修行風景
ティル・エックハートは困惑していた。
「水よ。其の元なる元素よ。我が声に応え動きを止めて氷の刃となれ」
彼は声を響かせて詠唱する。丁寧に、言葉一つ違えることなく。
その呪文を唱え終わるや否や、彼の手に氷の刃が生まれる――はずであった。だが上手くいかない。凍りつくはずの水は彼の手から零れ落ちた。
「ああ! 畜生!」
彼は毒付いて、自身の銀髪をかきあげた。
「我が主。これで失敗したの三十回目よ」
彼の使い魔たる風の小妖精、エアリアルが苦笑して言う。魔術師としては、上級者に相当する、上級魔術師たる彼が今更ながら水の精霊魔術の修行をしているのには訳があった。
*
その一時間ほど前。ティルが彼の使い魔と風の精霊魔術の練習をしていると、そこに彼の師匠である言霊使いの魔女がやって来たのだ。
「やあ、小鳥くん。我が愛しき弟子よ。相変わらず麗しいな」
赤銅色の髪をした魔女は言った。彼女は非常に魔女らしからぬ格好をしていた。
――魔女と言えば三角帽子に黒ローブ。手には箒。それが大多数の人が思い浮かべる魔女の姿だろう。実際の魔女達はそこまで古典的な格好をしている訳ではないが、黒で統一された装いをしていることが多い。だがティルの目の前にいる彼女は、深く胸元が開いた赤のペイズリー柄のワンピースに足のラインも露わな灰色のレギンス、といったいでたちであった。彼女の名はメリル・シェーラザード。理の王の二つ名で知られる世界有数の魔術師であった。
「何ですか、師匠」
ティルはその姿を見て、手を止めた。
「君の修行を見に来たのさ。エアリアルも、ご機嫌よう。君も相変わらず可愛いな」
「ありがとう、メリル」
エアリアルはメリルの言葉ににっこり笑って会釈する。
「修行の相手なら間に合ってますよ、師匠」
ティルは顔を上げてメリルの顔を眺めた。
「今、上級の風の精霊魔術をエアリアルと特訓していたんです」
「君は自分の得意なものの練習ばかりしているな。それでは駄目だよ」
メリルは自らの弟子に、忠告するように言う。
「言霊使いが風の精霊魔術を得意とするのは当然だ。風は神の息であり、世界の理を統べる神の精神であり、英霊であり、言霊であるのだから。君は風以外の精霊魔術をもっと勉強すべきだ。さもなければいつまでたっても特級魔導師にはなれまいよ」
そう言って彼女は呪文を唱えた。
「水よ。其の元なる元素よ。我が声に応え動きを止めて氷の刃となれ」
彼女の言葉に応え、氷の刃が彼女の手に出現する。それを力強く振り下ろしてメリルは言葉を口にする。
「氷を作り出すのは水の精霊魔術の中でも難易度の高い術だ。君もこれくらいやってみたまえ――ああ、これができるようになるまで晩飯抜きだから」
「げっ」
ティルは呻き声を上げる。それで前述の修行風景となる訳であったが……。
*
「もう無理だよ……」
ティルは息を荒げて、その場に倒れ伏した。
「諦めが早すぎるわよ。我が主」
エアリアルがその様を見て、小さく嘆息する。
「このままでは晩御飯にありつけないわ。それでもいいの?」
「こういうのにはね。何かコツがあるんだよ、きっと」
ティルは疲れた声で言った。
「僕が一人でやってても拉致があかない。誰か熟練者の教えを請うべきだ」
「メリルに聞きに行くの?」
「師匠に教えを請うなんてごめんだ! ぜったい修行と称して僕を苛めるに決まってるんだから」
「普通、弟子は師匠に教えを請うものだと思うのだけれど」
エアリアルは呆れた表情でティルを見やる。
「じゃあどうするの?」
「餅は餅屋だ。水の精霊に聞くのさ。この近くの森の奥の湖にいたと思うんだけど」
「今から行くの?」
「もちろんだとも。今から行かないと晩御飯に間に合わないだろ」
そう言ってティルは使い魔と森へ向かった。
*
言霊使いの魔女が居を構えているのは、イングランドはランカシャーの北部、湖水地方に近い所である。かの地域はかつて魔女狩りの舞台となった地域であった。ティルの師匠、メリル・シェーラザードも、この地に代々続く魔女の末裔である。見渡す限り鮮やかな緑が広がっている自然豊かな土地だ。
「はーっ、疲れた」
ティルは溜め息を吐いた。先程出発してからすでに一時間ほどが経っている。ヒースの生い茂った丘を歩き、その先の針葉樹の森を抜け――もうそろそろ目的の湖に辿り着いてもいいはずだった。
「おかしいわ。もうそろそろ着くはずなんだけど」
風の小妖精は可愛らしく首を傾げた。
「何だ、エアリアル。精霊のくせに道に迷ったのか?」
ティルは不思議に思って尋ねる。
森はエアリアルの属する種族、風の精霊シルフの領分だ。だから彼女らが森で道に迷うはずはないのだが。
「さっきから同じところをぐるぐると歩いている気がするのよ」
「君の眷属が悪戯してるんじゃないのか?」
「精霊の気配を感じないの。どういうことかしら」
「空間隔離の結界が張られてるんじゃないのか? それとも何かの幻惑魔術か……とりあえず試してみるか」
ティルは言って、呪文を唱えた。
「捻じ曲げられた理をあるべき形に戻せ」
すると、針葉樹特有の濃い緑で埋め尽くされた風景がぐにゃりと歪んで、目の前に湖が姿を現した。湖面は深い青色を湛えている。
「どういうことなんだ?」
ティルが誰に言うとでもなく呟くと、湖の中から水の精霊が現れた。
彼女の瞳は、その湖面と同じ色をしている。腰まである、長く艶やかな髪の毛は、淡い碧色をしていた。
水の精霊は、厳しい顔付きをして、ティルのほうを見据える。
「私の結界を破ったのはあなたですか?」
「そうだけど。何で君は結界なんて張ったの? 僕はこんな所で遭難したくないんだけど」
「最近、この森を荒らす者が増えたのです。木々を折ったり、ごみを捨てたりする者が。あなたは魔術師ですね」
「うん、そうだよ」
ティルは軽く頷いて、その問いに答える。
「何の目的でこの地に立ち入ったのですか」
「君に水の精霊魔術を教えてもらおうと思って」
その言葉に、水の精霊は戸惑ったような表情をする。
「あなたは私よりも強い力を持った魔術師だとお見受けします――その必要があるとも思えないのですが」
エアリアルが翅をパタパタさせながら、水の精霊の周りをくるくると飛び回る。
「水の精霊さん。我が主が得意なのは風の精霊魔術だけなの。水の精霊魔術はからっきしなのよ――悪いけど教えてやってくれない?」
エアリアルの言葉に、納得したような顔をして、水の精霊はこう言った。
「分かりました。私にはどうやらあなた達を追い払うことはできそうにありませんし。そう言えばあなたのお名前を聞いていませんでしたね。私はジェニーと言います」
「僕はティル・エックハート。こっちの風の精霊はエアリアルだ」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
お互いに軽く自己紹介を済ませると、ジェニーはティルに尋ねる。
「それで、あなたはどのような術を学びたいのですか?」
「見たほうが早いな。これだよ」
言ってティルは呪文を唱えた。
「水よ。其の元なる元素よ。我が声に応え動きを止めて氷の刃となれ」
その言葉に応えるように、ティルの手の中から水が生まれ、剣の形をとるが――やはり失敗して、剣はその形を崩した。
その様子を眺めて、ジェニーは言葉を口にする。
「もしかして、あなたは風の精霊魔術を扱うのと同じような感じで、魔力をコントロールしていませんか? 風は風の、火は火の、地は地の、水は水の扱い方があるのですよ。普通の水の精霊魔術を扱う時の感じは風を扱う時と似ています。水も風も流動するものですから。けれども、一度凝固点に達した水の扱い方というのは、実は地の精霊魔術の扱い方に似ているのですよ。あなたは地の精霊魔術を使いますか」
「多少は使えるけど――実の所あまり得意じゃないんだよ」とティル。
「本当に我が主は風一筋なのよ」
エアリアルは、ティルの言葉に、苦笑しながら同意する。
「だからですね。地の精霊魔術を扱う時のような感じでやってごらんなさい。その氷の刃の呪文を唱える前に簡単な地の精霊魔術の呪文を唱えて感じを掴むといいですよ」
ジェニーはにっこりと笑って、ティルに告げる。
「分かったよ。地の精霊よ。我に力を貸し、この大地に恵みを」
ティルは小さく呟いてから、例の氷の呪文を詠唱した。
「水よ。其の元なる元素よ。我が声に応え動きを止めて氷の刃となれ」
彼の手の中の水は徐々に凍りつき、ついには氷の剣の形を成した。
「やった!」
ティルは喜びのあまり、飛び上がって叫んだ。エアリアルも嬉しそうにティルの周りをくるくると飛び回っている。
「やりましたね」
ジェニーは出来の悪い生徒に対し、教えることに成功した教師のように微笑していた。
「ありがとう、感謝の気持ちで一杯だよ」
ティルはジェニーの手を取って、ぶんぶんと振る。
「本当にありがとう」
ジェニーは、ティルの言葉にこう返した。
「こちらこそ、感謝します。この森を豊かにする地の精霊魔術を使ってくれたでしょう?」
「攻撃系の地の精霊魔術を使ったら大迷惑じゃないか。森を荒らす連中と一緒だよ」
ティルは、顔を顰めてジェニーを見やる。
「その通りですね」
ジェニーは穏やかに笑って頷いた。
「帰ろうか、エアリアル」
ティルは辺りを飛び回っている、自らの使い魔に声を掛けて、帰るように促す。それから、ジェニーの方を振り返って、別れの挨拶をした。
「また会いに来るよ」
「あなたなら大歓迎ですよ。次に来る時は結界を外しておきます」
水の精霊は口元に笑みを湛えて、ティルとエアリアルを見送る。
そうして一人と一匹はその森を後にした。
*
石造りの家では、赤銅色の髪をした言霊使いの魔女が、弟子の帰りを待っていた。
「やあ、随分と遅かったな。我が弟子よ。例の魔術はできるようになったのか?」
メリルが聞くと、ティルは不敵に笑ってこう口にした。
「当然! 水よ。其の元なる元素よ。我が声に応え動きを止めて氷の刃となれ!」
彼の声に応え、手の中にゆっくりと氷の刃が形成される。
「どんなもんだ!」
「ふむ。さすがは私が見込んだ才能の持ち主という所か」
感心したように、メリルはティルの顔を眺める。
「約束通り、晩御飯抜きは撤回してもらいますよ」
自信たっぷりにティルは断言した。
「仕方ないな。今日の所はこれで許してやるさ」
魔女はにやりと人の悪い笑みを浮べて見せる。
「今日の所は? もしかして明日も何かあるのか?」
動揺して呻くティル。
「明日は地の魔術だ。こんなものでは済まさんよ。それとも何か? 我が愛しき弟子である所のお前はこの程度で音を上げるのか?」
意地悪く、赤銅色の髪をした魔女が言う。
「諦めなさい、我が主。明日も晩御飯が食べられるといいわね」
エアリアルはどこか達観したように呟いた。
こうして、言霊使いティル・エックハートは優れた精霊魔術師になったのであった。