのに、そんな簡単に手放してもええんかぁ?」
「だって、対局はできないんだ」
「クリエイターにとってカードゆうのはなぁ、武士の刀、ガンマンのピストル、職人の仕事道具。己の魂みたいなモンなんや。そんな簡単に手放したらアカンもんなんや!」
「そんなの知らないよ。僕はクリエイターじゃないって言っただろう!」
「人はみんな、クリエイターなんやで。特別な人間やない。誰だって覚醒のチャンスはある。ただ、日々の雑事に追われてその偉大な力を忘れとるだけ。人間ちゅうのは、自分で自分の世界をクリエイトできる生き物なんや。誰だって、自分の思い描いた未来を、自分自身の手で創り出すことができる。せやけど、自分の意思で一歩踏み出さん限り、未来は拓けんのやで、カイザ!」
ギンガは早口で熱っぽく語った。カイザは、どこかで同じような言葉を聞いたことがあるような気がしたが、思い出せなかった。
「奪われたんなら取り返してみぃや、自分の力で!」
カイザは無視して通り過ぎた。
「豪運のカイザがどんな奴かと期待しとったのに。ガッカリやわ、しょうもなぁ」