第三十一話 一歩
『あら~ここはどこかしら~』
のんびりした声が貴臣の耳元で聴こえた。
目線だけを横に向けると、魔素の燐光に彩られた小さな妖精が見えた。
虚像のパルドーサだ。
きょとんとした様子で、辺りを見回している。
地下の冷凍処置室は、魔素を排除した、いわば隔離施設だ。
それなのに、彼女がいる。
「ということは……」
ぱき、ぱき、と不気味な音が辺りに響く。
貴臣は、それが何の音なのかすぐに気付いた。
チャンバーからだ。
直立したその円筒状の筐体には、貴臣の目線と同じくらいのところに、中を確認するための小窓がはめ込まれている。
ちょうど、人間の顔の大きさくらいの窓だ。
それに、亀裂が何本も走っている。
「おい、こういうのって、普通密閉状態なんじゃないのか」
「……魔素にそんなもの関係ないわ。だからこそ、こんな隔離施設のような場所が必要だったのよ。でも、もうそんなことどうでもいいわ。あなたが全部、終わらせてくれるもの」
貴臣の言葉に、ノンナの一人が答えた。
その表情に焦りは見えない。むしろ、愉しげですらあった。
「いけません! このままでは彼女の肉体が増殖が止まらず、この階だけでなく周辺一帯を呑み込んでしまいます。今すぐに退避しなければ危険です」
「それで、逃げてどうするのぉ? 地表に魔素が滞留している限り、彼女の増殖は止まらないわぁ。世界を覆い尽くすまで、ねぇ」
焦るカトリナに、やはり別のノンナが答える。
まるでこれからパーティにでも参加するかのような浮かれた様子で、身体を揺らす。
「そこの『原種』が彼女を消滅させない限り、どこに逃げても一緒よぉ?」
チャンバーの窓の亀裂から液体が勢いよく噴き出す。
すぐに液体の噴出は止み、次いで、ぼこんと不気味な音が聞こえ、筐体が歪む。
固定していたボルトが吹き飛び、周囲の機械に突き刺さった。
内部圧力が、臨界に達しようとしていた。
「……時間がありません。タカオミ様、パルドーサ様、リコッサ様、すぐにここを離れましょう。エレベーターへ急いでください」
その様子を見て、カトリナが言った。
「でも、その後どうするんだ? ノンナのセリフじゃないけど、ノンナの身体は魔素で際限なく増殖するんだろ? 瓶一つ分の魔素でこの有様なのに、地表に出たら一体どうなるんだ?」
「今、施設の換気を急いでいます。大気の濾過が終われば、それである程度増殖は防げるはずです。隔壁に浸食が及ばなければ、このまま増殖が止まるかもしれません。いずれにせよ、ここに留まる理由は有りません。……さあ、急いでください」
「あ、ああ」
「そうね、長居は無用ね」
カトリナがエレベーターを指し示す。
貴臣とリコッサが踵を返し、エレベーターへ向かおうとした、その時。
「そういうところが、甘いっていうのよ」
後から、声が聞こえた。
呆れるようなため息交じりの声だ。
「まさか、瓶を一つ割るだけで済ますわけがないでしょう?」
振り返るまでもなかった。
未だエレベーターの側に佇んでいた給仕が、前掛けのポケットに両手を突っ込んだからだ。
「……おいおいどんだけ持ってきたんだよ」
前掛けから引き抜かれた両手いっぱいに、先ほどと同じ形の小瓶が何本も握られている。
給仕はそれらを一面にばらまいた。
あちこちに小瓶の割れる甲高い音が響き、薄緑色の靄が立ち込める。
数瞬の後、金属がひしゃげる音が貴臣の鼓膜を震わせた。
次いで、貴臣の背丈と同じくらいの金属板が、いくつも側をかすめてゆき、奥の壁に衝突した。
『キャッ!?』
横に漂っていたパルドーサの身体を、同じくらいの大きさの金属片が突き抜けていくのが見えた。
生身なら、身体に大穴が空いていたところだ。
貴臣はおそるおそる振り向いた。
「マジかよ……」
見れば、チャンバーは完全に破壊されていた。
すでに老婆の姿はなく、そこには赤黒い巨大な肉塊が蠢いていた。
その様子は、まるで巨大な心臓のようだ。
表面にはダクトパイプのような無数の血管が走り、どくんどくんと脈動している。
肉塊からは何本もの触手が生え、それらがうねり、のたうちまわる。
圧力で崩壊したチャンバーを呑み込み、周囲の機械群を絡め取って、徐々にではあるが、その体積を膨張させている。
「急いでください!」
「あ、ああ」
それを見たカトリナが駆け足になる。
貴臣とリコッサは頷いて、その後に続いた。
「あははははははははは! 逃げても無駄よぉ! じきにこの空間を埋め尽くして、さらにここにある機械を取り込んで増殖するわぁ。ここの隔壁を破壊すれば、岩盤を取りこみ続けて、いずれ地表に到達するわぁ。――そうすれば、もう半分だけの『原種』なんかには止められないわぁ。今すぐ、止めなければ、ねぇ?」
ノンナ達の哄笑が地下空間に響き渡る。
「……クソ! お前らがやったんだろうが」
「構わないでください! この空間の魔素を消費しつくせば、彼女の増殖も緩やかになります。その間に、もっと確実な手段を模索すべきです」
エレベーターはすぐそこだ。
カトリナは側に立ったまま動かなくなっている給仕に触れ、「あなたも避難してください」と命じる。
給仕は弾かれたように動き出し、エレベーターに乗り込んだ。
その後に続いてカトリナが、貴臣が、リコッサが乗り込んでゆく。
貴臣が扉の向こうに目を向けると、増殖した肉塊がノンナ達に迫っているのが見えた。
「おい! あんたらも早くこっちに来いよ! 手はともかく、足は動かせるだろうが!」
貴臣が叫ぶ。
だが、彼女たちはそこから動こうとせず、笑い声をあげるだけだ。
「おい! 早くこっちに――」
「私たちも、彼女と同じなのよ。いずれ、ああなる。だから、ここでお仕舞にしたいの」
その言葉は、エレベーターの中から聞こえた。
「あなたが、終わらせて。あなたしか、できないことなの」
給仕の口を借りて、ノンナが貴臣に語りかけていた。
「だから、お願――」
「まだ支配権が……! 耳を傾けないでください!」
叫んで、カトリナが給仕に再度触れた。
給仕が動きを停め、崩れ落ちる。
「ダメです。そんな不確実な方法……第一、タカオミ様だって何度も死亡して、毎回必ず蘇生できるとも限らないんですよ? ましてや、魔素の減少した閉鎖空間でなら本当にどうなるかわかりません」
「……っ」
貴臣は、無言でエレベーターの壁を叩いた。
どうすればいいか分からなかった。
ここから一度退避して、地表に彼女が出てこないことを祈りつつ、対策を練るか。
魔素が薄まれば、確かに増殖の速度は緩まるだろう。
しかし、隔壁を侵食したあとは?
ならば、一度魔法を発動させるか。
それなら、彼女を完全に消滅させることができるかもしれない。
しかし、魔素が消費しつくされた場合、その後に自分が蘇生することができるのか、貴臣には確信が持てなかった。
よしんば蘇生に成功したとして、五体満足で地上に出ることができるのか?
「……とにかく、急ぎましょう」
カトリナは貴臣の様子を少しの間だけ眺めていたが、やがて閉扉ボタンを押した。
音もなく、扉がゆっくりと閉まってゆく。
貴臣が外を見ると、ちょうどノンナ達が肉塊に呑み込まれているところだった。
彼女たちもあの肉の塊の一部となって、無限に増殖し続けるのだろう。
その後はこの広い地下空間を埋め尽くして、それが終わったら岩盤を取りこみながら、さらに増殖する。
魔素がある限り、ずっとだ。
仮に、地下深くで増殖が止まったとしても、死ぬことはない。
また数千年、あるいは数万年の間、ずっとここで生き続けるのだろうか。
思考も意思もなくなったとしても、それで彼女たちは満足なのだろうか。
「……ごめん、やっぱ俺残るわ」
貴臣は閉まりゆく扉の間にするりと体を滑り込ませ、外に出た。
「タカオミ様!?」
「ちょっとタカオミ!?」
驚きの表情のまま固まったカトリナとリコッサの顔が扉で遮られる。
エレベーターの扉は音もなく閉まり、それっきりだった。
分厚く重い鉄製の扉は、かごの内部からの音を一切通すことはなかった。
エレベーターは、古城と地下だけを結ぶ直行便だ。
いったん出発してしまえば、上に到着するまで停まることはない。
貴臣は閉まりきった扉を前に、もう一度「ごめん」と呟いた。
それから扉に背中を預けて、ずるずるとその場に座り込んだ。
「パルドーサも、ごめん」
『……私は、別に~』
パルドーサは貴臣の顔の前に漂いながら、苦笑いを浮かべた。
『この前だって、リコを助けようとして自分から化け物に向かっていったじゃない~。だから、薄々こうするんじゃないかって思ってたの~』
「いや、ホントごめん」
肉塊は、すでに貴臣の眼前にまで迫っていた。
のたうつ触手が、近くの機材と融合し、まるで木が根を張るように成長してゆく。
すでに壁に取りついた触手は数えきれないほどだ。
「……これじゃ、隔壁なんて意味なさそうだな」
轟音が床を揺らし、爆発音が頭から降ってくる。
目の前で、肉塊と触手がのたくって湿った不快な音をまき散らす。
破壊の余波で、細かな金属片やプラスチックの破片が身体に降りかかる。
「さて。ちゃんと魔法が発動するように、うまく死なないとな」
貴臣はゆっくりとその場に立ち上がると、尻に付いた埃を払った。
それから前に目を向け、ゆっくりと足を踏み出した。
次話が最終話となります!




