第69話 願い
5人で雑談した後、ミリルとティオはドルドレーグを連れて乗合所の受付へと向かった。
ミリル曰く、「ドルドレーグの貴族パワーがあれば、馬車代が割安になるかもしれない」とのことである。
ドルドレーグは、「僕自身は大した身分でもないんだがなぁ」と愚痴をこぼしながらもミリルに付き合うあたり、貴族らしからぬお人好しであった。
「ドルドレーグさん、朝からこちらにいて、さらには値切りのダシにされるなんて本当に気の毒ですね……」
同情するレイに、ナナミがにっこりと笑った。
「気にすることなどありません。あれで若も、ちゃんと楽しんでいるのですから。
私が若を置いてきて、レイ様たちとの別れをきちんとしてきたなどと話せば、きっと私に文句を言うに決まっているのです」
「それは、確かにそうかもしれませんが……」
「若は屋敷で待っていて、私がここで皆様を引き止めて戻るというのも一瞬考えたのですが、若以外の皆様が面倒ですよね。若に会うためだけに屋敷まで戻るとか、ありえない手間ですから」
「……いえ、ありえると、思いますよ……たぶん」
少なくともレイ自身はありえるのだが、ミリルは普通に面倒くさがりそうであり、ティオに至ってもその可能性がないとは微妙に言い切れなかった。
ナナミにあっては考えるまでもない。
「それよりもレイ様、今後はどうなさるおつもりなのですか?
どこか行くあてなどあるのでしょうか?」
「いえ、今のところは特に。ナナミさんの予想通り、ローズレイクとは逆の北へと向かうつもりですが、目的地がどこというのは特に決めていません」
「そうですか。でしたら、タンバラン村などよろしいのではないですか? 確か、そろそろ祭りの時期でしたから」
「タンバラン村、ですか?」
レイは特に聞いたことがない地名に首をひねった。
「なんでも一面、鮮やかな薄紅色の花が咲き誇る樹があるそうですよ。
女性であれば一度はそんな風景を見てみたいものではありませんか?」
「…………それを私に勧める意味がわからないのですが……いえ、ミリルやティオさんのためですよね?
花は綺麗なのでしょうし、私も見てみたいとも思いますが」
「あらあら、レイ様ったらそのような格好を未だにしているので。
初めてお会いしたときよりもしっくりきてますし、てっきりそちらの方面に目覚めたのか思っていました」
「くっ!? ……こ、これにはいろいろと理由がありまして……」
「あの様子ですと、ティオニア様にはレイ様のこと、まだ話していらっしゃらないようですね。
なかなかチャレンジャーな選択をしますね、レイ様?」
「うぐッ!? …………そ、それにもいろいろと……理由が…………理由がぁ………………」
思わず頭を抱えるレイ。
ナナミは満足気にレイを見て、
「まぁ、私も若にはレイ様のこと話してませんから。一緒ですね」
「え? ドルドレーグさん、私のこと知らないのですか!?」
「はい。レイ様やミリル様がハンターだということは当初話しておきましたが、それ以上の必要はありませんでしたので」
「ええ!? そ、そんなことでいいんですか!?」
「若ですから」
(じ、自由すぎますね、ナナミさん……)
バッサリ言うナナミに、レイは本気でドルドレーグに同情した。
レイがドルドレーグを案じていると、ナナミが更に笑みを深くした。
「ところでレイ様。私、それほどまでにレイ様の秘密を守ったのですよ?」
「え? えぇ。ありがとうございました。
……私のことがバレたのがナナミさんではなかったら、どうなっていたことか」
「ですよね? 正直言いたくてしょうがない時期はありましたが、私、必死に我慢したんです。
特に、今ならマリー様あたりにバラせば大変面白い反応が見られそうで…………レイ様、今からでも王城へ行きませんか?」
「やめてくださいよ!? 昨日ちゃんと話をして、もう別れの挨拶もすませてしまったんですから!!
今更男などと言ったら、なんかもういろいろ台無しですよ!?」
「冗談です。でも心情的にはそんな感じなので、黙っているのは楽ではありませんでした。
ですのでレイ様。メイドという卑しい身分であるものの、懸命に尽力した私のお願い、聞いてくれますよね?」
「メイドも立派な職業だと思いますが…………ナナミさんにはお世話になりましたし、私でできることなら」
「なんでもですか?」
ずいっと身を乗り出してきたナナミに、レイは腰が引ける。
「な、なんでもかどうかは少し判断に迷いますが…………私にできることでしたら……」
「ご安心を。私も人に使える身。無理難題は申しません。
ではレイ様。私のお願いは、お願いを二つに増やすということでお願いします」
「え? ……な、なんですかそれは!? 無茶言わないでくださいよ!?」
「あら、ダメですか?」
「ダメに決まってます!! それ許したら、延々とお願いが増殖してしまうじゃないですか!?」
「む、いい考えだと思ったのですけど……仕方ありません。では、このお願いは一度だけ有効ということで」
「一度でも嫌なんですけど…………わかりました。でも、もうそういう系のお願いは本当にやめてくださいね?」
「メイドたるもの、同じネタは繰り返しません」
ナナミは怪しげに笑うと、レイの胸にそっと手を当てた。
以降、ナナミは動こうとせず、そのまま10秒ほど経過する。
「…………ナナミさん?」
レイにはナナミの行動の意図がわからなかった。
と、ナナミがゆっくりと瞼を閉じた。
(……え?)
ナナミとレイはほとんど背の高さは変わらない。
レイが意識したときには、思った以上にナナミの顔が間近にあった。
なぜだか、レイの心臓の鼓動は早くなってきていた。
(あ……っと、え? まさか、これ…………)
レイにとってナナミはよく笑っている印象があったが、今、ナナミは笑っていない。
しんしんと降り積もる雪のような、静かな、限りなく表情のない顔をしていた。
しかし無表情に見えるものの、不思議と冷たくは感じられず、レイはわけもなく落ち着きがなくなった。
「レイ様」
ナナミの唇から言葉が漏れて、レイは思わずびくっとしてしまった。
レイの胸に手を当てているナナミにもダイレクトにその反応は伝わっているのだが、ナナミはそれにはとらわれず、
「レイ様…………私を…………………………」
ナナミの言葉をレイはじっと待つ。
無意識にレイは全神経を集中させて、一気に緊張感が限界まで引き上げられた。
数秒か数分のことなのか、レイの時間間隔はおかしくなっていた。
しかし、待てども待てども、ナナミの言葉の続きがない。
(…………もしかして、もう言っていましたか?
ひょっとして、私は聞き逃しましたか?)
だとするなら、聞き返さなければならない。
そうは思うものの、しかしレイは正直にナナミに問いかけることができなかった。
聞けば、それは…………………………
「レイ様? いただけないのですか?」
「え!? な、なにをですか!?」
大きく動揺するレイに、ナナミは不思議そうに首をかしげた。
いつの間にか目の前のナナミは目を開けて、レイが前に垂らしている三つ編みに触れていた。
「レイ様の髪留めのゴムです」
「は? ゴム、ですか?」
「ええ。何かレイ様の身に付けていたものをいただこうかと思ったのですが。
他の物の方がよろしいでしょうか?」
「い、いえ、構いませんよ!」
レイは慌ててゴムを外してナナミに手渡した。
「ありがとうございます、レイ様」
ナナミは両手で受け取ると、そのまま胸の前で手を合わせた。
(こんなものでよかったのでしょうか? ……ただの髪留めゴムですし、安物なんですけど)
レイは疑問に思うものの、ナナミが満足そうにしているので余計なことは言わずに黙っていた。
少しすると、ナナミは丁寧にゴムをメイド服のポケットに入れて、レイに顔を向けた。
「…………」
ナナミはぴたりと静止して、レイの顔を興味深そうに眺めた。
「な、なんですか?」
視線に耐え切れずにレイが問うと、ナナミは感心したように頷いた。
「レイ様…………髪をおろすと、もう完璧にゆるふわ美少女ですね……」
「え?」
「三つ編みが解けてふわっふわですよ。
まさかレイ様ったら、まだ乙女力を残していたとは……」
「な、なんなんですか、乙女力って」
「乙女パワーです。愛らしさの絶対値です」
ナナミが力強く言い切る。
レイは意味がわからなかったが、なぜだかこれ以上踏み込むと間違いなく心が折れると確信できてしまったので、無用なツッコミをすんでのところで堪えた。
レイの葛藤を知ってか知らずか、ナナミは大きく息を吐いて、
「レイ様のこの顔を見れただけでも、お願いした甲斐がありました。
いいものをありがとうございます。とても、いいものです」
「ど、どういたしまして……?」
「それで、もうひとつのお願いなんですけど」
思わずレイは何がくるのかと身構えた。
レイの警戒にナナミは苦笑して、右手を差し出してきた。
「ほら、レイ様も」
ナナミに促されて、レイも戸惑いながら右手を前に出す。
と、ナナミが手を握って二人は握手をした。
「レイ様の手って、意外と固いのですね」
「はぁ…………剣士ですからね」
何度も剣を振り、手の皮が剥けているのだ。
剣士の、前衛職の手は往々にして固い手をしている。レイも例外ではなかった。
「あれ? でもナナミさんの手は、柔らかいですね?」
レイはナナミの手を握りながら不思議に思った。
縦横無尽に槍を振り回すナナミの手は、相当に手を酷使されてきたはずだ。
「私は寝る前にマッサージをしていますから」
「へぇ。それでこんなに柔らかくなるんですね」
「レイ様のような天然と違って、私のような凡庸な女は陰ながら努力するものなのです」
「…………私の手は固いじゃないですか」
「では、めずらしく私が1勝をおさめたということですね」
レイの手を握るナナミが、柔らかく微笑んだ。




