第58話 沈め
「………………………………沈め」
ティオニアの呪文により、シーサーペントの身体の周囲が急速に光を失う。
音も無く、あっという間にシーサーペントは暗闇に包まれ、濃い黒へと染まっていく。
「…………」
ティオは端正な顔を歪めて、シーサーペントに向けて伸ばしていた手を下げる。気力を激しく消耗し、呼吸を荒くしていた。
シーサーペントが存在していた場所は闇に染まっている。
間もなく闇が晴れると、そこにシーサーペントの姿はなく、黒色の小さな水たまりができていた。
「……これは…………一体……?」
レイフィードは、うつぶせの状態から膝をついて、どうにか身体を起こした。
自分が見たものが信じられない。
シーサーペントは、炎に焼かれて燃え尽きたのでも、爆砕したわけでもなく、黒色の水へと変化したのだ。
「…………ふぅ。なるほど。これは暗部が欲しがるわけだな」
アーノルドは俯くティオを見据えて、はやる鼓動を無理矢理に抑えていた。
魔法使いとして、ティオの行なったことは前代未聞である。
このような現象を起こす魔法は、見たことはおろか、聞いたことすらない。
「存在自体を消すような、究極とも言える魔法だな。いや、魔法なのか、それともまったく別の何かなのか……」
ティオが示した不気味としか言えない力に、アーノルドは静かに興奮していた。
ぷつぷつと、泡立つように鳥肌がたち、身体中の血が波打っているようだった。
「見ただろう、レイフィード。これがティオニア様の力だ。
試したことがあるのかは知らんが、この力を人間に振るえば同様の結果となるだろうな。
死体のあがらない静謐な殺しは、暗部にとっては喉から手が出るほどの力だろう」
「……それが……ティオニア様を狙う理由ですか……」
「そうだ。そして、実際にこの力を見てわかった。
戦闘に秀でた者であれば、この力をかわすのはそれほど難しくない。連発もできないようだしな。
しかしこの俺ですら、力を防ぐ方法はまったく想像がつかない。
くらえば問答無用で対象を消し去る、おそるべき力だ」
ティオは、自分の身体を抱いていた。
ティオを興味深く、そして畏怖するアーノルドの視線から、身を守るように。
「ティオニア様は5歳のときには、すでにこの力を発揮していたらしい。
そのことを知った両親は、すぐに秘するよう彼女に強く諭した。
彼女はその教えを守り、以降、その力を誰にも知られないよう隠していた、とのことだ」
(…………?)
アーノルドの言葉に、レイは違和感をおぼえる。
しかし、違和感の内容が明確な形になる前に、ティオが沈黙を破った。
「……気は、済んだでしょう」
ティオが顔を上げた。幽鬼のような表情で、瞳に色はない。
小さな足音をたてて、レイとは逆方向へゆっくりと歩きだした。
「確かに、ここでの用事は、これで終わりだ」
「なら……もう行きましょう……」
「そうだな。
…………おい、レイフィード。お前も来い」
「「な!?」」
レイとティオが同時に声を上げて、アーノルドを見た。
アーノルドは無表情のまま、淡々と告げた。
「お前の力は十分に見せてもらった。その力で、彼女を護るといい。
王直轄の暗部に属するとはいえ、いや、だからこそか…………彼女の身が安全とは言い難い。せっかくの希少な力も、根本を断たれればそれまでだ」
「私を試すようにしていたのは、それが狙いですか……」
アーノルドの強さは圧倒的だった。
もしも最初から大量の魔物を召喚していれば、レイは間違いなく殺されていただろう。
「お前の存在は、すでに暗部も把握している。
その容姿であれば、任務によっては内部への潜入も課されるだろう。
そして任務外のときであれば、多少の自由は与えられる。お前が、どこでだれといようが、わざわざ干渉はされない。組織から逃げ出さないように、なんらかの首輪はかけられるだろうがな。
どうだ? お前にとって、それほど悪い条件ではないんじゃないか?」
「どうして、わざわざそのような話を……」
「言っただろう? 俺の本業は、取引だ。
死体の残らぬ正体不明の力を持つ娘と、それを護る十分な実力のある決して裏切らぬ楯。
単品よりも、先方の払いがいいのさ」
「…………」
「選ぶのはお前だ。受けるも拒否するもお前の自由だ。
もちろん、今ここですぐに答えを出してもらうが……」
「馬鹿馬鹿しい」
アーノルドをさえぎったのは、ティオだった。
瞳には嘲りの色が宿っている。
「どう考えたら彼女が来るというの?
暗部などという得体の知れない組織へ、私のような力を持つ者を護るために?
……話にならないわ」
ティオは心底おかしそうに、嗤っていた。
「だれよりも私が知っている。私自身が、一番わかってる。
こんな呪われた力を持った私から、だれが離れずにいるというの?」
10年前。
ティオが親しくしていたメイドは、ティオが力を見せて以来一度も顔を合わせていない。
ティオの両親は、メイドの説明を最初は信じていなかったが、実際に力を見せると呆然としていた。
そのときの両親の眼を、ティオは忘れられずにいる。
父の怯えた眼差しを。そして母の…………歪んだ笑みを。
「アーノルド。貴方の依頼主は、お母様なのでしょう?」
「……ええ。正しくは、俺個人ではなく、俺の組織に来た依頼ですけどね。
王直轄の暗部と渡りを付け、娘を所属させるというものですが、気づいていましたか」
「お母様以外に、私のことをよく知る人は二人しかいないわ。お兄様やお姉さまですら知らない。
お父様は、まっすぐな方だし…………彼女は、二度と私と関わろうとはしないでしょうしね。
お母様なら、あの人なら……家のために、貴族社会で影響力を得るために、暗部とのつなががりを求める。そう考えても納得できるわ」
ティオの言葉に、レイは驚愕していた。
レイが先ほど感じた違和感は、ティオのことを知っている者が限られているにも関わらず、なぜアーノルドがティオの力を把握していたかということだった。
「お母様は以前から、私の力を何か有効に使えないかと考えていたわ。
お父様はそれを快く思われていないけれど……強固には反対していないわね。お父様も家は大事だし、なによりもお母様を愛していらっしゃるもの。
……お父様はお母様との争いを避け、先延ばしにするような形で、私はこの学校へと移された。
王国での内輪もめが激化したのなら、暗部が活発化する可能性は高い。そうでなくても、私が暗部に所属して成果をあげられれば、影響力は生まれる。お母様がこのような強引な手を打っても大した驚きはないわね」
ティオは淡々と話す。
そこには、母に対する恨みはなく、嘆きも、悲しみも何もなかった。
「血のつながった家族ですらそんな調子よ。こんな人間を誰が護るというの? 誰がそばにいるというの?」
ティオはメイドと両親に力が発覚して以来、必要以上に人と接することはなくなった。極力避けるようになった。
ティオには兄姉がおり、跡取りとなる可能性は限りなく低い。
社交場に出ず、積極的に人と交流しようとしなければ、他人と接触せずにいられる環境にあったのだ。
「だから、無駄な時間を使う必要などないわ。行きましょう」
ティオはレイに視線を向けることなくアーノルドを促すが、アーノルドは動かない。
「何をそんなに焦っているのかは知らないが」
「焦ってなどいないわ。私はただ……」
「無駄かどうかは俺が決める。貴女は黙っているといい」
「…………」
「さて、レイフィード。どちらか選んだか?」
「……ええ」
レイの声に、ティオはびくっと身体を揺らす。
レイは、アーノルドに向けてきっぱりと告げた。
「答えは、否です。そちらの誘いには乗れません」
「…………ッ」
レイの言葉に、ティオは僅かに目元を歪めた。
予想していた返答に、しかしティオは耐えるのが困難なほどの痛みを受けていた。
「それは、残念だな。ではお別れだ、レイフィード」
アーノルドはなんでもないことのように告げて、詠唱を終えた。
「我が呼び声に応え……顕現せよ」
アーノルド召喚により、ミノタウロスが虚空より姿を現す。
ミノタウロスの攻撃的な眼が、レイフィードの姿を捉えた。




