第二話 白銀
7/7改稿しました。
「ねえアンタ。 ちょっと、大丈夫?」
誰かにぺしぺしと頬を叩かれ、貴臣は目を開いた。
視界いっぱいに、群青色とオレンジ色のグラデーションが、広がっている。
その間をぬって、線を引いたようにたなびく幾筋かの、雲。
空だ。
それは、どこまでも沈み込んでゆくような――深い黄昏時の色だった。
貴臣は、自分がそのまま空に落ちて行くような気がして、思わず手をばたつかせた。
そして――そこで、自分が仰向けに倒れていることに気付いた。
がばりと、身を起こす。
首を左右に振り、辺りを見回す。
徐々にオレンジ色に染まりつつある雪の大地が、貴臣を支えていた。
雪原は、その両側を険しい岩山で挟まれており、その様子はまるで幅広の河のようだ。
ぐねぐねと蛇行しながら、山々の向こう側へと消えている。
貴臣はすぐに、それがどんな場所なのか思い当たった。
氷河だ。
それも、貴臣が本やインターネットで見たどれよりも、大きい。
「なっ……!?」
状況が明らかになるにつれ、貴臣の心臓が早鐘のように打ち始めた。
体中から、ぶわりと汗が吹き出してくるのを感じる。
――待て待て待て。さっきまで、自分の部屋に居ただろ。
雪? 氷河? どこだよ、ここ……
「ちょっと……大丈夫? 顔色、悪いよ?」
背後から声がして、貴臣は顔を後ろに向けた。
雪の上に、一人の少女が座り込んでいた。
怪訝そうな表情で、貴臣の顔をじっと見ている。
「ぁ……?」
「『ぁ……?』 じゃないわよ! アンタ誰?」
美しい少女だ。
年のころは、貴臣の見たところ、十代半ばほど。
ショートカットの銀髪がまず、目を引く。
肌はほんのりと日焼けしたような淡い褐色で、髪色とのコントラストが美しい。
顔立ちは端正で、宝石のような赤い瞳が印象的だ。
首から下は、分厚いコートの様な服を着込んでいるせいで、体型までは推し量ることはできない。
しかしながら、襟元から見える細い首や、袖から見え隠れするしなやかな指先から鑑みるに、そこそこのスタイルの持ち主と言えそうだ。
貴臣が少女に見惚れていると、彼女は目を吊り上げて、まくしたててきた。
「ちょっと! 黙ってないで何か言いなさいよ!」
「あっゴメン、俺は苅田貴臣。苅田が姓で、貴臣が名前……です。そちらは?」
「タカオミ……? 珍しい名前ね。わたしは、リコッサ。蜘蛛族のリコッサ・ボムビークスよ。ところで……うちの姉について、何か知らない?」
「はい? あらくね族? あ、姉……?」
――あらくね族? 部族の名前かなんかか? それに銀髪、褐色肌、この分厚いコート。そういえば、同じような人をどっかで見たような……
貴臣の脳裏に、部屋での出来事がよぎった。
「そう。パルドーサっていうんだけど。さっきここで、魔法陣みたいなものを踏んで、消えちゃったの。それから……えーと、タカオミだっけ? 代わりにアンタが現れたのよ」
――パルドーサ。部屋に入ってきたおねえさんが、確か、そんな名前だったような。
「その人って、リコッサ……さんと同じような服着てて、眠たそうな翡翠色の瞳で、なんだかのんびりした喋り方してたりする?」
「……! そうそれ! それ、ウチの姉だわ。それで、パル姉……パルドーサは、今どこにいるの?」
リコッサは興奮したように貴臣に詰め寄ると、顔を近づけてきた。
鼻と鼻が、ぶつかりそうな距離だ。
その様子に、貴臣の心拍数がさらに跳ね上がった。
ただでさえ、多感なお年頃である。
しかも、かわいい女の子が顔を近づけてくるなんてシチュエーションは、これまで経験したことがなかった。
なんだか幸せホルモンのようのものが溢れてきて、頭の芯がぼーっとしてくる。
貴臣は、これはマズいと思い直し、話題を変えてみることにした。
「あの、リコッサ……さん?」
「リコッサでいいわ」
「……じゃあ、リコッサ。その前にちょっと聞きたいんだけど……ここ、どこ?」
問いかけに、リコッサの顔がいったん離れる。
貴臣は、ほっと一息吐いた。
「ここ? ここは、サティス山脈のイグセルスム氷河。わたしの村のすぐ近くよ」
「さてぃ……何だって? 村……?」
貴臣は混乱した。
まず、どうやらここは、日本ではないらしい。
つい先ほども同じような単語を聞いたような気がするが……語感からして、北海道とかでもなさそうだ。
……もちろん、貴臣が住んでいた街の地名ではなかった。
「俺……なんで、ここにいるの?」
「それはわたしが聞きたいわよ。 だいたいアンタ、なんで……す、素っ裸なの? バカなの? 変態なの? ここ、氷河よ?」
リコッサは口早に言うと、そっぽを向いた。
ショートカットの銀髪から覗く耳が、心なしか赤い。
「えっ」
貴臣はそこで、自分が何も身に付けていないことに気付いた。
目覚める前に、リコッサが気を利かせてくれた(?)のであろう、下腹部には一枚布が掛けてあったが、それだけである。
――あれ……でも、寒く……ない?
雪の上である。
気温はおそらく、氷点下だ。
自分自身の吐く息も、リコッサの吐く息も、なかなか消えずに、虚空を漂っている。
手が触れている雪面も、ほとんど融けている様子がない。
前日にでも積もったばかりなのか、さらさらのパウダースノーだ。
なのに今まで、全く寒さを感じなかったのだ。
訝しがる貴臣を見て、リコッサが続けた。
「そりゃそうよ。タカオミ……アンタ、防護魔法が掛かってるわ。それも、相当強力なヤツね」
「防護……魔法?」
そこで貴臣は、あらためて自分の身体に視線を落とした。
見れば、腕が、胸が、足が、ぼんやりと燐光を発している。
夕闇の中でやっと分かる程度の、ごくわずかな光だ。
「ねえ、本当に何も分からないの? 確かに『ヒト種』は魔術に長けているのは知ってるけど――この寒さの中、裸で平気でいられる魔法なんて、尋常じゃないわ」
「俺が魔法? 使えるわけないじゃん」
「ハア? じゃあ誰かに掛けられたってこと? …………まあいいわ。それより、そのままの格好で喋られても目のやり場に困るわ。とりあえず、これ着てもらえる?」
まるで、自分が『ヒト種』でないような言い方だった。
確かに銀髪で赤目というのは、人間でも珍しい。
しかし、それは珍しいだけで、あくまでも――ヒトだ。
貴臣は訝しげな表情でリコッサを見た。
魔法がどうとかといい、さきほどの『ヒト種』発言といい、どうも怪しい。
しかしどう見ても彼女は――少し変わった容姿の、ただの女の子だ。
当の本人はそれに気づいた様子もなく、側に置いてあった大きな背嚢をごそごそと漁っている。
そして、男物とおぼしき衣類を引っ張り出すと、貴臣に突き出してきた。
――相変わらず、顔をそむけたままであったが。
「……ありがとう」
貴臣は礼を言い、服を受取った。
服は、いわゆる肌着の類だった。
しかも貴臣の身体のサイズより一回り以上大きい。
しかしそれでも貴臣にしてみれば、それでも素っ裸でいるよりは、数段ましだった。
いそいそと、着替えを済ませる。
そこでやっと人心地付いた貴臣は、ため息を一つ吐いた。
そして、いまだにこちらを見ようとしないリコッサに話しかけた。
「あの。お姉さんの話なんだけど――俺の部屋にいるのかも知れない。でも、なんでそうなったかは分からないんだよな。だから――何があったのか、そっちから先に教えてもらえないかな?」
「……そうね。ひとまず、今までの経緯を教えるわ。何か、思い出すかも知れないし」
夕闇せまる氷河に座り込み、リコッサが語った内容を要約すると、こうだ。
今日の昼ごろ――リコッサとパルドーサは、山のふもとにある街で仕事を終え村に帰る途中、この氷河に差し掛かった。
この日はいつもより仕事が多く、街から出るのが遅れてしまっていた。
それで時間短縮のため、いつも使う山道ではなく、この氷河を渡ることにした。
ところが渡河の最中、先日積もった雪に隠れたクレバスを踏み抜いて、リコッサが滑落してしまう。
命綱をつけていたおかげで大事には至らなかったが、クレバスの中でゴブリンに似た奇妙な動物の死骸を見つけたので、引き上げてみた。
死骸を引き上げるとすぐ、リコッサ達の足元に魔法陣が現れた。
それを踏んだパルドーサが光に包まれて消えてしまった。
そして、代わりに現れたのが――
「それが、俺だったというわけか」
「そういうこと。けっこう大きなクレバスだったのよ」
リコッサは言うと、少し先にある雪の裂け目を指差した。
そのクレバスは、彼女の言う通り、かなりの大きさだった。
貴臣は立ち上がり、裂け目の縁まで歩み寄った。
おそるおそる、中を覗いてみる。
黒々とした裂け目は、どのくらいの深さなのかさえ、見当もつかなかった。
「タカオミ。とりあえず、ウチの村に一緒に来てもらえる? 完全に暗くなる前に帰りたいの。ひとまずアンタの話は、その後」
穴を覗いていると、リコッサが声をかけてきた。
脇に置いてあった荷物を背負い込んで立っている。
「ああ。俺もこんなところで放置されるのは困るし、頼むよ」
貴臣が肩をすくめ、応じた。
「そう。それならよかったわ。この辺は夜になると、虎犬の群れが出るの。早めにここを出ないと襲われるかもしれないわ」
「トライヌ?」
リコッサの口から妙な単語が出てきて、貴臣は思わず聞き返した。
「そう。凶暴なケモノよ。群れの規模によっては、見つかると少しばかり厄介だわ。急ぎましょう」
リコッサは口早に喋りながら、歩き出した。
貴臣はその後に続く。
――トライヌ……? 語感から察するに、狼とかそんなのかな。
もしそうなら、結構ヤバい相手ではあるな。
歩き始めて何分と経たないうちに、前を歩いていたリコッサが急に足を止めた。
「うわっぷ!?」
すぐ後ろについていた貴臣は止まりきれず、リコッサの背負った荷物にぶつかってしまった。
「おい。雪の上で急に止まるなって」
「シッ。ああ、まずったわ……囲まれてる」
「え? まさか……」
「かなりの数だわ。まだ明るいってのに……今日は本当にツイてないわね。パル姉はいなくなるし、変態ヒト種は拾うし……」
ブツブツと恨み言を呟きながら、リコッサは荷物を下ろした。
それから腰に吊っていた短剣を引き抜き、構える。
どうやらここで、その虎犬とやらを迎え撃つつもりのようだ。
貴臣は薄暗い雪原に視線を巡らせたが、それらしき影は見つけることが出来なかった。
「おいマジかよ……俺、戦えないぞ」
「いいから、じっとしてて」
リコッサはコートのポケットを素早く探り、硝子製の小瓶を取り出した。
コルクの様な蓋を齧り取り、瓶を天高く掲げる。
そして、呪いの言葉を紡ぎだした。
「――灯 り よ」
次の瞬間、掲げられた小瓶の上に、握りこぶし大の光球が出現した。
温度の感じられない、しかし強烈な光が雪原を照らし出す。
「これも、魔法……」
貴臣は口を半開きにして、その様子を見ていた。
先ほどの自分の身体といい、この光といい――目の前の光景が、信じられない。
その様子を見て、リコッサは得意げに笑みを浮かべた。
「そう。これは、明かりの魔法。高地では魔素が薄いから、瓶に蓄えておくの。それよりタカオミ、やつらが来るわ」
この光の中なら、貴臣にも見て取れる。
巨大な、無数の影が蠢いている。
虎犬の群れが、じりじりと近づいていた。