第三話 貪食ニンゲン
7/7改稿しました。
「タカオミ。やつらが来るわ」
リコッサの掲げた明かりが、蠢く無数の影を暴き出す。
「なっ……」
貴臣は息を呑んだ。
それは――銀色の体毛に包まれた、狼のような獣だった。
それが、雪原のあちらこちらから、こちらをじっと見ている。
ただしその大きさは、貴臣の知るそれではなかった。
体高だけでも貴臣の身長を超える、文字通りの化け物だ。
「ウソだろ……こんなの、現実にいるわけがない」
貴臣はあとずさり、呟いた。
化け物達のフォルム自体は、貴臣のなじみのあるものではあった。
アニメやゲームではよく見る連中だ。
女の子を背に乗せて走ったりだとか、巨大な剣を咥えて闘ったりだとか――例を挙げればきりがない。
だがそれが、生々しい実感を伴って眼前に存在しているとなれば、話は別だ。
それも、そんなファンタジックな生き物ではなく、意思疎通が不可能な野獣の類である。
何十対もの、殺意に満ちた目がこちらを見ている。
貴臣は射すくめられたかのように、その場から動けなくなってしまった。
「ちょっと! タカオミ、しっかりしてよね。パル姉の事を聞き出せないうちに、連中のエサになってもらっちゃ困るのよ」
「そ、そんなこと言ったって……あんなの、どうやって倒すんだよ」
貴臣の指摘に、リコッサがふふんと笑って返す。
「とりあえず、これ、持ってて」
リコッサが、手に持っていた明かりの浮いた小瓶を手渡してくる。
それは、貴臣が受け取っても光を放ち続けた。
「周りが見えやすいように、高く掲げといて。タカオミの方が、背が高いし」
リコッサの指示に従い、貴臣は腕を高く上げた。
その分だけ、雪原の奥まで光が届くようになる。
「これ、魔法が使えない奴でも大丈夫なんだな」
「そうね。点灯するのに呪文が必要なだけだから、アンタはそれを持ってるだけでいいわ」
油断なく目を配らせながら、リコッサが言った。
虎犬の群れが、じりじりと間合いを詰めてきている。
「タカオミ、よく聞いて。連中は図体によらず、結構用心深いの。それに、まあまあ賢いわ。まずは一頭か二頭で、様子見の攻撃を仕掛けてくるから、いきなりそいつを仕留めてやれば、うかつに手を出してこなくなるわ。その隙に、氷河を突破しましょう」
「あんなデカいの、どうやって倒すんだよ?」
「まあ、見てなさい」
言うと、リコッサは姿勢を低く取った。
鋭く視線を巡らせ、すうっと息を吸い込む。
そして短剣を振りかぶり――
「……そこッ!」
鋭い声とともに、貴臣に向かって、投げた。
「おわっ!?」
短剣は貴臣の頬をかすめ、一直線に暗がりに飛んでゆく。
「おい! 危ねえだろうが!」
貴臣の抗議の声を上げた。
それは、背後で鈍い音が聞こえるのと、同時だった。
少しの間を置いて、何か大きなものが倒れる音がする。
貴臣が振り向く。
十歩ほど先のところに、巨大な獣の亡骸が横倒しになっていた。
その額には、先ほどの短剣が深々と突き刺さっている。
「背後からの奇襲なんて、常識よ。所詮は畜生ね」
リコッサは貴臣の方を向くと、ははん、と肩をすくめた。
余裕の表情だ。
しかし貴臣の視線は、彼女の肩越しに別のものを捉えていた。
「おいリコッサ、後ろから来るぞ!」
別の虎犬が、リコッサ目がけて突進してきていた。
凄い速さだ。
短剣は、最初の迎撃で投げたままだ。
今のリコッサに、その突進を止める術は――ない。
虎犬が、音もなく、跳躍した。
顎が大きく開かれ、親指ほどもある牙がずらりと並んだ口腔が、はっきりと見える。
リコッサは、まだこちらを向いたままだ。
――ヤバい、喰われる――
せめてもの警告と、手を伸ばす。
風が、貴臣のすぐ側を通り抜けた。
虎犬の牙が彼女の頭に届く瞬間――リコッサの身体が、消えた。
否――リコッサは寸前に体を倒し、回避したのだ。
虎犬の牙がガチンと音を立てて、閉じられる。
目の前の獲物が消え失せ、勢い余った虎犬はその場でたたらを踏んだ。
その隙を見逃すリコッサではなかった。
腹ばいの姿勢から跳ね上がるように起きあがる。
その手には――さきほど投げたはずの短剣が握られていた。
そしてそれを、虎犬の脇腹に深々と突き立てた。
「ハアアアアァァァァッ!」
裂帛の気合とともに、短剣を横薙ぎに振りぬく。
湿った音がして、大量の血液が雪面に赤い花を咲かせた。
その中に、大蛇の様な臓物がぼとぼととこぼれ落ちた。
虎犬はがくりと崩れ落ちる。
そして苦悶の声を一つ上げたあと、動かなくなった。
「後ろからくることは、分かってるって言ったでしょ。わたしの勘はよく働くのよ」
リコッサの得意げな顔に、貴臣は何も言わず、安堵のため息で返した。
仲間を二頭斃され、虎犬達は徐々に後退してゆく。
今や虎犬の群れは、貴臣達を遠巻きに眺めるだけになっていた。
「どうやら、連中よりもわたしの方が強いと判断したようね。畜生にしては懸命だわ」
リコッサは短剣を振って、血を飛ばした。
「しかし、なんで短剣を手に持ってるんだ? さっき投げたやつ一本しか持ってなかっただろ?」
「そうね。持ってるのはこれ一本だけだけど……わたし達の部族は、こんな使い方ができるわ」
言うと、リコッサは短剣から手を放した。
短剣は彼女のしなやかな手から滑り落ちてゆき――雪面に突き刺さる寸前で、止まった。
そのまま、振り子のようにゆらゆらと、揺れている。
貴臣は、その様子を見て、ようやく合点がいった。
「――糸で繋いでたのか」
虎犬に投げつけた後、あの一瞬で糸を引き、短剣を手元に戻したのだ。
「そう。別に隠すような技でもないけどね」
短剣に結わえつけられた糸は、よく目を凝らしてみないと分からないほど、細いものだった。
貴臣が手に持った光をかざしてみると、きらりと白い線が反射して見える。
そしてその糸は、短剣からリコッサの手のひらを通り――彼女の手首から直接生えていた。
「なるほど。それで、蜘蛛族か」
「わたし達は、体内で糸を生成することができるの。こうやって武器として使えるほど強靭だし、衣類や反物を織ることもできるわ」
「仕事っていうのは――」
「まあ、そういうのを街で売って生計を立ててるというわけね」
「蜘蛛糸を操る――種族か」
ここへ来て貴臣は、リコッサの言う『ヒト種』の意味が分かりかけてきた。
普通の人間は、手首から糸なんて出てこない。
あんな化け狼相手に、無双するなんて、できやしない。
……映画の中で、蜘蛛に噛まれでもするなら話は別だが。
要するに、ここは貴臣の知る世界ではないということだ。
「さて、邪魔者は片付いたし、さっさと帰りましょう」
リコッサが何事も無かったかのように前を向き、歩き始める。
重そうな荷物を背負っているが、意気揚々といった様子だ。
あれほどの怪物を二頭も屠ったのだから、それは当然のことだった。
だが彼女は、一つ肝心なことを忘れていた。
リコッサは強い。
虎犬達はそれを思い知った。
でも――貴臣が強いかどうかは、まだ確かめていない。
リコッサは二頭仕留めてご機嫌、片やただの高校生、素人だ。
忍び寄る気配に二人が気付かなかったのは、無理からぬことだった。
衝撃とともに、貴臣の視界がぶれた。
次いで、肩口から脇腹に走る、激痛。
何が起こったのかを理解した時には、すでに手遅れだった。
銀毛の巨獣が、身体に牙を突き立てていた。
貴臣の全身が粟立つ。
恐怖と痛みで、血液が逆流する。
声らしい声を発する前に、貴臣は引き倒されていた。
「タカオミ? どうしたの?」
背後からどさりと鈍い音が聞こえ、リコッサは振り返った。
貴臣に持たせたはずの光が、やけに低いところにある。
見れば、虎犬が貴臣に覆いかぶさっていた。
その大きな顎が、哀れな獲物に齧りついているのが見える。
低い唸り声の合間に、ごぼりと湿った音が聞こえる。
雪面に放り出された小瓶の光が、てらてらとした赤黒い液体に反射していた。
「タカオミッ!?」
リコッサは悲鳴に近い声を上げた。
慌てて短剣を引き抜こうとする。
しかし、背負った荷物が邪魔をしてうまく引き抜けない。
ぶちぶちと、何かが裂ける嫌な音がする。
虎犬の顎には、ちぎれた肉が垂れ下がっていた。
貴臣はびくびくと痙攣をしたあと、やがて動かなくなった。
虎犬が首をもたげる。
そして、勝ち誇ったような雄たけびを上げた。
―そんな。そんなそんなそんな。
リコッサが膝から崩れ落ちる。
――これじゃあ、お姉ちゃんの行方が分からなくなっちゃう。せっかくの手がかりが、全部なくなっちゃう。
「この……っ!」
ようやく短剣を引き抜いたリコッサが、跪いたまま、投擲の構えを取る。
しかし、その剣が投げられることはなかった。
一瞬の出来事だった。
虎犬が雄たけびを上げた瞬間、その足元からまばゆい光が湧きあがったのだ。
魔法陣が、出現していた。
そこからまばゆい光の蔦が伸び、真上にある虎犬の頭部に絡みつく。
閃光と破裂音。
虎犬の頭部が爆散し、光の粒子へと変わる。
飛び散った粒子はやがて収束し、足元に組み敷いた死骸へと吸い込まれていった。
光の粒子により、貴臣の身体は再生しつつあった。
「ウソ……」
首から上に赤黒い空洞を晒し、虎犬はどうと倒れ伏す。
死骸が、死骸を作ったのだ。
今度はリコッサは口を半開きにする番だった。
この光景には、彼女は見覚えがあった。
クレバスから引き上げた死骸、パル姉の行方、魔法陣、そしてこの閃光。
すべてが今、頭の中で繋がる。
「コイツ……パル姉を……」
短剣を固く握りしめる。
歯を食いしばりすぎて、ぎりりと音が鳴る。
こんなのに行方を訊ねるなんて、なんてバカなことを。
こいつは――こいつは。
こいつは、パル姉を――喰ったんだ。
「この……化け物が……!」
鬼の形相で短剣を振りかぶる。
狙いはもちろん、そこに転がっている、人喰いの化け物だ。
その首と胴体を切り離してやろうと――
リコッサはそこで、やけに周囲が明るいことに気付いた。
薄緑色の、なぜか見覚えのある光だ。
ふと、上を見る。
魔法陣が、氷河の上空に出現していた。
先ほど虎犬を屠ったものの、数百倍はあろうかという巨大さだ。
「なっ……!?」
振りかぶった短剣をそのままに、リコッサはその光景に凍りついた。
魔法陣の範囲に、自分も入っている。
すぐ側の、頭のない巨獣の死骸を見やる。
これは……マズい。
短剣を腰の鞘に収めると、急いで荷物を背負い直した。
脱兎のごとく、雪原を駆ける。
魔法陣は次第に光を強めてゆく。
やがてその光が収束してゆき、大地へと無数の蔓を伸ばし始めた。
その様子はまるで、幾百条もの雷が同時に落ちたかのようだ。
リコッサはその中を、光に触れないように気を付けつつ、走った。
周囲を見渡すと、虎犬の群れが逃げ惑う姿が見える。
予想外の出来事に、慌てふためいているようだ。
光に絡め取られた虎犬達が、次々と光の粒子となり爆散してゆく。
その光る残骸が、上空に展開された魔法陣へとどんどん吸い込まれてゆく。
「早く、この範囲から外に出ないと……!」
息が切れる。
肺が焼け付きそうだ。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
リコッサは光の蔦の包囲網から逃れたあと、背負った荷物を放り出した。
そのまま雪の上に倒れ込む。
そして、荒い息が落ち着くのを待つ。
火照った頬に、ひんやりとした雪の感触が心地いい。
ひとしきりその感触を堪能したあと、リコッサは体を起こした。
魔法陣は、虎犬だけでなく氷雪や周囲の岩をも取り込み始めていた。
それらがどんどんと分解され、光の粒子となり、空に昇ってゆく。
氷河はすでに崩壊しており、原形をとどめていなかった。
魔法陣の直径に沿うように、巨大なすり鉢状の陥没孔が形成されている。
やがて魔法陣が周辺のほとんどの呑み込み尽くすと、今度は何かを排出し始めた。
大気がごうごうと唸りを上げ、渦を巻く。
光の平面から生まれ出ずる、巨大な物体。
それは、龍だった。
翼を持つ巨大な龍が、魔法陣の下、ゆっくりと出現していた。
ずんぐりした巨大な体躯。
三本の長い首を持ち、そのどれもが、ゆらゆらと揺れ動いている。
翼を羽ばたかせたその姿は、雪原を覆い尽くさんばかりの威容だ。
爛々と眼を光らせ、牙ののぞく口からは、赤い炎が揺らめいている。
低い唸り声が雪の大地を震わす。
次の瞬間、龍はその大きな顎を開き――逃げ延びた虎犬達に向かって、火球を吐き出した。
「キャッ!?」
猛烈な衝撃波が、リコッサを襲う。
余波だけでも、まるで岩に叩き付けられたような感覚だ。
脳がゆさぶられ、意識が狩り取られる。
気絶したリコッサはそのまま吹き飛ばされ、ころころと雪面を転がる羽目になった。
一方、虎犬達はそれだけで済むはずもなかった。
火球が付近に着弾すると、辺り一面が木端微塵に吹き飛ぶ。
直撃などせずとも、その衝撃波が虎犬達を血煙に変える。
あるいは、飛び散った氷雪や岩石が、その身をずたずたに引き裂く。
いずれにせよ、彼らはその一瞬でこの世から永遠に姿を消すことになった。
上空に浮かんだ龍は、その三本の首から次々と火球を吐き出してゆく。
それは、逃げ惑う影がひとつ残らず消え失せるまで続いた。
役目を終えた龍は砂になり、あっという間に崩れ去っていった。
それと同時に、魔法陣も光を失い、消える。
あとには、すり鉢状に崩壊した氷河と、その底の砂のような、かつて龍だった黒い物体が残るのみだ。
しかしそれも、火球の衝撃波により刺激され、周囲の山々から押し寄せた大量の雪崩によって、覆い隠されていった。
しばらくして、うめき声とともにリコッサは目を覚ました。
痛む頭を押さえつつ、起き上がる。
先ほどまでの修羅場が嘘みたいな静けさだ。
すでに陽は明るくなっており、陽光に反射した雪が眩しい。
虎犬も、巨大な龍も、魔法陣も――まるで夢のように、きれいさっぱり消え失せていた。
どこを見渡しても、荒涼とした雪の大地が横たわるのみだ。
そこでリコッサは、すぐ側で眠りこけるヒト種の少年に気付いた。
すうすうと、気持ちよさそうな寝息を立てている。
リコッサはその寝顔をしばらく眺めたあと、腰に吊った短剣をゆっくりと引き抜いた。