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当時、小学4年生・・・
僕は、プロの絵描きにスカウトされて、
絵を習っていた。
しかし、実際には、
プロの隣で、描いているだけで、
技法などは、一切習っていない。
ところが、ある日、
先生である平井さんが、
僕に、左手で描く様に指示した。
そして、その結果、
僕は、左右どちらの手でも、
絵が描ける様に成った。
手は、作業をする道具である。
使えなくては、役に立たない。
そういう意味では、
僕の両手は、使える様に、成っていた。
役に立つ様に、成っていた。
作業をする道具に、成っていた。
ところが、道具があっても、
それを使う職人・・・
そこに問題があった。
僕の職人は、まだまだ未熟だった。
目の前に、お手本があるのに、
それが描けないのだ。
僕の描く絵は、本物では無かった。
上手に描いた「ニセモノ」だったのだ。
ところが、皮肉な事に、
僕の描いた絵が、再び金賞に選ばれた。
小学校で、描いた絵だった。
鉛筆を使わずに、いきなり絵具で描いた。
輪郭線の無い、山と木と川と空。
写真に見えるらしい。
しかし、写真では、駄目なのだ。
それなら、写真で良いのだ。
岩を見て、
なぜ、重いと思うのか?
なぜ、冷たさを感じるのか?
それは、過去の経験が、
その様に、思わせているのだ。
では、僕の描いた絵に、
それが、あるのか?
平井さんの描いた絵には・・・
それが、ある。
平井さんの描いた、紙クズの絵は、
本当に、紙クズなのだ。
息を吹いたら、動きそうなのだ。
では、僕の描いた、ティッシュの箱は?
『・・・』
何もない。
だだ、描いてあるだけ。
違いが解らない。
なぜ、違うのかが解らない。
紙クズと、ティッシュの箱は、違うモノである。
しかし、そんな幼稚な話では無い。
平井さんの、描き方と、僕の、描き方の違い。
平井さんの、絵の、説得力と・・・
僕の、絵の、説得力・・・
『その違いは何か・・・?』
その後も、僕は、毎日、
ティッシュの箱の絵を、描き続けた。
その事に、両親は疑問を感じたが、
平井さんは、月謝を受け取らない。
無料である。
その上、僕が学校で描いた絵は、
次々と賞をとった。
その為、両親は、納得する以外に、
無かった様である。
平井さんは、何も教えてくれない。
左手で描けとか、両手で描けとか・・・
それは、指示であって、指導では無い。
ところが、僕は、確実に成長していた。
『何も、教えない先生の隣・・・』
『それなのに、なぜ僕は、成長するのか・・・?』
『なぜ、僕は・・・』
『平井さんに、感謝しているのか・・・?』
僕は、その様な事を、考える様に成っていた。
そして、ある日の事、僕は気付いた。
その日、僕は、テレビを見ていた。
出演者が、バク転に挑戦していた。
そして、それを見て、僕は、不意に理解した。
僕は、バク転が出来ない。
そもそも、やった事がない。
でも、人が挑戦している姿を見れば、
それを見て、改善点を指摘出来る。
この時、僕は、テレビを見ながら、
出演者に向かって、
心でアドバイスを、していたのだ。
『自分では、出来ないクセに・・・』
『アドバイスは出来る・・・』
僕は、その事実に気付いた。
教えるだけなら、誰にでも出来るのだ。
例えば、
お腹が「ぐうううう」と鳴る音を、
途中で止める方法・・・
そんな事、本当は、出来ないのに、
その方法を、それらしく考え、
それを、人に教える事は出来る。
本当は、出来ない事なのに、
空想のデタラメを、
他人に、押し付ける事は、出来るのだ。
『アドバイスとは、その程度のモノ・・・』
無責任な嘘なのだ。
本物では無い。
『世間のアドバイスなど・・・』
『その程度のモノなのだ・・・』
結果、
本当に困った時、
そんなアドバイスは、何の役にも立たない。
今日のラッキーカラーは、ピンク・・・
それが一体、何に成る。
そして、考えた・・・
僕は、考えた・・・
『では、教えるとは何か・・・?』
『では、本物とは何か・・・?』
『なぜ、平井さんは、本物なのか・・・?』
『なぜ、平井さんは、指導をしないのか・・・?』
『それなのに、なぜ、僕は成長するのか・・・?』
『その成長を・・・』
『平井さんの力と感じるのは、なぜか・・・?』
僕が描いているのは、ティッシュの箱である。
しかし、僕が、学校で描いた祖母の似顔絵が・・・
先日、何かの賞をとっていた。
学校の方針で、僕の描いた絵を、
コンクールに応募しているのだ。
その為、学校には、
僕の賞状が8枚、飾ってあった。
そして気付いた。
『本物は、自分で作り出すモノ・・・』
『平井さんは、それを僕に見せていた・・・』
『平井さんは、僕以上の、実力があるのに・・・』
『僕以上の、努力を続けている・・・』
平井さんは、休まない。
子供の僕が見ても、その価値が解るゴミの絵・・・
ゴミの絵なのに、価値を感じる・・・
それを描いていた。
『価値のある、ゴミの絵・・・』
それが、本当に、正しい事なのか・・・?
それは、人の考え方である。
紙クズの写真など、僕は、欲しいとは思わない。
しかし、平井さんの描いた「紙クズの絵」
僕は、それを見て、欲しいと感じる。
心が引かれる。
『これだ・・・』
僕は、理解した。
僕の方法を、教えても、
姉に、出来る訳では無い。
平井さんの方法を、教えてもらっても、
僕に、出来る訳では無い。
学校の勉強とは、違うのだ。
答えなど無いのだ。
習って、習得出来るモノでは無いのだ。
ラーメン屋が、新入りに、何も教えない・・・
これは、問題である。
名門野球部が、指導しない・・
これも、問題である。
教えなければ、受け継げないのだ。
その為、指導が、必要である。
しかし、
世界で1人にしか、出来ない事・・・
この世界で、まだ、誰も出来ない事・・・
それを、実現する為には、
自分で考え、習得する以外に、方法は無い。
それが、本物の世界なのだ。
平井さんは、僕に環境を与えてくれている。
しかし、教えてはくれない。
左手で描け。
両手で描け。
それは習える。
しかし、本当に必要な事は、教えてくれない。
教える事が、出来ないのだ。
つまり、平井さんは正しい。
『僕に、教えない・・・』
『空想のデタラメを、押し付けない・・・』
これが、本質なのだ。
物事を追求するとは、そういう事なのだ。
その日から、僕の描く、ティッシュの箱は、
ゆがんだ・・・
それが正しいのだ。
綺麗に描く必要は無い。
箱だから・・・
芸術だから・・・・
そんな事は、関係無い。
僕の描いた絵と、実物の違いは、そこにあった。
それが違和感の、正体だった。
ティッシュの箱は・・・
押せば、グラグラする。
押さえれば、べコっとする。
その箱の、独特の、張りを描く。
目に見えない、それを描く。
僕は、見えない「それ」を見続けた。
すると、ある日の事、
『それが見えた・・・』
困った事に成った。




