玉子焼き
文藝部内文学賞応募作品
応募テーマ「玉子焼き」
卵は火を通したら玉子になる。
だから、卵焼きじゃなくて玉子焼き。
そう、教えてくれたのは君だったろうか。
もうそろそろ、この生活にも慣れてきた。僕は、いつものように部室に顔を出す。
「お疲れ様です。」
部室に入るときも、そこから出るときも、必ずこの挨拶が用いられる。僕の高校までの文化圏には無い習慣で、酷く戸惑った事を覚えている。それでも、僕はもう慣れてしまった。自然にその言葉が漏れ出る。この時程自分の無能さ……つまり、脳の停止加減を痛感する事は無い。だって、そう思う事ですら、もうルーティーンに組み込まれている。
馬鹿みたいに暑かった夏も、もういなくなってしまう。考えてみれば不思議だ。毎年この時期になると、あんなに消えろと思っていた奴が、綺麗さっぱりいなくなる。残滓すら残さず、後を濁さず。幾分か過ごしやすい優しさの後で、夏の反動だろうか、馬鹿みたいに寒い冬がやってくるのだ。正直、足して2で割ってほしい。つまり、何が言いたいかというと、良い加減この扇風機は仕舞ってしまうべきなのだ。仕舞ってしまうというのも中々に奇妙な表現だが、まぁそういう事だ。仕舞うのだ。
「先輩」
と僕は話し掛ける。
「この扇風機、もう仕舞っちゃって良いですよね?」
返事はない。
この空間に先輩と呼ばれるべき人は3人いる。別に僕が独り言を言っているわけでは無い。ただ、3人のうちの誰が話しかけられたのか、分からないでいるのだろう。僕でさえ。これはただ、間を持たせるためだけの問いだ。その内容にさして意味はない。扇風機の一台や二台、大した邪魔にはならないし。
因みに――いや、何に因んだ訳でもないが――僕の所属するこのサークルは映画研究会。略して映研。実用英語技能検定とはなんの因果も関係もない。当然。徒然に映画のDVDの置いてある棚を流し見ている。よくもまぁこんなに面白くなさそうな映画ばかり集められるものだ。映画初心者の僕たちに、これを参考にしてどうしろと?違うな。ド素人の僕たちにどうしろと? こっちが正解か。馬鹿みたい。
そう言えば、最近映画を観ていないことに気付いた。映画を観ない映研とはこれ如何に。因みに撮ってもいない。部員はとってもいない。幽霊部員ならいっぱいいる。何その曰く付き物件。たとえ巫山戯ていたとしても、映画に触れていない理由などすぐに分かった。何を隠そう、僕と彼女はこの場所で出会ったのだ。とてもとても美味しい玉子焼きの、彼女。
何を隠そうなんて言ったものの、そも彼女については、さっき初めて話題にしたような気もする。隠す気まんまんだった。事の始まりは春、期待と希望に満ちた目で新入生が入って来る季節である。彼女は部室に入って来ると、ちょっと困ったような顔で笑った。
「あの……ここ、映画研究会の部室であってますか……?」
透き通った声だ。いや、声に色なんか無い。……本当に無いのか?声は空気の振動だし、色は電磁波で両方波だ。つまり、透明な声というのは可聴領域の振動数全てを含んだ合成波なのか。納得。んな訳無い。
「……い、いや……僕も新入生なんで……」
恥ずかしい。初対面の可愛い女の子のまえでアガってしまって、声が干涸らびてしまうだなんて本当に恥ずかしい。第一印象は大事だ、寧ろ第一印象以上に大事なものなどこの世には無い、とあれ程念じていたのにこの様だ。こんなサークル辞めてやる。そして晴れてバイト戦士となるのだ。まだここが映研の部室かどうか知らないけど。
「あっ! そうなんですか! これからよろしくお願いしますねー」
天使かよ……。眉一つ顰めず、目一つ逸らさず、いたって自然に可愛い。違った。違わないけど。いたって自然に返事をしてくれた。マジでこいつ天使かよ。大事な事なので二回言わざるを得ない。ついこの間まで男子校に通っていた身としては、微笑まれただけで惚れてしまわずにはいられないというのに、こんな対応されたらもう結婚だな。と、本気で勘違ってしまう前に、この状況をなんとかしなければ。具体的には、知らない女の子と二人で知らない部屋にいるこの状況を。解決の優先度はどちらが上だろうか。
結果から言えば、そこはマジックサークルの部室だった。何故だ。直後にやって来たマジックサークルの先輩に映研まで連れて行ってもらった。
「不思議だねー二人揃ってマジックサークルと間違えるなんてさー」
ケタケタと笑う彼女。一切の嫌味を感じさせない、自然体の愛敬がきっとそこには有るのだろう。体が細かく震えるのに対応して、彼女のポニーテールも右に左に跳ね回る。映研に入りたいという割には、中々活動的な見た目だなと思う。ただの偏見だ。でも、それこそサッカー部のマネージャーとかの方がよっぽど似合っている。映研だなんて名前からして根暗地味オタクの集まりだと思っていたのだが、なかなかの青春が送れそうな気配だ。まずは、いまのうちに懸垂の練習をしておくべきだろうか。大学生にもなって何を言っているんだか。ドリアン100%って感じだ。誰が得するんだ。
さて、僕らが入った本物の部室は、正に映画研究会という名にふさわしいそれだった。棚に並べられた無数の映画、何かしらの設定資料集、映画ファン御用達の月刊誌、DVDドライバ……にビデオデッキまである。隣の彼女も目を輝かせていた。むさ苦しくて陰鬱そうな先輩方も、女子部員は珍しいのか、かなりの興奮度だった。具体的には、鼻息の荒さで言葉が意味を成していなかった。そんなキモオタ共にも、微笑みをもって接してくれるこの娘はマジ慈愛の女神。惚れ直した。
そこで僕はやっと気付いたのだった。天啓は自らの思考。この時程、自分を褒めてやりたいと思った事はない。つまり、驚くべき事に、僕は彼女に恋していたのだった。出逢って1時間足らずで。要は一目惚れって奴だ。僕の最も嫌悪した……最もは流石に言いすぎた。自宅からの最寄駅に留まらない快速電車の次くらいに嫌いなアレだ。まさか、この僕が一目惚れるなんて。非の打ちようも無いからなぁ……まぁ、それも仕方の無いことか。誰からも嫌われる奴がいるのなら、誰からも好かれる奴がいてもなんらおかしくは無い。ただ、僕と住む世界が違い過ぎていて、今まで会わなかっただけなのだろう。
彼女は脚本を書いていた。自分の言葉を映像にしたいのだと語ってくれた。自己紹介の場で。カメラワークを学びたい僕は、一も二もなく血眼で提案した。
「僕のカメラで君の脚本を映画にしてみないか?」
こうして、僕らの青春が始まった。
一限ダルい。五月病である。大学生にのみ許されたこの文章を、僕は週に一度しか使わない。大学最高って感じ。高校の時とは講義の楽さも自由さも全然違う。テストも過去問入手で完璧だ。嗚呼、なんと素晴らしきかな大学生活。詰まる所、僕は殆どの時間をバイトと趣味に費やせるのだった。文系最高! 文学部最高! 空きコマ、所謂授業の入っていない時間には、部室に行って映画を見、放課後はアルバイトでカメラを買うお金を貯めていた。彼女の脚本が出来上がるまで、僕にできる事は、カメラワークの練習位しか無かった。どうやったら彼女を美しく撮れるか、どうやったら、彼女のアイデアを完璧以上に形にできるか。一心不乱に相手の望みを叶えたいだなんて、まるで思春期の男の子だ。でも、成熟しきっていなくても、この感情はきっと間違いじゃない。彼女の喜ぶ顔を見る事だけが、僕の喜びなのだから。ふと、視線を感じた。右斜め前からだ。この授業は教養科目で、文学部の友達は誰もいないし、学部の違う知り合いなんて一人しかいない。そう。彼女だ。少し離れた所にいる彼女は携帯を掲げ、少し悪戯っぽく笑った。これはきっと、携帯を見ろという意味だろう。案の定、新着のメッセージが一件あった。
「映画のことで相談が……放課後、図書館で待ってるね」
絵文字の無い簡素な文だが、冷たさは感じなかった。直ぐに新しい一文が届く。
「ボーッとしてないで、ちゃんと講義も聴くように! 笑」
怒られてしまった。でもそれは無理な話だ。放課後の図書館だなんて言う甘美な響きに、退屈な授業如きが勝てるはず無い。僕の頭の中では既に始まっている。シミュレーションが。つまり妄想である。哀しい。
彼女は僕より先に来ていた。僕を見つけるとにっこりと微笑む。その笑顔は反則だ。しかし、僕は彼女を見かける度に、この話をしているように思う。ちょっとクドいか。実物はいつまででも見てられるのにね。今のは流石に気持ち悪いな。彼女は口に手を遣り、シーッと僕を制する。いや、それ位は弁えている。彼女が手元の紙に何か書き付けるのを、僕はただただ見ていた。しかし、それが地図だと気付くのに、そう時間はかからなかった。今から、そこへ向かうらしい。
大学最寄りの駅を挟んで、大学と反対側にある喫茶店だ。静かな店内には、テンポの遅いジャズが流れていて、高級そうな場でよくみるような、風車みたいな換気扇みたいなアレが回っている。何処でこんなお洒落な店を見つけるのだろうか。不思議だ。新入生歓迎パーティーの女子会なるもので教えて貰ったらしい。僕もお洒落なカフェで男子会したかったです。嘘です。道中、彼女から聞いた情報によると、ここではパンケーキだかシフォンケーキだかカップケーキだかが美味しいらしい。いや、パンケーキとか明らかにパンだろ。ケーキではないだろ。とか思ったり。苺の無いケーキが最早パンなら、苺の載ったパンケーキは一体何だ!? パンケーキだ。当たり前。
未だ本題には入らない。ウェイトレスさんに中断されたくないのだろう。つまり、それほどには重大な話なのだ。心の準備をしておかねばなるまい。ヒッヒッフー、ヒッヒッフー。何が産まれるんだ。
本当に取り留めの無いことだけを話して行く。高校時代の部活の話。好きな芸能人の話。好きな食べ物の話。それに、彼女の高校の時のあだ名が「ゆめたま」だったこととか。既に「ゆめちゃん」なる人物が居たかららしい。「ゆめしゃん」と「ゆめのしん」と「ゆめたま」の三択だったとか。でも「ゆめたまは恥ずかしいから、ゆめって呼んで」って言われてしまった。これはとりとめなくないか。
そんなこんなで、僕のコーヒーと彼女の紅茶、それと二人分のケーキが運ばれてきた。可愛いウェイトレスさんだ。まぁ、僕の目の前にいる君の方が可愛いけどね。酷いな。彼氏気取り所の騒ぎじゃない。ストーカー気取りって感じだ。なにそれ只のストーカーじゃん。
僕が頼んだのは定番のブレンドコーヒーに、定番のパンケーキ。ザ・普通って感じだ。なんだか税抜き100円くらいで売ってそう。たまに200円のとかあったりね。彼女の前だからと、一口目はブラックで飲んでみるものの、やはり無理だった。風呂上がりの珈琲牛乳は最高。つまりはそういうことだ。それでも彼女は笑っていた。やったぜ。あれ? これってもしかして馬鹿にされてる?
美味しそうにもぐもぐ食べるゆめたま。頬が伸びきっている。美味しそう。なに言ってんだ。ああも美味しそうに食事しているのを見ると、やっぱり紅茶にしておけば……いや、それならメロンソーダだな。ガキか。半分程食べ進んだ所で、彼女が不意にこちらを見上げる。上目遣いって奴だ。まだ口はもぐもぐしているし。
「映画、そろそろ撮り始めようと思うの」
11月の大学祭に間に合わせるには、もうそろそろ始めなければならない。この7月はロケ地決定、8月9月の夏休みを撮影に充て、9月後半から10月いっぱいで編集を終わらせる。くらいのスケジュールでかつかつって感じだろう。うちの大学祭はミスコン・ミスターコンが有名で、人もそれなりに集まるのだ。下手な失敗は廃部の可能性もある。
「……だから」彼女は言葉を続ける。
「シナリオ……読んでみてくれない?」
これが本題か。なるほど、彼女はまだ誰かに自分のシナリオを見せた事がないのだろう。それで緊張していた……という訳だ。
ザッと流し読んだが、新大学一年生が、勉強やら、部活やら、恋やらに一生懸命頑張るような青春物語だった。うん! 大丈夫大丈夫! ってか最強のチャンスである。最強のチャンスって何だ。まぁそんな事はどうでもいい。マジ絶好。二人でロケ地探しデートすらワンチャンある。ワンチャンとは、One Chanceつまり、有意な可能性がある事を示す大学生語である。どうでもいい。取り敢えず、これがカツオ漁なら一本釣られてた位の勢いで喰いつく。
「うん……いいと思う。えっと、緩急のつけ方とか、上手いし……そう、だからロケ地とか決めた方がさ、良いよね。多分」
「そう!私もいま言おうと思ってたの。もういくつか候補はあるから、そこの下見に付いてきてくれない?お願いっ!」
いや、まさか本当にワンチャンあるとはな。
というわけで次の日から始まった、僕とゆめの夢の生活。主観的にも浮かれ過ぎだと思う。先ず最初は図書館。シナリオ上で一番最初に配置されたイベントである。ヒロインが届かない本を取ろうとして出会う二人。どこにでもあるストーリーだと思う。真新しさも、クリエイテビティもない。それでも、僕は彼女を応援したいのだ。我が大学は残念ながらレベルが低く、放課後の図書館には誰もいない。勉強熱心な生徒など誰も。
夕景の中、彼女は本棚に手を伸ばす。爪先立ちで震える足元。揺れるポニーテール。僕は背後から彼女に近づく。丁度顎の下辺りで黒い髪がピョンピョンと跳ねている。その度に、石鹸の香りが漂ってくる。我ながら変態チックだ。形容詞化するなら変態ックの方が正しいと思うのだが、如何だろうか? 現実逃避。顔が近い。体も。体温がダイレクトに伝わって来る。嘘吐いた。直接触れてはないので、インダイレクトに伝わって来る。どちらにしろ暖かい事に違いは無い。石鹸の匂いに隠された、ゆめ本来のそれも……。僕は手を伸ばす。白くて細い腕の後ろから、その星のような掌が漂う先へ。何かを掴んだ。一冊の本。多分、そうだ。手の感覚だけしかない。視界は既に眩んでいる。あまりにも狭すぎる視野は、彼女以外何も捉えられない。平衡感覚もない。意識すらも。彼女以外、何も無い。瞬間、崩落する。正常化する意識。視界が開ける。足が大地を踏んでいるのをしかと感じる。なに、単に僕の手が滑って手元の本を彼女の頭の上に落としてしまっただけだ。……最悪。
「きゃっ!いった〜い」
「あっ……その、ご、ごめん!大丈夫?」
「もう! ちゃんと気を付けてよねっ!」
ヤバい、爪先立ちで怒るの凄い可愛い。永遠に怒らせてたいくらい可愛い。駄目だコイツ。僕だった。今夜は眠れそうに無い。
次のロケ地は特に厳選する必要もなさそうなので、地元で適当に見つけた。日曜、デート日和のピーカンカン。もう今時の若者はピーカンカンなんて言わないのかな。や、僕も今時の若者なんだけどね。当然、気合いも溜まるってもんだ。次のターン、急所に攻撃が当たりそうな気がする。いや当てちゃダメだろ。
目的地はゲームセンター。学生定番のデートスポットである。ここで僕の中学時代に鍛え上げた格ゲースキルを見せつけてやるぜ。小足見てから、必殺技余裕ですから。見栄張った。当然古参にボコボコにされた。嗚呼無情。まぁでも、彼女が後ろで応援してくれたから良しとしよう。オラ、元気が漲ってきたぞ。
ふと、彼女が明後日の方向を見ていることに気付いた。どうやって彼女は明後日の方向を知ったのだろう、僕は明日の事さえ分からないのに。なんだこの凄く良いこと言えた感。
彼女の視線の先にはデートの定番、UFOキャッチャーがあった。だから、僕は彼女にこう聞くのだ。
「どうした?何か欲しいものでもあった?」
はい、ここまでテンプレ。なんの捻りもない不毛な会話。それでも、僕はこれを楽しんでいる。
「あのぬいぐるみちゃん可愛い~」
君の方が可愛い~。僕は気持ち悪いが。誰得無駄情報。無論、僕は全力でそのぬいぐるみを取りに行く。あと、やっぱり女の子の可愛いは大して可愛くない。どうにかこうにか青と緑色のデフォルメされたウミウシを捕ることが出来た。……ウミウシ!? 本当、世の中なにが流行るかわからないなぁ……。流行ってるのかどうかもわからないけどね。飛んで行った僕の野口さん……この表現も数年後には使われなくなるのだろうか。次は誰が飛んで行くのだろう。大隈重信とか? 諭吉さんとどっちが高価かで争いそう。大学的な意味で。
彼女はそのぬいぐるみに頬ずりして喜んでいる。僕も頬ずられたい。ちゃっちゃと行こう。今日のプランは、学生らしいフットワークの軽さが大事な奴だ。きっとね。
次はプリクラ。朝の女児向けアニメみたいだ。プリティでクラクラ。ふったりっで、プリクラー。何んだこのやけに魅惑的な響き。ロリコンになりそう。まーっくーすはーっ。紙面上だと分かりづらい。あれだよ、別に毎週見てるから詳しい分けじゃないから。小さい頃に見てただけだから。聞く所によると、最近のプリクラは目が大きくなったり、脚が長くなったり、色が白くなったり、Ph○t○sh○pも真っ青な補正が掛かるらしい。真っ白になるのに。っていうか、補正とかいいつつ明らかに正しくなくなってるんですが、それは。あれか、可愛いは正義って奴か。こわい。人間怖い。僕的には、補正無し現物の方がよっぽど可愛いと思います。が、まぁ多分そういう事ではないのだろう。色々なフレームやら補正度やらを慣れた手つきで変更していく彼女。前の彼氏とでも来たのだろうか。shi妬!! ……今のは嫉妬とクソッタレを掛けた高度なギャグです。
ま、それはともかく、プリクラ機(今時の若者はコレをなんと呼ぶのだろう。いや、昔の人が何て呼んでたかとか知らないけど。)の中で、合法的にひっついたり、くっついたり、ぴったりした。大体密着してた。こんな所にユートピアが。囲い込み政策最高!柔らかかったです。あ、ほら。えーっと、羊とか、ね。
「君ってUFOキャッチャー上手いんだね! びっくりしちゃった」
「高校時代は暇だったから……よくゲーセン行ってたし……」
こんな感じで、最後はファストフード店で今日は楽しかったね的会話を済ます。実に充実した一日だった。うんうん、いい調子だ。
うんうん、いい銚子だ。まだ着いてないけど。七月も終わりに近づいた今日、二人で行くのは千葉県東端の銚子市だ。学校帰りのゲームセンターで仲を深めた二人は、初めてきちんとしたデートをする。海までドライブ。そういう設定だ。だが、まぁ僕は残念ながら免許を取っていないので、公共交通機関で移動することになった。なんでわざわざ銚子なんかに……。電車に揺られ、バスに乗る。車窓はずっと緑だ。植わってるのがネギか稲か程度の差しかない。
「……」
「……」
最初の方は楽しくお喋りしていたけれど、段々会話も続かなくなってしまった。でも、その沈黙も心地よい。誰もいない孤独な沈黙と、気の置けない静寂では無音の質が違う。そう感じる。安心して喋らないでいられる空間が、ここにはあった。そもそも電車の中で騒ぐなという話ではあるのだが。
木陰と木漏れ日が断続的に現れる。目がチカチカする。このままどこかに連れて行かれそうなほど。不意に、切れ間なく続く森が開けて、同時に眩い光が差し込む。上からは白く、下からは青く……そう、海だ。太平洋である。長い長い崖と、白い灯台、そして世界の果てが見えた。と言うよりは寧ろ、それしか見えなかった。潮の香りがする。日焼け止め忘れた。
二人してポケーっと海を眺める。なぜなら砂浜じゃないから。本当、なんで銚子なんかにしたんだ。あぁ、頭空っぽになる。脳みそが太陽光で置換されてる感覚。これをカメラで、どうやったら伝えられるのだろう。
「ねぇ」
どれ位時間が経ったのだろう。5分くらいだったかもしれないし、30分くらいだったかもしれない。それくらい海に見惚れていた。彼女の声で、僕は現実に呼び戻された。どうしたのだろう。
「あのさ……お弁当作ってきたんだけど……食べる?」
「えっ……??」
一瞬。否、かなりの時間、理解出来ずにいた。脳が活動を拒否したのやもしれぬ。それほどに衝撃的だった。僕はご飯について何も考えていなかったのだとね……いや、この一文は嘘だ。本当は、彼女が指に絆創膏をしていなかったからだ。嘘だろ? 漫画だったら絶対わざとらしく五本の指全部にベタベタ貼っているのに……。
彼女が重そうな鞄から取り出したのは、2つの可愛いお弁当箱だ。水色のが僕ので、桃色のが彼女のだろう。彼女が僕の顔をのぞきこむ。早く開けろと、恐る恐る催促しているのだ。可愛い。分かった、一思いに楽にしてやるよ……なんの話だ。ぱかっと開ける。米だ。そして、ウィンナー、ブロッコリー、パプリカと肉をなんか炒めた奴……。兎に角美味しそうだ。彩り鮮やかで、なんかキラキラしている錯覚すらある。残念なのはそれを表現しきれない僕。本当に文学部なのか?
「玉子焼き……喫茶店で好きって聞いたから……」
自信無さそうに彼女は呟く。覚えていてくれたのか、僕の好物が玉子焼きだって事を。しかし実際、彼女の玉子焼きは黄色にツヤツヤと輝いていて、とても美味しそうに見えた。箸を持つ。二本の棒きれが、黄金の塊に伸びる。柔らかい感触。箸が玉子に沈むのを知覚した。直ぐに壊れてしまいそうな、崩れてしまいそうな危うさと、それでも掴み取ってしまいたい心地よさ。それは、まるで女の子のようだった。女の子を触ったことなんて無いけど。
まぁ、そんな事はどうでもいい。上腕の筋群が収縮する。肘関節が屈曲する。五指は二本の細い棒を固定し、結果として挟まれている玉子は僕の眼前にある。いい香りだ。匂いを言語化するのは非常に難しい。僕らは言語でしか意思疎通できないというのに。終に、その玉子は僕の口に辿り着いた。唇に触れる。口の中へ。甘い薫りと、卵の味が口いっぱいに広がる。嗚呼、蕩けそうだ。噛まずとも解れて、解けて、消えてしまう。僕が無言でいたからだろう。僕が咀嚼を終えたところで、彼女が覗き込んできた。女神かよ。噛んだ。びっくりした、だった。
「すごく……美味しい。こんなに美味しいの食べたことない……」
率直な感想を述べる。いや、だって海を眺めながら彼女の作ったお弁当を食べるとか、控えめに言っても幸せすぎるでしょ。彼女の顔がパァーっと綻ぶ。玉子うめぇ。
「じゃ、また今度作ってあげるね!」
そうして晴れ晴れした顔の彼女は、レシピを調べる間に入手したであろう卵蘊蓄を語り出した。素材の状態の“たまご”を“卵”と書き、調理後に“たまご”を“玉子”と書く、とか。流石ゆめたま、というと「その呼び方はメッ」なんて言って少しむくれていた。帰りの旅程も当然、電車とバスを複数回乗り継ぐ。海風に当てられた僕らは疲れ切っていた。やはり太陽は核融合からではなくて、人間からエネルギーを創出してるのではないだろうか。ないな。
車窓から沈む夕日が見える。窓際に座る彼女の横顔が、鮮烈なオレンジにとても映えていた。目を閉じたまま少し俯いたその姿勢は、憂える深窓の令嬢そのものだ。睫毛超なげぇのな。ふらり。と、影が傾く。強烈な赤い閃光に焼かれる。夕陽を遮っていた彼女の頭が動いたのだ。ふわり。鼻腔に磯の香りが充満する。彼女のあたまが、ぼくの肩に……。願わくば、このまま、家に着くまで。
平日だって、僕らは暇なわけじゃない。仮に空きコマがあったとしても、講義が週12コマしか無かったとしても、バイトに、サークルに、やる事は沢山あるのだ。というわけで、僕は映研に来ている。カメラワークの教材を眺めつつ、垂れ流されている映画を聞き流す。あー忙しーなー。大変だなー。ゆめは来ないのかなー。はっ!?つい本音が。髪の毛ボッサボサで眼鏡かけた先輩方のコアい映画談義にまるでついていけない僕は、ついつい手元の携帯端末を触ってしまうのだ。どのSNSでも大した話はない。こういう時に限って、誰もいないのだ。実に使えない奴らである。
「……ぃ、おーい、大丈夫かー」
遠くから呼ばれた気がした。意識が何処かへ飛んでいたようだが、縁起の悪い先輩の顔を見たら、一発で現世に戻ってこれた。ナイス。
「なんか顔も赤くて熱っぽいし、保健センターでも行ってくれば?」
38度ありました。熱を測った瞬間から、急に体調が悪くなるのは何故だろう。田舎から出てきた一人暮らしだと、看病してくれる人がいなくて辛いって言うのは本当だったんだなぁ……。でも家が近くてよかった。帰宅途中に倒れてたかもしれない……。覚えている中で最後の思考はそれだった。
暗転。
沈殿。
僕は浮遊している。彼女は僕に笑いかける。ここは真っ白で四角い部屋。簡素で何もない。壁に写った彼女の影は、首を絞めている。誰の? 僕の影だ。違う。形が変わる。先輩? 首を絞める手に力が籠もる。息苦しくなってきた。彼女は笑いかける。ニッコリと垂れた目尻が段々と内向きにぐるぐるぐるぐるグるぐルグルぐルぐるグるグルグルグルグル内側に巻き込んで世界が回って色彩が混ざってすべて汚い黒になる。
暗転。
浮上。
カシャカシャと音が聞こえる。ビニールが擦れる音。でも、僕は一人暮らしだ……。不審に思って目を開ける。いや、そうではないかもしれない。寝起きの頭では不審かどうかなんて判定できない筈だ。僕はただ音に反応して半ば反射的に目を開けただけなのかもしれない。うーん、実に哲学。哲学科からすごく怒られそう。うん、頭が冴えた。当然、誰もいない。眼前には天井しかない。……おなか空いたな。しかし、身体を動かそうにも、腕も足も動かない。かなり体力を使ったようだ。辛うじて首が動くだけ。そうやって体を確かめていると、ボトッと頭上から何が落ちた。首を軋ませながら、落ちたそれを確認する。タオルだ。濡れタオル。濡れタオル?誰が置いてくれたのだろう。いや、誰が置いてくれたのだろうじゃねぇよ! おかしいだろ、普通におかしい。だって僕は家に帰って来てすぐに寝たし、家には誰もいないし入れないはずだ。僕が鍵さえかけていれば。マジかよ。鍵掛けてねぇじゃん。意識朦朧としてて覚えてないけど。ってことは……? ドタドタと台所の方から足音がする。
「あ!起きたんだ!」
彼女だ。白いエプロンと黒髪ポニーテールとのコントラストが眩しい。目があああぁぁぁ目があああああぁぁぁぁあ! あ、テンション上げたら熱上がってきた。クールダウン。
「なんでうちに?住所教えてないと思うんだけど……」
「部員名簿って覚えてる?」
確か、最初に書かされた奴だ。名前と住所とが書いてあるリスト。
「もうすぐお粥が出来るから、ちゃーんと寝とくんだぞ! 」
彼女はトテトテと台所に向かう。あ、部屋を綺麗にしないと。あ、体動かないんだった。にしても、本当に体ってこんなに動かないんだな……もしかして金縛り?
「出来たよー」
良い匂いが漂い、それが姿を見せる……お粥と……これは玉子焼き?
「食欲ないと思ったから……好きな物なら食べらるかなーと思って……」
君の作った料理ってだけで食欲MAXなんだよなぁ……。なぜだろう、彼女は先ほどからモジモジしていて、中々僕に蓮華を渡してくれない。お預け? 何そのプレイ、興奮する。嘘です。嘘吐きました。嘘じゃないです。彼女は徐に蓮華を取ると、お粥の一部と玉子焼きをそれにのせ、僕に差し出した。
「あ、あーん」
……顔が赤い。夕暮れだろうか? そんなわけない。
「た、食べないの!?食べるんなら早く……食べてよ……」
居心地悪そうに擦り合わせる両の太ももが眩しい。はっ!?僕はこんな事を考える為に彼女を呼んだんじゃない。煩悩よ滅せよ!よく考えたらそもそも呼んですらなかった。混乱している。
「あーん」
大口を開けて、雛鳥のように待機する。彼女の陶器のように白くて華奢な腕が、陶器のように白くて華奢な蓮華を持って、陶器のように白くて華奢なお粥を運ぶ。三分の一は嘘。頬張る。相変わらず美味しい。いっその事、映画のストーリーを青春ものから料理ものに変えればいいんじゃないかと思うくらい美味しい。いや、映画を見てる人はこれを味わえないのか……可哀想に(笑)。約束された勝利の玉子焼きは、やはり口いっぱいに芳醇な卵の香りを拡げる。ところで、芳醇ってどういう意味だろう。結構みんな、なんとなくで使ってるよね。え? 違う? あ、そう。
口の中で解けて、舌の上で解れて、まさに輪転する勝利の玉子焼きの名に相応しい。玉子焼きが主食で、お粥が主菜なのかと錯覚してた。
「どうかな? ちゃんと美味しい?」
「ゆめちゃんのご飯食べたら、なんだか元気になった気がする……うん」
計ってみたら、本当に熱が引いていた。凄い。
「……もう、大丈夫。後片付けは僕がやっておくから……」
「無理しないで? さっきまで立てなかったんだから! 寝るまでここにいてあげるから、ね」
彼女が僕の手を取る。冷たい。僕はすぐに眠りに落ちて行った。先ほどまでのとは違う、心地よい眠りの先に……。
起床。快眠である。熱も下がっているし、手足も動く。おまけに部屋も片付いていた。申し訳ない。お詫びに何かしたいな。……映画とかどうだろうか?映研だし、適当に口実付けて誘える気がする。うん、そうしよう。誘えるかどうかは僕のコミュ力に掛かっている。頑張れ、僕。そんなこんなで一週間が経とうとしている。ロケ地もシチュエーションもトントン拍子に決まっていき、残るところは撮影だけになってしまった。早い。流石僕、よく頑張った。違う。
「いやーそろそろ準備も終わっちゃうねー」
彼女がパイプ椅子の上で伸びをする。しなやかな肢体は猫を思わせる。……うん、やっぱ夏って良いよね。薄着的な意味で。慌てて目をそらす。不審だ。不謹慎だ。不謹慎、つまり謹慎では無いのだから、謹慎処分を受けてない人はみな不謹慎だ。なにが言いたかったのか。特になにも無い。
「あ……あのさ、勉強がてらさ、映画でも見に行かない? ほ、ほら、参考にもなるしっ! 映画の!」
どう……だろうか……。あまり綺麗な流れとは言えないが、そんなに気持ちの悪い誘い方ではなかったと思いたいっていうか、信じなきゃやってらんない
よこんな世界。けっ! やさぐれた。優グレた? グレてるのに優しい! わお! 斬新! 勢いだけで押し切るスタイル。
「ほら、この前看病してくれたお礼に……どうかな?」
ドキドキする。心臓が爆発しそうだ。爆ぜろ冠状動脈! 弾けろ左心室!! バニッシュメント・ディス・心不全!!
中二病っていうより、成人病だった。よっ!大人!!
「ん……なに、見に行こうか?」
彼女は淡く頷く。
「来週の日曜日でいい?」
「うん。楽しみにしておく。」
もう、幾度も二人で出掛けているけれど、ちゃんとしたデートは今日が初めて……デート!? デートか……デートなのか? ……いや、男女が二人で行動すると言ったら、それはもうデートと呼ばずしてなんと呼ぶ? 途端に緊張してきた。錫の鍍金が施されそう。それはブリキだ、トタンじゃない。そもそも僕は鉄じゃない。鍍金するのは金属ではなく布の服。うわっ、私の防御力……低すぎ!?
戯れ言はさて置き、僕は久しぶりに洋服屋で服を買うことにした。初めてのデートだしね、おめかし大事。……しかし、いままでまともにお洒落なんてした事ないし、どんな店に行けば良いのかもわからん。デートに行くから新しく服買いたい、なんて友達には言えないしな……。ま、どうにかなるだろ。とりあえず、近所の安さが売りの量販店に行く。オシャレしたいとは思うものの、そもそもオシャレな服を売っている店には、オシャレな服じゃないと行けないというジレンマ。卵が先か、鶏が先か。オシャレをするのが先か、オシャレをするために服を買うのが先か。名言にするには長すぎた。
適当な服を引っ掛けて家を出る。大通りを、胸を張って歩く。先人は言っていた。背筋を伸ばし、自信を持って歩くことが、一番のオシャレだ、と。そう、大事なのは思い込み。プラシーボ効果。だから僕は自分に言い聞かせる。私は可愛い、私は可愛い。惜しい。ちょっと違った。
それにしても暑い。時すでに8月。クーラーの効いた部屋に籠もりたい季節である。「あちぃ」と呟きたくなる気持ちを抑え、とにかく一番近い服屋を目指す。目指しまくる。目刺捲る?内臓が露わに!……自分で言ってて腹が立ってきた。お前の内臓も引きずり出してやろうか。曲がり角を曲がると、太陽が僕の背後に移動した。眩しかったから下を向いていたが、これで上を向いて歩ける。涙がこぼれないように。あ、僕ドライアイだった。好きな防衛機制は昇華です、みたいな。ドライアイスだけに。
「うわっ涼しい」と、店に入る時つい口に出してしまった。仕方ないよね。外暑いんだもん。自分にどんな服が似合うとか分からないけど、まぁ適当に選べばいいだろ(自宅でファッション雑誌をそれなりに読み込んできたなんて、口が裂けても言えない)仮に口が裂けたとしても、そのときは痛みで何も言えないだろうが、とは使い古された文句だろうか。
それにしても、どうしてこうアパレル店員とかいう種族は馴れ馴れしく話しかけてくるのだろう。僕は初対面の人が苦手なので、わけもなく「あっ……えーと……はい……」とかいう機械になっている。つらい。服なんて買いに来るんじゃなかった。こうして現実逃避に時間と脳みそを割いている所為か、中々いい服が見つからない。言い訳はすぐ見つかるけどね。ってか、店員さん、明らかに似合わない服を持ってくるのやめて貰えませんか……? そんなにこやかな笑顔されても、僕は惑わされないよ! やっぱりこういう店って誰かと来るべきなんだな……そしてゆめちゃんに服を見繕って貰う……これじゃ本末転倒だ。
運命の日。大げさだ。しかし僕の心拍数から鑑みるに、今日を運命の日といっても差し支えはないだろう。心臓に負担かけ過ぎて突然死しそうだ。これじゃ命運の日だ。どっちかと言えばね。
待ち合わせは映画館に隣接する駅の改札をでたところ。僕はいま、そこの柱に寄っ掛かっている。この改札前の空間、なんて言う名前なんだろう。今世紀最大にどうでも良い。2時間もいたら少し愛着が湧いてきたなんていう訳では絶対にない。べ、別に楽しみにしてて待ちきれなかったって訳じゃ無いんだからね! 結局待ってるし。あ、彼女が改札を通ってやってくる。
「ごめんっ! 待った?」
おお、見事なまでのテンプレ台詞。
「いや、いま来た所」
ほら、日本語って時制に厳しくないからさ、「今」って単語に1時間や2時間くらい幅があるって可能性だって無きにしも無いじゃん? 無いのかよ。
映画は無難に、全世界興行収入1位! とか、いつも通りの宣伝文句を掲げるハリウッドの有名アクションもの。なんだかんだ面白いからね。流石聖林。スポーツ漫画の高校名にありそうだ。聖林高校。地区大会だったら確実にシード校。
「えっ……この席って……」
ここは最後列、最奥に設置された、二人がけの席。そう、いわゆるカップルシートって奴だ。
「席、此処しか予約できなくてさ……」
……大丈夫だったろうか。気持ち悪がられたりとかしたら、それこそ死ねる。
「……そっか。…………座らないの? 始まっちゃうよ?」
彼女は奥側の席に座り、通路側の空いている方をポンポンと叩く。
「そうだね。」
これでも映研には不純な動機なくして入った身だ。映画を見るときは集中して見るタイプだし、注意が他に逸れる事なんて今まで一度もなかった。それでも、身を乗り出して、目を輝かせて、ワクワクしハラハラしている様子を横目で覗き込まないわけにはいかなかった。薄暗いなか、スクリーンの仄かな明かりに照らされる、興奮した横顔を見るだけで、満たされてしまうのだから。……なんだろう。映画を見に来た、というより、映画を見る君を見に来た、という方がしっくりくる。映画自体は面白そうだし、今度は一人でじっくり“映画を見”ることにするかな。終わった後はもちろん論評会だろう。映画館のすぐ側には有名なカフェがあるし、そこで話すことにしよう、とこの後の算段を反芻したり、彼女にバレないように横顔を盗み見たり、突然の爆音(どうやら劇中で爆発シーンがあったらしい)に驚いていたら、いつのまにか2時間が過ぎていた。
予定通り、彼女とオシャレ系カフェで感想だのなんだのを言い合う。ふと思ったんだけど、オシャレじゃないカフェってあんのかな?
あの俳優のあのシーン、“間” の演技が良かった、やら、爆風に巻き込まれるシーンのカメラが良かったやら、実に映画研究会らしい真面目な会になった。意外とね。
「ところでさ……」彼女が切り出す。
「そろそろ撮影し始めた方が良いよね?」
「そう……だね、余裕を持って進めたいなら、もう始めるべきだと思う」
「…………主人公の俳優、私が選んじゃってもいい?」
…………? 主人公の俳優? 主人公? ……そうだ、そう。物語にはヒーローとヒロインが必要だ。僕は?カメラマン。じゃあ他の誰かが主人公をやるのは自明だ。言わずとも明らかだ。明白だ。そんなの言われる前から分かっていたはずだろう? なのに、どうして今更こんなに動揺している? ……動揺している? 違う。僕は……目を逸らしていたことに直面しているだけだ。相対しているだけだ。動揺ではない、これは拒絶だ。知ってはいた、知りたくなかった。考えたくなかった。思いたくなかった。頭の中に無かった。“無くしていた”。抑圧されたそれが持ち出されたのだ。僕はいま必死に逃げている、拒んでいる。
「……大丈夫。見つけ次第、連絡して。そしたら……すぐに、撮影を始めよう」
絞り出す。思想とは異なった声を。捻り出す。感情とは矛盾した言葉を。理性で感情を絞め殺す。そうでもしないと、呼吸が出来ない。窒息しそうだ。窒息死しそうだ。
「良かった!大丈夫、もう相手は見つけてあるの!」彼女の双眸が輝く。
「その……私の……彼氏なんだけど」彼女の相貌が輝く。
見ていられない、見たくない。惨状。酷たらしい殺され方だ。僕は何を期待していたのか。何故期待してしまっていたのか。彼女は、もうとっくに決めていたんじゃないか。僕のことなんて眼中にない。僕の事なんて視界にない。僕は道具だ。彼女にとって、僕は、望みを形にする、道具。
ああ、どうして僕にあんなに慈悲を掛けたのか、慈愛を注いだのか。彼女のコミュニケーションの在り方がそも、ああなのだ。誰にでも等しく、誰にでも優しい。僕はそれを、ただ特別なのだと勘違いしていただけ。僕の知る文化にその形が無かっただけ。これは不幸な事故だ。こうやって幾ら自分を説得しても、意味の無いことだなんて分かっている。理論と感情で、うまく折り合いが付かない。
……嬉しそうだ。いつもより、ずっと、ずっと。分かってしまう。分かりたくない。僕の脳がそれを結論づける、僕に理解させる。そこに、共感できてしまう。文系が故の定めか、数学大好き理系人間だったらこんな事にはならないのか。そんな事はないと知っていても、救いを求めずにはいられない。多数のもしもを。数多のifを。幾多の可能性を。あり得た未来を。ありえない現実を。
「最初の撮影って、すっっっっごく重要でしょ?」
無慈悲だ。
「だから、」
神は無慈悲だ。
「一番最初に、一番大事なシーンを撮りたいの!」
残酷だ。
「クライマックスの、」
夢はいつか醒める。
「遊園地で」
嬉しくて、楽しくて、幸せだった夢は。
「告白するシーンなんだけど」
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだいやダいやダイやだいヤだイヤダイヤダ!!
「手伝ってくれるよね?」
天使の宣告。
「うん……もちろん」
そして、僕はそれを受け入れた。
砂糖の沢山はいったフラッペも、カフェで飲むからか、濃いコーヒーの味しかしなかった。
地獄の幕開けだ。夏休み。気温が高い。湿度が高い。急上昇する不快指数。はしゃぎまわるガキ。ベタベタと気持ちの悪いカップル。そして僕。地獄絵図だ。彼女以外は。彼女は遊園地に数いる客の中でも一際輝いている。ちなみに、この地元密着型の遊園地は、僕らが地元の大学の学生だと伝えると、快く使わせてくれた。やはり、持つべきものはOBである。
「やぁ、君が例のカメラマン君かい?いつもゆめから話を聞いてるよ」
そして、さっきから僕が頑張って視界から外していた、このいけ好かないイケメンこそが、今作の主人公である。いけ好かないイケメンって……ダメだ頭が回らない。いままでみたいに上手いこと言えない……よく考えたら、いままでも別に上手いこと言えてないし、いつも通りなだけだった。
「あ……そう、ですか」
僕はこれくらいの返事しかできない。欠陥だ。強者の存在は僕に、自身の欠陥を意識させる。違う。肥大した自意識がそう感じているだけだ。負い目を感じているだけだ、引け目が有るだけだ。継ぎ接ぎだらけの、縫い目だらけの自意識過剰だ。思い出す。僕はただのいじめられっ子だった。虚構に逃げ込み、空想に閉じこもり、挙げ句、映画の華に魅せられた弱者だった。それが、何を大学に入ったから変わるとでも思ったのか。信じ込んだのか。それはどう考えても、“映画のワンシーン”でしかない。ここは現実だ。醜い現実だ。いや、醜いのは僕なのだが。
「それじゃあ撮影!お願いね!」
二人は手を組んで歩き出す。正直、手が震えて撮影どころじゃなくなってしまうかと懸念していた。人間、頑張ればなんとでもなるものだ。嘘、手ぶれ補正機能って凄い。
いちゃいちゃしているのを見せつけられる。それでも、撮らなければ、撮らなければいけない。逃げ出したい。布団にくるまっていたい。何も考えずに、永遠に。メリーゴーランドで馬が高すぎて上れない困った顔も、ジェットコースターで大声だしてはしゃぐ顔も、コーヒーカップでものすごい勢いで回転させる笑顔も、お化け屋敷で怖がる顔も、すべて彼のモノなのだ。あの空間は彼と、そして彼女のものだ。そこに僕はいない。僕は客観だ。眺めることしかできない。喉から手が出て、その指を咥えて見つめることしか。だから、ただ撮り続ける。無言で、無音で、無表情で、無心で。無垢な二人を。
「最後は観覧車ね」
僕も、乗り込むのか。あの空間に。狭い空間にカップルが二人。そして僕。首を吊りたい。どこでもいい。だれか僕を轢いてくれ。観覧車の小部屋が真空になっても良いな。早くしないと。誰か。誰か。
ゴンドラが上昇し始める。
《これは映画》
二人は無言で見つめ合う。
《これは演出》
熱い抱擁を。
《これは虚構》
頂上にさしかかる。
《これは偽物》
視線が絡み付き合う。
《これは贋作》
ゆっくりと、二人の唇が重なり合う。
《これは空想》
ぼくは克明に記録する。
《これは悪夢》
違う、ぼくはここにいない。
《これは妄想》
ここにあるのはただの“客観”。
《これは架空》
ぼくはぼくじゃない。
《これは幻覚》
記録するだけの機械。
《これは大嘘》
衣擦れの音も、交わされる粘液の音も、荒い呼吸音も、漏れ出る嬌声も、湿った空気も、甘ったるい匂いも、熱気だって、全部そう。
明日になれば、明日にさえなれば。
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小鳥のさえずりと、柔らかな陽の光で目を覚ます。まるで漫画のようだ。一人暮らしの朝は早い。
朝食はいつもコーヒーとトースト、そして玉子焼きと決めている。コーヒーの良い香りが漂ってくる。昔の僕とは違い、もうブラックコーヒーを嗜めるし、寧ろ最近はブラックばかり飲んでいる。
――繰り返します。8月7日、○○市にて、課外活動中の大学生2名が失踪した事件について――
男女失踪事件なんていう物騒なニュースをうるさく騒ぎ立てる、耳障りなテレビを消す。
席に着き、ジャズミュージックを流しながら静かに新聞を読んでいると、リンッとトースターが鳴き、パンがポップアップする。焦げ目も良い感じ。
あとは、玉子焼きができあがれば完成だ。冷蔵庫から玉子を一つ取り出し、弱火でじっくりと焼き上げる。これこそが、夢の、ゆめのたまご焼き。香ばしい薫りが漂い、僕の鼻腔を緩やかに刺激する。感じるのは、青春にも似た甘酸っぱさと、春を思わせるような穏やかさ。その薫りから連想させられる、頭が勝手に想像し始める。きっと乙女の柔肌のように蕩ける舌触りなのだろう。早く食べたい。口に入れたい。消化され、吸収され、そうして僕の一部と成る。嗚呼、この玉子焼きはどんな味がするのか。いや、僕は知っているはずだ。あの玉子焼きの味がするに違いない。だって、文字通り、君の手料理なのだから。あの日のように。いつものように。
夢野玉子。
僕の愛した貴女よ。
(了)
2016/1/24 レイアウト変更