間章8 新月の夜
「落ち着いた、モモ?」
「はい……申し訳ございません、エリー様。せっかく国王陛下と、いえ、父君とお話し出来る機会だったのに」
「気にしないで、モモ。それより今はゆっくり休んで」
ベッドに寝転んだモモの頭を撫でていると、数分と経たずに寝息を立て始めた。やはりクリスとの邂逅が大きく負担を掛けていたようだ。
「……ごめんね、モモ」
音を立てぬよう家を出ると、生暖かい夜風が肌を撫で上げた。
見上げると、夜空に浮かぶように城の灯りが見える。普段なら城のシルエットが臨めるが、生憎と今夜は新月であった。
「…………」
不快感が胸中を満たす。
少し外へ出歩くことにした。
夜とはいえまだ眠るには早い時間だ。街には酒気に任せ賑やかに騒ぐ男女の姿が多く見られた。
彼らは王族の持つ価値観など知る由もなく、またその必要もないのだろう。
「……結局、何も変わらない。物語のようにはいかないね」
手に持っていた『地龍伝』を握り締める。こんな暗闇で読書など不可能だが、身に着けていないと落ち着かないのだ。
「私、どうしてここにいるのかな。お父さんにも、フェドラさん達にも、モモにまで迷惑を掛けて。この国に私がいる必要はあるのかな……」
橋の欄干にもたれかかる。
眼下にはドットフィリア都市内を渡る河川が流れており、心地よい環境音と景観を与えていた。
「エインフィリアなら、私を受け入れてくれるのかな」
思い出されるのは先日訪れた隣国の夜会だ。
父の計らいで用意された席に気まぐれに参加しただけだったが、滅多に見られない外の世界はまるで物語の世界に入り込んだようだった。
「そういえば、あの時……」
ふと、脳裏を過ぎったのは黒い髪の凛々しい女性の姿。名を聞きそびれていたが、あの瞬間だけは本当に世界の色が変わったように思えた。
ドットフィリアに自分の居場所がないのなら、エインフィリアにそれを求めてしまう。こんな思考は諧謔にすらならないが、夢見るくらいは自由だろう。
「さ、もう戻らなきゃ。明日はお庭の手入れをしないと……あれ?」
バキン、と不穏な音が聞こえた。
それに合わせたように、突如身体が支えを失い後方へと落ちていく。
橋の欄干が古くなっているという話を聞いたことはあったが、よりにもよって今この瞬間に耐久力を失うなど、もはや運命としか思えなかった。
走馬灯のように世界が緩やかに進行する中、エリーはこう思った。
(もう、どうでもいいかな。どうせなるようにしかならない。人生は物語のようには……)
人も物も落ちる時は落ちる。それに逆らうことは出来ない。
しかし、エリーの身体が河へと落下する前に、その腕を掴み上げる者がいた。
「え?」
「……平気?」
夜を溶かしたような黒い髪と瞳が、エリーの世界に映し出されていた。