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丘の上の病院の廃墟の鍵の掛かった扉の向こう

作者: 押水武

 9月半ばのある土曜日。

 今から思えば、あれがあの年の、夏の最後の日だった。翌日には日本海側を通過した台風28号の影響で一気に天候が荒れ、それが通り過ぎた後にはやや肌寒い秋の気候が残された。

 高校を卒業して俺は県内の私立大学に通っていた。孝則は地元の工場に就職し、美知子は孝則と一緒に駅前の狭いアパートで暮らしていた。貧乏暮らしだから電気代節約のために、毎日暑いけど扇風機1つだけで乗り切っていると言って笑っていた。

 そう。

 あの年の夏は酷い暑さだった。

 思い出すだけでも体中がうだるような、酷暑の年だった。


 夕方、孝則たちが暮らすアパートの近くにある古びた中華料理屋でラーメンを食った。いつもどおり具が少なくてスープの味が薄いラーメンだった。その後俺たち三人は、アパートから徒歩2分の駐車場に停めてある孝則の軽自動車に乗り込んだ。俺が助手席で美知子は後部座席。運転は孝則だった。


 駅を挟んだ市の南側は旧区街と呼ばれる築50年近い古い住宅と商店が並ぶ地域だ。その地域の外れに、高い丘がある。丘の上にポツンと建っているのが畑中診療所跡だ。いや。建っていると言うべきか、残っているというべきか。診療所は10年以上前に潰れており、建物だけが未だに取り壊されることもなく在り続けている。

 そこが俺たちの目的地だった。

 

 *    *


 うまく日が沈まないうちに診療所跡に到着することができた。

 診療所の建物を挟んだ裏手には崖っぷちになっている広い空き地があり、錆びついた緑のフェンスで囲われていた。フェンスの高さはちょうど大人の腰くらいのだ。

診療所の玄関は施錠されているので、そこから中に入ることはできない。だが空き地に面した西側の大きな窓が、実は一カ所だけ鍵が外れている。だからそこからならフェンス足場にして窓枠を乗り越えていけば、侵入することができるのだ。

「お化けでるかな?」

 薄暗い診療所のフロアで、西日を顔いっぱいに浴びながら、美知子が子供っぽく笑った。

「でるわけねえ。幽霊なんていねえよ」

 孝則は足元の壁をガンガン蹴って靴底にこびりついた土を叩き落としながら、興味なさそうに言った。つっけんどんな態度をとっているが、この廃病院の探検を持ち出したのは孝則であることを俺は知っていたので、思わず笑いだしそうになってしまった。

 右肩から提げたバッグには懐中電灯が2本入っているが、今の明るさであれば、まだそれを取り出す必要は無さそうだ。

 病院と診療所の違いは病床、つまり入院用のベッドの数らしい。20以上の病床が設置されているのが病院。病床数19以下で、外来患者の診察を主とするのが診療所だそうだ。この診療所はしかし、診療所を名乗る割には随分と建物が大きいように感じられる。2階建てで、床面積は田舎の小さめの小学校と変わらないくらいの広さがあるようだ。だが、いくつかの部屋を探検してみてわかった。この診療所は、広いと言っても殆どが使われていない空き部屋だったようだ。

俺たちが侵入口として使った1階の西側の部屋は、大きなメタル製の本棚が並んでおり、紙束やバインダー類が乱雑に積み重なっていた。資料室、あるいは物置のような部屋だったのだろう。その部屋を出て長い廊下に面したいくつかの部屋も覗いてみたが、他の部屋には何も残っていなかった。しかし玄関とそこから繋がる受付・待合には、靴箱、靴ベラ、壁に貼られた医療関係のポスター、順番待ちの患者が腰かけるためのソファ、時間つぶしのための雑誌や漫画。そういったものが全て残っていた。

どうやら診療所が閉鎖されたとき、中に置いてあったものは廃棄されずに全て置き去りにされ、それが今でも放置されているようだ。であれば、途中いくつか見かけた空っぽの部屋、あれは当時から空っぽだったということだろう。要するに使っていない部屋だったのだ。


日が次第に落ち始め、辺りが暗くなってきたので俺は懐中電灯を取り出した。

「しかし廃病院って言っても、思ったより怖くねえな」

 と孝則が言い、美知子も頷いた。だが俺はそうは思わなかった。雑誌もソファもポスターも何もかもが最期の瞬間のまま保存されたこの黴臭い待合室は、まるでつい先ほどまで誰かが居た場所であるかのように感じられ、ある種の生々しさのせいで何とも言えない嫌な気持ちに俺はなっていた。例えるなら人知れずビルの隙間で息絶えた猫の死体を偶然に見つけてしまった時のような、そんな感覚だ。「怖い」という感覚とはちょっと違うが、しかし、言い知れぬ不安感や違和感があるのだ。

あるいは孝則と美知子も本当は俺と同じような気持ちを感じており、それを打ち消すためにわざと強がって見せているのかもしれない。そんなふうに思えた。

 待合室の先は診察室。そして診察室の端にある小さなドアの向こうには、レントゲンか何かだと思うが、正体がよくわからない大きな真っ白の測定器のようなものが並んで置いてあった。

 壁に沿って置かれたガラス戸つきの棚の中には、焦げ茶色の瓶がたくさん並んでおり、中には何かの薬品が入っているようだ。

 迂闊に触ると危険かもしれないので俺たちはそれに近づくこともせず通り過ぎた。

「2階があるぞ」

 外観から2階建てであることはわかっていたが、しかし、その階段は妙な場所にあった。先ほどの診察室の奥の測定器がある部屋。その奥にさらに仕切りがあり、そこに階段が作られていたのだ。普通こんな奥まった場所に階段を設置するだろうか。まるで隠し階段だ。

 

 ギシギシと荒々しい足音を立てて孝則がその階段を登る。

 後に続いて美和子も。

 俺は一番後ろから二人を追った。

 2階は誰かの生活空間だった。

 キッチンがあり。

 食器とカップが並び。

 倒れた冷蔵庫がある。

 トイレ。便器に埃が積もっている。

 洋服ダンスの扉は半端に開かれており割れたプラスチック製の黒いハンガーが斜めに掛かっているのが見えた。

 大型のブラウン管テレビは画面が割られている。

 合皮のコンパクトなソファはピンクの黴が斑に生えている。

 畳の上に敷きっぱなしの布団は湿気でグジュグジュに崩れていた。

 ふぅッと俺たちは同時に溜め息をついた。

「ここに住んでた人はお爺さんだったんだね」

 美知子が指さした先には男性用の白髪染めスプレーが転がっていた。

「牢屋みたいな部屋だな。地下牢って感じ」

 そう孝則が感じた理由は、多分、この部屋に窓がないからだ。

 壁紙も貼られていないコンクリート打ちっぱなしの狭く密閉された部屋は、確かに異様な圧迫感を中の者に与えるようだった。

 この部屋だけではない。

 2階には一つも窓がなかった。

 おかしな建物だ。


 俯いて、先ほど美知子が見つけた白髪染めスプレーを、なんとなく俺はつま先で蹴飛ばした。乾いた金属音が部屋中に響く。


「帰ろうか」

 俺が言うと、二人は賛同するでもなく、拒むでもなく、ゆっくり天井を見上げた。

 ただゆっくりと。

 或いはぼんやりと。

そして、そのまま、固まる。

 その2人の様子をみて「え?」と俺は思い。

 なんだろう、と思う。

 そして、つられて俺も視線を上げる。

 そして、そのまま、俺も固まる。

 おかしなものが、見えた。

 写真だ。

 俺たちの視線の先。天井には痩せた女の水着姿を写した大判の写真がガムテープで張り付けてあった。ギスギスに痩せた女だった。

 見ればわかるが、ポスターやカレンダーではなく、コピー機かなにかで引き伸ばした写真だ。

 夏のビーチで撮られた写真である。

 だが、「夏のビーチ」という単語で思い浮かべるような晴れ渡った空ではない。

 むしろその逆。

 女の背後には鉛色の重たい雲と、荒れた波が写っていた。

 写真は日に焼け、黄色く変色し、ところどころ曲がって波打っている。

 女の顔は、見えない。

 ピンぼけなのか。

 ちょうど写した瞬間に顔を大きく動かしたせいか。

 あるいは長い髪に隠されてしまっているからか。

 顔は、どうしても見えない。

 全体として酷く気味の悪い写真だった。

 見ていると吸い込まれてしまうような、頭がグラグラしてくるような。

 気持ちの悪い写真だ。

「帰ろう」

 写真を見上げたままで、俺はもう一度言った。

 二人は頷いた。


「怖ええええ。何だよあの写真!」

「ほんと、しかも何で天井に貼ってあんの。意味わかんない」

「顔ちゃんと写せよ。不気味なんだよ!」

 張りつめていた何かが破裂したかのように、部屋を出た瞬間俺たちは騒ぎ出した。

 わざとらしいくらい大きな足音を立て、階段に続く狭い廊下を俺たちははしゃぎながら歩く。まるで大声をあげれば、その声が灯りとなって暗闇を照らし、心の底に生まれた不安感までも消し飛ばしてくれると信じているかのように。

 と。

「あれ」

 先頭を歩く孝則が気づいた。

一階に戻る途中に、部屋がある。

 まだ中を見ていない部屋が、もう一部屋ある。

 階段を登ったすぐ目の前に部屋があったのだ。

 この部屋の中は、間違いなく覗いていない。

 なんでこんな目立つ場所にある部屋を、先ほどは通り過ぎてしまっていたのだろう。

「なにこれ。開かずの間か?」

 孝則の言葉どおり、その部屋の扉はピッチリと赤いテープで密閉されていた。

 鮮やかな赤色のビニールテープだ。

 なんでこんなことを。

 誰がこんなことを。

 かつてこの建物に住んでいた誰かがやったのだろうか。

 全体的にくすんだ色合いのこの廃墟の中で、このテープの赤色だけが異彩を放っていた。

 と、俺たちのほうを見て孝則はニヤリと笑い、その赤いテープに指をかけた。そしてひと息にビリビリと剥がしてみせる。そのままドアノブをがっと掴んで回そうとし、

「あれ。鍵が掛かってるな」

 と肩をすくめた。

「ねえ、もういいよ。行こうよ」

 美知子が孝則の肩を引っ張った。おお、そうだな、と孝則もドアノブから手を放し、その場を離れた。

 続いて俺も。

 ガタン。

 その部屋から響く音は、 最後尾を歩いていた俺の耳だけに届いた。

 ガタン。

 ガタン。ガタン。

 しかし俺はその音に気付かない振りをして、そのまま2人の後について歩き始めた。



「えー、最悪。ピアス落としたんだけど」

 さあ帰ろうと、車に乗り込んだ瞬間に美知子が声をあげた。

 振り向くと、後部座席の美知子が右の耳たぶに手をあてている。

 診療所跡のどこかで右耳につけていたピアスを無くしたらしい。

 探しに戻りたいと言う美知子に対し、俺たちは、この暗さじゃ見つかりっこないと言ったが、美知子は「お気に入りのやつなの」と頑として聞かない。結局、診療所の中に戻って、今日通った道を一度だけ往復する。それで見つけられなければ諦める、ということで決着した。


 *    *


思えばそれが大きな間違いだった。

ピアスなんてどうでもいいから、あの夜は、そのままさっさと帰ってしまうべきだった。

そうすれば美知子が死ぬことなんてなかったし、孝則もあんな風にならなかった。

だけど今さらそんなことを言ってもどうにもならない。

続きを話そう。

 

 *    *


 暗い屋内を懐中電灯で照らし、窓から侵入する。

 3人で下を見ながら、ゆっくりと進む。

 美知子が落としたという金色の丸いピアスは、見つからない。

 本棚の下の隙間にも。

 受付のカウンターの下にも。

 ソファの脇にも。

 奥まった部屋のレントゲン装置の上にも。

 そのさらに奥の階段にも。

 どこにも見つからない。

 そのまま2階にあがり、写真が貼られた部屋にも。ない。


「・・・・・・。おい、これ。なんでだよ」

 今回も、最初に気づいたのは先頭を歩く孝則だった。

 開かずの間。

 俺たちこの診療所跡で唯一侵入していない、開かずの間。

 そのドアの縁をピッチリ密封していた赤い粘着テープ。

 先ほど孝則が剥がし、丸めて放り捨てたはずのその真っ赤なテープが、元に戻っていた。

 確かに引き剥がしたはずのテープが、丁寧に、几帳面に、貼りなおされていた。

 僅かの歪みもなく真っ直ぐに、赤いテープがそのドアの枠を縁取っていた。

「ねえ。・・・中から声、聞こえる」

 言ったのは美知子だが、俺も、そして恐らく孝則も、気づいていた。

 確かにドアの向こうから聞こえていた。

 ウー。

 ウー。と。

 女の低い呻き声が部屋の中から確かに聞こえていた。

 黙って、息を飲んで、俺たちは互いを見つめあう。

 助けを求めるように。

 あるいは互いの瞳の奥から何か次に俺たちがとるべき行動の手がかりを引き出そうとしているかのように。見つめあい、そのまま動くことができず、立ち尽くす。

 ごめんもういいピアス諦めるからもう帰ろう、と美知子が震える声で息もつかずに呟いた。が、まるでその言葉に敢えて反発するかのように、孝則は息を大きく吸い込むと、美知子の方を見ずにグッとドアノブに手を伸ばす。

 予想外の動きだった。

 そして素早い動きだった。

 だから「やめろ。」と言う暇もなかった。

 奇妙なことに、先ほどは確かにしっかりと鍵が掛かっていたはずのそのドアのノブが、今は何の抵抗もなくスッと回っててしまった。ピリッという弱弱しい音だけがその場に響く。ドアを力ずくで開いたために、張り付けてった赤いテープが剥がれる音だ。そのまま俺たちを待つこともなく、「おい、誰か居るのかよ!」と怒鳴り声をあげて、孝則は部屋の中に一気に駆け込む。

 俺は、突然の孝則の行動に頭がついていかず、動けない。

 そして。一瞬の後。

 部屋の中から「ヒッ」と悲鳴ともひきつけともつかない孝則の声が、ドア越しに、漏れる。

 恐らくは孝則の声だった。

 まずい、と感じた。

 良くない何事かが起きた、と感じた。

うまく理屈では説明できないが、とにかく直観的に、孝則を一人で部屋に入らせたのはまずかったと感じた。それで、遅まきながら俺も部屋の中に勢いをつけて飛び込んだ。

 閉まりかけのドアを肩で弾いて、細く頼りないアルミのドア枠を踏み越えるまでのほんのわずかな瞬間が、驚くほど長くゆっくりに感じられた。そして部屋の中に入って視界が開けた瞬間、圧縮された時間感覚が引き伸ばされるように、室内の光景がくっきりと目に飛び込んでくる。

 何もなかった。

 何もない、何の変哲もない部屋だった。

 孝則がただ、天井の方を見て突っ立っていた。

「誰もいない」

 後から入ってきた美知子が呟く。

 そう。

 部屋の中には孝則以外誰もいなかった。

 先ほどまであんなにはっきり聞こえていた女の呻き声も、今は全く聞こえない。

 しかし、

 天井を指さして孝則が言う。

「いや。いたよ。女がいた。あの写真の女がいた。あの写真のままの姿で、天井に立ってた。お前らが入ってきたから、消えちまった」

 ヒヒヒと、孝則は乾いた笑い声をあげた。

 

 *    *


 さて。

 あの日の出来事はこれで全てだ。

 続けてその後の顛末を話させて欲しい。

 俺にとっては非常に不可解な話だ。

 あれからすぐに俺と孝則は車に戻って、そのまま家に帰った。

 どんな道順を通ってどれくらいの時間をかけて帰ったのかはまるで覚えていない。

 ただ、車中では俺も孝則も一言も口をきかなかったこと、家に着いたとき丁度太陽が東の空に昇り始めていたことは覚えている。

 そして それ以来、なんとなく俺は孝則と疎遠になった。

 こちらから遊びに誘う気にもなれず、向こうから声を掛けてくることも無くなった。

 ただ、一度だけ道でばったり孝則と出会ったことがあった。ちょうど夕飯時だったので近くの居酒屋レストランに一緒に入ったが、驚くほど会話が弾まなかった。孝則の受け答えはどこかちぐはぐで、うまく意思の疎通ができない感じだった。時々なにも言わずぼおっと天井を見つめることがあった。「おい。なんか怖いからやめろよ、それ」と言うと「何が?」と返してくるので、自分の行動を全く自覚していないようだった。


「顔が・・・・・・」


 と孝則はしきりに言っていた。

 女の顔がどうしても思い出せないのだ、と。

 はっきり顔を見た。

 見たはずなのだ。

 あの時、あの女と確かに目があった。

 思い出すだけで震えるほど恐ろしい、喉の奥を締め付けられるような、怨みのこもった凄まじい目だった。

 あんな目は生涯一度も見たことがない。

 脳にくっきりと焼き付けられる恐ろしい目だった。

 だから確かにあの女の顔を見ているはずなのだ。

 でも顔が。

 どうしても顔が思い出せないのだ。

と。


検察から依頼があり、俺は証人として裁判所に呼び出された。

 唐突すぎる話だった。

 新聞にも載ったから、もしかしたら知っている人もいるのではないだろうか。

 千葉県で同棲中のカップルが廃墟に忍び込み、その廃墟内で男が女の首を絞めて殺したというあの事件だ。後に肝試しにやってきた別の若者4人組が美知子の死体を発見したことで事件は発覚した。

 そう。

あの日、あの診療所跡の、あの開かずの間で、康孝が美知子を殺していたそうだ。

 裁判で明かされる事実は、俺の記憶とは明らかに食い違っていた。

 一旦診療所跡を出た孝則と美知子は落としたピアスを探しに、もう一度あの廃墟に戻った。だが、俺だけはそれに付き合わず一人徒歩で丘を降りたのだそうだ。

 孝則の供述だけでなく、丘を下った先に立っているセブンイレブンの防犯カメラと、電話を受けてコンビニの駐車場で俺を拾ったタクシーの運転手がそれを証明している。

 俺は間違いなく、一人で先に帰っているのだそうだ。

 だとしたら俺の頭の中にある、あの開かずの間の記憶はなんなのだろう。

 明らかにおかしい。

 だが、思い返すと、俺の記憶でも、帰りの車の中に美知子の姿は無かった。

 馬鹿な。

 あの廃墟に美知子を一人置いてきたというのか。

 そしてそのことに俺は今まで何の疑問も持たずにいたというのか。

 俺の記憶と、孝則の証言と、その他の事実と。

 色々なことが噛み合わない。

 辻褄があっていない。

 ずれている。

 しかしそれについて裁判で俺が語ることはできなかった。

 俺にできるのは検察から受ける質問に答えることだけで、その他のことを勝手に話すのは許されていなかった。

 孝則は警察の取り調べで「美知子が開かずの間に入ってくると、あの女は消えてしまう。あの女は俺一人で部屋に入った時にしか姿を現さない。俺はあの女の顔をもっと近くで見たかったから、邪魔されないようにまず美知子を殺した」と供述しているそうだ。「あの女もそうしたほうがいいと言っていた。だから殺した。殺すのは可哀想だという気持ちもあり、本当は殺したくなかった。だが他に方法が思いつかなかったので仕方なく殺した」と。

 

 “あの女”というのが実在するのか。

 実在するならば何者なのか。

 その点については警察の捜査でも、裁判でも、俺の知る限り一切取り上げられていない。

 診療所跡は、隣の空き地と合わせて買い手が見つかり、明日から取り壊し工事が始まる。


 一度、美知子の実家を訪ねた。

 仏壇に手を合わせるためだ。

 美知子のご両親からすれば、俺に対して「こいつが一人で先に帰ったりしなければ。孝則のことを止めてくれていれば」という感覚がきっとあるのだろうが、訪問したときは、そういう態度は取られなかった。というより、美知子のご両親はすっかりやつれきっていて、最早何の感情も残っていない搾りかすのような状態に見えた。俺は言葉が出なかった。

 仏壇の遺影を見て俺はギョッとした。

 写真は美知子ではなかった。

 俺の知っている美知子の顔ではなかった。

 違う人間の顔と入れ替わっていた。

 しかし俺は動揺を表情には現さず、静かに線香に火を着けて鈴を叩いた。その間心の中で「これも食い違っているのか」とひとりごちた。

 帰りの道すがら美知子の顔を思い出そうとしたが、どういうわけか記憶の中のどの映像でも美知子の顔にもやが掛かったようにぼやけており、どうしても思い出せなかった。だがあの遺影の顔と違うことだけは、はっきりと感覚でわかった。

 自室で高校時代に撮った写真を漁ってみると美知子が写っているものが1枚だけあった。

 だが、ピンぼけなのか。

 ちょうど写した瞬間に顔を大きく動かしたせいか。

 あるいは長い髪に隠されてしまっているからか。

 顔は、どうしても見えない。

 仕方がないので俺はコンビニのコピー機でその写真を大判に引き伸ばし、ベッドの真上の天井に張り付けた。こうすることで眠る前、目覚めた後、何かの拍子に顔を思い出せるかもしれない。あるいは夢の中で、顔がある美知子ともう一度会えるかもしれない。そう考えたからだ。

 だが今でも俺は美知子の顔を思い出せない。


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[良い点] ∀・)まさにモヤモヤが残る和風ホラーですね。起きることはとても悲惨で、またその原因がとても不可解なのですが、その余韻が「恐い」をつくっているという見事な構成を持ったホラー作品でした。 [気…
[良い点] モヤモヤが残る和風ホラー [一言] 例の廃診療所の解体作業中に何が出てきたのか気になります。
[良い点] 顔だけがぶれてる写真が、映像化したら怖いヤツだと思いました。 病院という限られた設定で、ありがちな廃病院をテーマに選んだのに、ここまで怖くできるってすごいです。 来年もお待ちしておりま…
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