第八話 暴風ハニー③
「それでは、〈刻印〉の処置を始めますね」
カトリナが椅子に腰かけたままの貴臣の背後に立った。
「あの、その前に一ついいですか?」
貴臣が片手を上げて、カトリナに話しかける。
「……はい、なんでしょう?」
「いや、転送魔法の件もそうなんですが、リコッサが言うには、その……氷河で倒れてた時に、防護魔法というものが、掛かっていたらしいんです。寒さに耐えるようなヤツを」
「なるほど?」
「ええと、つまり……記憶がないので分からないんですが、俺はその〈刻印〉がなくても、魔法が使えるんじゃないですか?」
カトリナは少し間を置いて、こう答えた。
「それは難しいと思います……防護魔法を使うには、かなり高度な魔法知識を要求されるんです。ヒト種でも相当な修練と、才能が必要とされています。……ましてや、〈刻印〉なしで発動するものでは決してありません。そもそも、魔法自体、〈刻印〉がなければ使うことができないのですよ」
「そうですか……それじゃあ、リコッサ言う通り、誰かに掛けられたのかな」
首をかしげる貴臣。
「防護魔法自体は、他人に作用するように発動させることは可能ですので――もしかすると、転送される以前に、他の誰かに掛けてもらったのかも知れませんね」
「うーん……そもそも魔法を使える知り合い自体いないんだけどなあ……」
すっかり考え込んでしまった貴臣の後頭部を眺めつつ、カトリナは続けた。
「そもそも、転送魔法を人体に作用させること自体、かなり無茶なことなんです。もしかしたら、その影響で記憶の一部が欠落している可能性もあります」
「マジっすか……ああ、確かに言われてみればところどころ記憶が飛んでる箇所があるな」
――たとえば、部屋から氷河に飛ばされる間に、なにがあったのか。あるいは、何もなかったのか。
「いずれにせよ、魔素の恩恵を受けるためだけでなく、こちらで住民として把握していることを記録するためにも〈刻印〉の処置が必要ですので……タカオミ様、お願いできますか?」
その口調には、わずかに焦りにも似た感情が乗せられているように、貴臣は感じた。
「…………」
貴臣はしばらく迷っていたが――やがて決心したように頷いた。
「……分かりました。お願いします」
「それでは始めますね。痛みはないと思いますが……何か異常を感じたらすぐにおっしゃって下さい」
そう言うと、カトリナの指先がゆっくりと貴臣の首筋をなぞってゆく。
貴臣は首筋にじんわりとした温かみを感じた。
その熱が後頭部に向かって浸透してくるような感覚を覚える。
熱は、後頭部に少しの間留まったあと――徐々に消えて行った。
それと同時に、貴臣のうなじに民族調の紋様が浮かび上がった。
「……はい、これで〈刻印〉は終わりです。身体の調子はいかがですか?」
「大丈夫です。特に何ともありません。……これで本当に終わりですか? それで、俺はもう魔法が使えちゃったりするんですか?」
「はい、ちゃんと使えますよ。……もちろん呪文を覚えなければなりませんが。それと、行使できる魔法は発動するために一定の条件が必要なものもありますので、順を追って説明してゆきますね」
貴臣が興奮したように、首を縦にぶんぶんと振った。
「――まず、魔法とは、この世界を満たしている『魔素』に働きかけることによって得られるさまざまな作用の総称です。その効果は――単純にその場に風を起こすことから、炎や雷を操る、人体に作用して傷を癒すなど、多岐に渡ります」
「わたしたちの村は高地で、魔素が薄いから大変なのよね。いちいち濃縮魔素を買いに出ないといけないし」
リコッサが口を挟んできた。
「そうですね。高地に住む方はそれゆえ、生活が大変だと聞いています」
『今の私も~、魔素が周りに無いと姿を現わせないみたい~』
「それで……魔法ってどうやって使えばいいんですか?」
鼻息の荒くなった貴臣が催促する。
「……そうですね、実際に使ってみましょう」
カトリナは手を胸の前で合わせ、ほほ笑んだ。
「それでは、最初に日常生活では必須の、灯りの魔法から教えます。まず、手の平を上に向けてください。……そうです。その上に灯る光球を心に思い浮かべながら、〈ウトゥラム・ドラール〉と唱えてみて下さい」
貴臣は立ち上がると、少し緊張した面持ちで手を突き出し、手の平を上に向けながら呪いの言葉を唱えた。
「――『灯 り よ』」
呪文を唱えた瞬間、貴臣の手の平の上に、温度の無い薄緑色の光球が出現し、辺りを照らし出した。
「おおっ! これが……魔法……!」
感動で声が上ずる貴臣。
さらにカトリナが語りかける。
「では、次は風の魔法です。風の魔法は魔素を操る基本中の基本ですので、これを覚えなければ、灯りの魔法を除く他の魔法を使うことができません。しっかり覚えて下さいね」
頷く貴臣。
「では、いきますよ。心の中で目の前の空気を揺らすように想像しつつ、〈サトゥス・スルスム〉と唱えてみて下さい」
貴臣は、先ほどと同じく、手を突き出して唱えた。
「――『起 動』」
――ふわり、と風が動いた気がした。
だが、それだけだった。
「……? 何も起こらないんだが……?」
皆が顔を見合わせた。
次の瞬間、貴臣の前で猛烈な突風が巻き起こった。
風は館の中で渦を作り、竜巻と化す。
「うわっ!? なんだコレっ!?」
突風にあおられ、貴臣の目の前のテーブルが横倒しになる。
リコッサは回避が遅れ、椅子もろとも後ろにひっくり返った。
飲みかけのティーカップは、貴臣が見ている前で――竜巻に呑み込まれていった。
ちなみに、カトリナは素早く立ち上がったので、椅子と運命を共にすることはなかった。
「おいおい……ちょっとこれはマズいんじゃねーの?」
凄まじい風圧は、先ほど片付けたばかりの書類や木箱を巻き込んで、あっという間に館内を元の混沌とした状態に戻してゆく。
「ちょっとウソでしょ!? ヒト種の魔法ってこんなに凶暴なの? これ一番初歩の魔法でしょ!?」
どうにか起き上がったリコッサは、はためく服を押さえながら叫ぶ。
どうやら、かなり想定外の事が起こったのだということは、貴臣にも理解できた。
「タカオミ様! 解除の言葉を……! 今すぐ〈イド・プロイヴェレ〉と唱えて下さい!」
カトリナが叫ぶ。
「え……? イ、――『解除』……!」
呪文を唱え終わると同時に、突風は一瞬で消え去った。
巻き上げられていた本が書類が、ばらばらと床に落ち、館内に静寂が戻る。
しかし――館内は酷い有様だった。
綺麗に片付けた本棚にはおびただしい数の雪崩が起き、至る所に山を作っている。
来客用のテーブルと椅子は全てひっくり返っており、しっちゃかめっちゃかだ。
飲みかけのティーカップは壁の本棚まで飛んで行っており、空っぽになったその棚の奥に、その破片をまき散らしている。
ホールの床は書類と本で覆われていて、足の踏み場もなかった。
「ちょ、ちょっと、これって初級魔法なんですよね? 魔法ってこんな威力あるものなんですか?」
「いえ……〈起動〉の魔法は通常ならせいぜい微風を起こす程度のものです。なぜこんな突風が巻き起こるかなんて、こちらも知りたいくらいです」
カトリナが困惑気味に答える。
「あーあ、館内がメチャクチャだよ……」
リコッサが辺りを見回して呟いた。
職員達の凍てつく視線が貴臣とカトリナに突き刺さる。
「……すいません。もう一度片付け手伝ってもらってもいいですか?」
「……はい」
貴臣は首を縦に振るしかなかった。
◇ ◇ ◇
がらんとした館内で、カトリナは独り、きれいに片づけられた机に向かっていた。
机には角に沿って大量の書類がきちんと積み上げられており、傍らの魔素灯がそれらをぼんやりと照らしている。
しかし――彼女の眼鏡の奥底に見える碧い瞳は、仄暗い光を未だ湛えていた。
職員達はすでに帰した後だ。
彼女以外、広々とした空間には誰もいなかった。
「――まさか」
薄紅色の唇から、小さな声が漏れる。
「またこんな日が来るなんて」
館内に、わずかな反響が染み渡る。
「原種が――よりによって『タタリ』の原種が――この時代に蘇るなんて」
しんと冷えたホールは、彼女の独り言を、ただ黙って受け止める。
「貴臣様は――あの子の二の舞には――」
そこでカトリナは、少しの間を置いて、言葉を吐き出した。
「なって欲しくないわ」
その、祈りにも似た独白に耳を傾ける者は、誰もいなかった。
次話は来週火曜更新予定です。