2.出会い
警視庁特別収容所。
地下に眠るこの施設は、数ある凶悪犯のなかでも最も凶悪かつ放してはならぬと定めた犯罪者を収容する。 処刑すればいいとの声も間々あるが、何せこの民主主義は人ならずとも働くように出来ていた。世論がそれを許さないというが、実際の所は貴重になった力のある者が多く、それを殺すのは勿体ないからだった。その施設の最下層の再奥の部屋に彼はいるらしい。
(この事件…そんなに凶悪犯に頼るほど複雑じゃない気もするけれど…)
咬み跡まで見つかっていて、人が死んでいて。ヴァンパイア、ヴァンプドラッガー(血の中毒者)、狂信者、色々可能性は出てくる。捜査も出来るだろう。続く回廊を渡された書類を見ながら歩くルナは、思う。
(何故…上はカイン=ノアールの仮釈を許したのか…)
カツ、カツ、カツ。
リノリウムの床にヒールがこすれて音が鳴る。どこかで獣めいた人間の声がする。薄暗い廊下にもようやく目が慣れてきた頃、その声が響いた。部長―オギが目の前で止まり、こちらを振り向いた。
「ルナ=コンジョウ、着いたぞ」
彼の前にあるのは純銀製のボタンで開くスライド式扉。 作りに至ってシンプルで、特別な事は無い。ルナは無意識に首をかしげていた。
「彼は甘んじて此処に入っている。逃げはしないさ。だからシンプルなんだ」
自分の思考を読みとったかのように、オギが静かに言った。「プライドが高いんだ」
なるほど。それ程懇意な仲と言うわけね。でも一応純銀製で造ったってとこかしら。 そう心の中で呟きながらルナは黙って彼を促した。オギは答えるようにその横についたボタンを押す。
「入るよ、カイン=ノアール」
扉のように中も至ってシンプルだった。普通の収容所のように真ん中に対面ガラス、勿論窓はない。かわりに壁はみんな白い。 その部屋の主は、対面ガラスの向こう側でこれまた白いパイプイスに腰掛けて、静かに微笑んでいた。 自然と目がその人物を追っていた。
白い収容所服に身を包んだ体は程よい筋肉が覆って、室内にずっといるとは思えない精悍な体をしている。 整った顔つきだと、いっぺんで分かった。鼻筋は通り、綺麗な唇は弓形に作られている。髪は耳を隠すぐらいのシャギーカットの黒髪に軽めのウェーヴがかかっていて、実際より長いように見えた。伏せていた顔が上げられて、思わず息を呑んだ。
印象的だ、と思ったのはその目だった。
蛍光灯の灯りに反射して光のグラデーションがつく、パープル・アイ。 綺麗なのに、強い瞳だと思った。
その目がゆっくりとこちらを捕らえ、選別するように上から下へ動き、そしてまたこちらの目を捕らえた。その紫がひどくスピリチュアルで、有無をいわさぬ眼差しの強さが色によって際立っていた。
「例の新人を連れてきた。ルナ=コンジョウだ。あまり怖がらせないでくれよ、カイン。ルナ、さぁ」
オギがそう前を譲ったので必然的に前に出ざるを得なくなった。そのまま頭を下げ、挨拶をする。
「ルナ=コンジョウです。このたび貴殿の相方を勤めることになりました。以後宜しく」
言い切って顔を上げれば、カインは腿に手を組んだ状態のまま口角を綺麗に上げて微笑んだ。
「初めまして。宜しく、ルナ=コンジョウ。ルナ、と呼んで構わないか?」
かすれた様な低い第一声はゆっくりと、ルナの皮膚を撫でるように滑り降りた。夜の王の声。闇を支配する者の声。ルナはそれを感じ取ってから溜め息のように相づちを打った。
「ええ」
「そうか。ならば俺はカインで構わない。時に、オギ」
「なんだ」
カインに急に話を振られたのに驚いたのかオギが少しうわずった声で答えた。 その反応がよほど面白かったらしく、カインは右手を口元に当ててくくくっと短く笑いからかうように問いかける。
「先ほどお前は怖がらせるな、と言ったが、まるでそんな様子も見られぬレディだぞ、ルナは。見くびりすぎてはいないかい?」
「ったく…そんなことは無い。お前と対面すれば誰もが臆する。一応お願いしたまでさ」
「くくっ…そうか、その通りだな…さてルナ、」
こちらに視線を戻した彼がかけてくれ、と無言でパイプイスに手差しして促した。
とりあえず言うこと聞くに越したことは無いわ。 座るのよ、ルナ。
「ああ、俺もその方がありがたい」
「!」
口に出してもいないことに答えられ、されたことにカッとなってキッと強い眼差しで睨みつけると、カインはおや、と意外そうに首を傾げた。
「俺が能力者だということは先刻もって承知だと聞いたが。今のは高度なヴァンパイアなら出来る事だ。読まれるのは初めてか?」
「いいえ。…勝手に読まれるのが初めてなだけよカイン」
そう返せば、彼は一度驚いたように目を丸くし、それからああ、と納得したように頷いた。
「失礼した。何せ女性との会話は久方ぶりでな」
言って今一度、オギの方を見やる。オギは何を言うか、と少年のように苦笑いしていた。 それを片目で見やり、ルナは自身を落ち着かせる為のため息をつき、再びカインに向き直った。
「そう。これからいる時間の方が長いのだから、そこら辺の分別はつけるようお願いするわ。意識をずっとシャットアウトするのって疲れるの。分かるでしょう?」
「努力しようレディ」
そう言って妖艶な口元に笑みを浮かべる。なるほど、これでは男も女もイチコロだ。 さぞ食糧には事欠かなかっただろう。カインはその場で脚を組み直し、改まった顔でこちらを見た。
「ルナ。俺と一緒にいると言う意味が今一度分かっていないようだが、とどのつまりは、俺と暮らす、ということだぞ」
「…何よ変な事するのはそっちでしょ」
「お望みなら喜んで」
「結構です!」
「腕はなまってはいないつもりだが」
「その前にアナタの心臓ぶち抜いてやる」
「…なかなかどうして手厳しいな」
かすれるような低い声でくっくっと笑う。まるで夜風が草木にこすれるように。さりげないその事に、背中が泡立つのが分かった。
「ではルナ、これだけは俺から願い出たい」
改めて見るその眼差しは、なんというかセクシーだ。アメジストが輝いている瞳。普通の女ならば、見ていられるなら永久の眠りすら赦せるかもしれない。
「な、に」
「俺の食糧の事、さ」
そういってカインが笑みを刻んだまま対面ガラスにツツー…と人差し指を這わせた。
「Blood。血。生き物の象徴、生命の源。禁断の味。相方に選ばれた君は、それを俺にくれる義務がある。何、普段は堪えるさ、空腹はある程度我慢出来る。だが、どうしてもの時…」
ダアン!!
耳をつんざくばかりに響いた音は、カインが両手をガラスに叩きつけた音だ。手錠がガシャアン!と痛い音をたてた。 カインはそのままガラスにすがるように、音を通す穴の空いた通話口に口を近づけた。 狂気も官能も孕んだその声が室内に響き渡り、あのアメシストの眼差しが飢えた獣の目を光らせる。
「それが、欲しい」
そして、黙ってこちらを見据えた。
試されているようだった。目の前の瞳はただ静かに燃えていた。寄せ付けることはしない、お前が寄って来い、と言わんばかりに。口の中に溜まっていたツバを呑み込む。視線を逸らしてはダメだ。そんな気がした。考えながら、ゆっくりと口を開く。
「………良いわ」
瞬間、彼が目を大きく見開いて、時が止まったように言葉を失っていた。
「…………良いと言ったのよ。とれるもんならね」
もう一度言ってみたら、カインは今度こそ口角を上げ、綺麗な弓状に作り上げて優美に微笑んだ。 ガラスに打ち付けていた両手を、ジャリ…という生ぬるい手錠の鎖の音と共に下ろす。そしてこちらにその紫煙の瞳をゆっくりと向けた。
「……強気な女は嫌いじゃない」
「そう」
貴方の趣味なんて知ったこっちゃありませんけどね。
聞こえるように心ではっきりと呟いてみたら、うまく聞きとったのか否か、彼は至極楽しそうに声を上げて笑った。
「やはり、手厳しい」
「優しくなったつもりはないもの」
「はははっ、そこがまた燃えるな」
「消してあげるわよ」
「ふっ……期待している」
バチバチと二人の視線の間に見えない火花が散った後―やがて場を見計らった様にオギの声が後から掛かった。思わず振り返ると、オギはパンパンと軽く手を叩き、そっけない表情のままサラリと次の宣告を告げた。
「2人が意思相通出来た所早速で申し訳ないが、本日よりカインの仮釈が決まっている」
時の声がさらに残酷めいてルナの耳に響き渡る。今の自分はとても人に見せられる顔をしていないだろうと頭で考えていても止められなかった。
「はっ? 何ソレ、聞いてませんよ!」
真っ先にその事について抗議をすれば、オギはああ、言ってないなと今更の様にしれっと答えた。
「言ったら断られるだろうと思ってな。すまんなルナ=コンジョウ」
ぽりぽりと頭をかく。畜生、計算づくか。そのダンディな顔に騙された。否ダンディはこの際関係ないっての。ルナが呆けているその間に彼はさっさと手錠の鍵を手にし、カインの部屋に移っていた。
あわてて自分も後を追う。
「カイン=ノアール、君は仮釈される身とはいえ、事実上はまだ罪人だ。だからそれ故の条件も多いが…堪えてくれるな」
カインの手錠をはずしながら、オギが彼をまるで父親が息子を諭すように問いかけている。カインは余裕の笑みでオギのすることを見ながら笑った。
「分かっているさ、オギ。案ずるな、俺は昔から堪えてばかりだ。釈放の身になれるならやってやるさ。」
「耐えるのが得意なら殺人なんか犯さなきゃいいのよ」
仕方なしにオギの後について彼の部屋に入った途端にルナは悪態をついた。カインが恐い恐い、というジャスチャーで悪戯っぽく笑う。
「おお、恐い。ちょっと寝床が欲しかっただけさ、眠るためのな。それ以上は大人の事情だ…」
ヒミツ、と言う代わりにそして人差し指を唇に当てるカインに、老人の事情の間違いじゃないの、といいたかったが、読まれるのもシャクなので止めておいた。
それにしてもカインは近くで見るとほんと長身だ。頭2つくらい違う。立ち上がったその姿は闇夜の中を駆け回れる狼に似て精悍だ。ヴァンパイア、って皆こうなのかしら。手錠が掛かっていた手首をさすりながら、彼はこちらに瞳を向けてニッコリと微笑んだ。
「さあいこうか、相棒」
◇ ◇ ◇
.
車は自分の愛車で許可が出た。カインは一応秘密事項なのでうかつに外には出せないらしい。別に許可、というかこの身がいればいいという、何と変な条件つきだった。まあ監視されるよりはありがたいことだ。カインはあれから白のYシャツにスキニージーンズというラフな格好に着替え、こちらに似合うか? と聞いていたのでああ似合うわと適度な返事を返したら、「その内本気でそう言わせる」と豪語された。何の宣言ですか、もう。
「一刻も早い事件解決を期待している」
カインを乗せ、車のドアをバンッと音を立てて閉めた後に、オギが窓の向こうから真摯に訴えた。
「努力、最善を尽くします」
言って営業向けの笑顔を向ける。オギはフッと固めていた表情を崩して見せた。
「カインの食糧は君か彼自身が此処に来た時に血液貯蔵室に言ってくれれば用意しよう。送迎は基本君だが、ダメなようなら口の堅い者に向かわせよう。他に何かあったら遠慮なく申し出てくれればいい」
「感謝します、ミスター」
「構わないよ。この事件の決定権は基本私にある。……効力がいつまでかは不明だがね」
そう言って彼は首をすくめて苦笑して見せた。彼は彼で苦労しているのだな、と察してそこは黙って微笑んでおく。そのまま頭を下げて、アクセルを踏み、車を出発させた。次第に夜の街並みが次々に流れ、遠くなっていく。愛用の車はどんどん車の少ない道路をすり抜けて流れるようだ。その調子の良さに惚れ惚れしていると、車に乗ってからしばらく黙っていたカインが突然こちらを呼んだ。ライトに煌々と照らし出される街並みを眺めた視線そのままに、彼はルナ、と呟いた。だから何? と返したら、彼はふっと息を吐いた。溜め息にも似たその吐息の音に何故か身体がぞくりとする。ヴァンパイアの力って知らず自分も受けているのかもしれない。車に乗った時の脚を組み、両手を腿に投げ出した状態のまま、カインが何気なく口を開く。
「まずは礼を言おう」
「何が」
「俺の世話を引き受けてくれた事だ」
「上官の命令とあれば、私は逆らえないもの」
「お前もオギのように縛られているクチか」
声が途端に不機嫌そうにトーンを変える。
「お前言わないで。人間はそうなのよ。長いものには巻かれるの。警察ではそれが階級になるのよ」
嘆かわしいと言わんばかりに返されたので思わずムッとなって返す。それでもカインには納得出来かねない様で、よく分からん、と言ってそのまま口を閉じてしまった。それからしばらくは車のカアアア…という騒音だけが車内に響いているだけだった。そりゃあ自分だってわざわざ好き好んでヴァンパイアと暮らすわけじゃない。あの上官は確かに腹立つけれど、性根はそれなりにいい。うん、いい、と信じたい。今更だが、裏切る訳にもいかないし。
「命令とはいえ」
眠ってしまったかと思うほどに長い時間の後、突然ふと思い出した様にカインがまた口を開く。
「男を部屋に上げる勇気には感動するな」
「………ほっといてよ。上官命令だって言ってんでしょ」
「涙が出そうだ」
「嘘つき」
「男はいないのか? 恋人は?」
「いない。女子のプライヴェートにつっ込みすぎよ」
「今まで付き合った経験は?」
「あるけど………言いたくない。ほっといてったら」
「悪かった」
「………うそつき」
これからがすごく心配になってきた。