24.君に似たあの人の記憶
教誨の外に出て、気がつけばもう夜だった。それはすべてを呑みこむ闇の色だった。カインは意味のない呼吸を一つ、一つと繰り返した。煮えくりかえりそうなマグマのような感情は何とか押しこめている。彼女はそれを望まないのだから。
(堪えるべきだ…)
少なくとも、今は。
彼女に触れてみろ。彼女の声に耳を傾けてみろ。彼女を視界に入れて穢してみろ。殺してころして殺して殺してずたずたに切り刻んで苛んでやる。
「カイン」
ルナがおそるおそるカインを呼ぶ。その背中が何か怒りに満ちた空気をその身体に押さえつけているような気がしていた。案の定、答えはかえって来ない。車に乗り込んでから彼はずっとなにかこんな風に黙り込んだまま考えている。
「あの質問は意味があってのこと?昔の教誨の建設月なんて…たしか5月」
「意味?」
カインは吐き捨てるようにその単語をオウム返しした。くるりとこちらを振り向く、その瞳は己を自嘲しているかのように見える。
「ルナ、貴女はまだ気がつかないのか? そんな訳がない」
「カイン…」
「ルナ、あいつに会った事があるな」
「あいつ…?」
「思い出せ、ルナ。…いや」
ふっと強張っていた表情が溶ける。そしてあさっての方向を向くなり、彼はひとりごとのように呟くのだった。
「じきに会えるのだから、もういいとしよう。行くぞ」
エンジンが狂ったように始動し始める。夜の教誨にはにおおよそ似つかわしくないその轟音を響かせ、車は走りだす。
◇ ◇ ◇
夜の帳が下り始めた都会の街並みを、彼はなじみの場所から見下ろしていた。暗い部屋頼りない灯り。明るい日中でもくらい真夜中でもそうしているのは、もう習慣であった。彼は深く皺の刻まれた顔に疲れを見せ、うなだれた。そのまま深くため息をつく。
とー
「君はホントため息が多いねえ」
その場に誰もいない部屋の中の一角から、突如明るく朗らかな声が響き渡った。彼はーオギはそれでもその方向を振り返るような愚かな真似はしなかった。そのままの姿勢で背筋を伸ばし、聴く体制を取った。もはや瞳には何の感情も映してはいない。
「そんなに固くなるなよ、オギ」
彼にそう見えたのならそうなのだろう、とオギは思った。彼は賢い。彼は鋭い。彼は聡い。こうして臆しないよう、表情を固めているのが精いっぱいだったから、そうなのだろう。オギの横に並んだ影はそして小さく笑った。
「二人は確信に近付いているね」
「そのようです」
影はー彼は更に軽快に笑い声をあげた。
「ふふ、あいつだ、これはあいつの仕業には違いないのさー分かるだろう? 分かっていただろうオギ? ルナに任せる前から、君は分かっていたんだ。あいつはカインが憎いからね。殺したいほど憎いからね。だからカインを出したんだ。エサは放りだしてうろつかせれば、必ず魚は喰いつく」
そう言って、クスクスと笑う。まるで子供の様な高い声、純粋な声で笑う。自分よりはるかに上を行くこの横の人物は、再び口を開いた。
「ルナは丁度良い人選だったね。ルナはーアルテミスにそっくりだ。強い眼差し。柔らかな髪。ねえオギ、あの子はホントにそっくりだ。カインが死ぬほど愛して手に入れられなかった、あいつが喉から手が出るほど欲しかったあの愛らしい子に」
「ヴァンパイアに噛まれたのではなかったでしたっけ」
「うん? そうなんだけどね、あの子は嫌いだったんだ。異種がまだ認知される前の話。異種に恋人を殺されたあの子は死ぬほど憎んでいた。だから通り魔に襲われた時、彼女は助かりはしても生きながらえはしなかった。あの子は言ったよ「あの人を殺した化け物になりたくない」
オギは息を吸い―吐き出した。
「とどめを刺したのは、カインなのでしょうね」
彼はこちらに視線を向けたようだった。影がふいと動き、こちらを見つめる気配がする。しばらくそうした後、どうやら何がツボだったのか、大きな声でアハハハッ! と無邪気に笑い出した。オギはその様子に怪訝そうに眉をひそめた。その人は甲高い声で笑い続けている。いくらこの部屋が米かに人が通り過ぎる事が少ないとはいえ、この人は見つかってはいけないのに…ようやくその笑いをこらえた所で、その人がかすれた声で話出す。
「っは…それが? それがどうしたの? カインはアイツが吸血鬼化させていた彼女を心臓を突き刺して殺した。本能を堪えられなかったカインは心臓を取り出し、穴の空いた臓器から血を啜った。おかげで彼女は死に、あいつは望みを叶えられぬままカインを憎む。カインはその罪悪に今も苛まれている…」
堪え切れなかったのか、そのまま声をあげて笑いだす。オギはその笑い声を無表情のままに聞いていた。嗚呼狂っている、この人は狂っている。無邪気な子供の様に、純粋に狂っている。そのまま笑い転げた後、近くにあった椅子に転がるように座り、こちらを見てにっこりしたようだった。
「死人のくせにさぁ、あいつらはまるで人間のようだよねぇ! 無邪気に女を取りあって、女はいなくなって死んだ。互いを失うまであいつらは気がつかない。可愛いアルテミスを、僕がその前に彼女を虫の息にして路地裏に放置した事も、僕が裏で糸を引いた事を、僕がすべての原因だって事をさ!」
「…お好きなように」
静かにオギは答えた。そのまま笑い続けるその人をよそに、オギは静かにその声を静かに聴いている。その人が見つめるのは、その瞳に映るのは、一体なんなのかーオギは考える事を止めた。
この世界は狂っている。ずっとずっと、狂っている―
◇ ◇ ◇
車の騒音にまぎれてかすかにカインの思念が伝わってくる。不思議だ。いつもなら意識しないとこちらには聞こえてこないのだ。それほどに彼の中には湧き上がる感情の波が大きいのだろう。しばらくそのままかれに運転させるがままにしておいた。その間に彼に言われた事を反芻し、頭の中で理解しようと噛み砕いてみる。
「…宝石、緑…その意味を今ずっと考えていたけれど」
「おそらく、貴女の思う通りだ」
「え?」
不意を突かれて思わず外を眺めていた顔をカインに向けた。カインはと言えば、無表情のままハンドルを回し続けている。その表情はいつもより酷く硬い。もとより人間ではない彼の表情、それがないのは恐ろしいくらいの寒気を感じた。
「…宝石は古来より人間の歴史に関わってきた。古き書物にも、神への聖書にも。その色が身体を癒すと信じ、その光に魅了され、人はそして罪を犯す事もあった」
「…」
「そのうちで緑は…二面性。子供。道化の色。でも…」
「見た目はそうなんだ。子供で、二面性がある。まるでうまい役者の様に綺麗に天使の皮をかぶるんだ。俺は…そいつにある人間を殺させてしまった」
「ある人間?」
そう問いかけたら、間の空気にほんの少しの躊躇いが生じた。苦虫をつぶしたような顔をし、それから彼はそのまま唇をかみしめて首をぶんぶんと二回横に振って、口を開く。
「その人は、人間で、…俺と、彼が愛した人だった…一方的だったけどね。名をアルテミス。…ルナ…君によく似た人だった…」
切なそうに、笑う。その笑顔があまりにも切なくて、胸がちくりと痛んだ。
「彼女はある日暴漢に襲われ瀕死の重傷を負った。その暴漢は彼…彼女をヴァンパイアにさせたかったと、彼は言っていたよ。彼女は人間でいたかった。彼女は俺たちが焦がれる前に、人間の婚約者がいて…その人も暴漢に殺されたと言っていた。おそらくそれも彼だったのだろう。『死にたくない、でも化け物はもっと嫌』…だから、俺は…」
何かをためらうカインは、ハンドルを回しながらしばらく口をつぐんだ。それを見守る。
「彼女を、殺した…欲におぼれて血を飲んだ…それが俺の罪だ」
「…」
ぎり、とハンドルを握りしめた音が、妙に耳に残る。眉をひそめて、つらそうな顔をする彼の表情が痛々しかった。しかしそれを責める事は出来ない。それは彼の本能であり、一度タガが外れれば抑えの利かない内なる獣である。もしその時彼が大量の血を間の当たりにしたのであれば考えられなくない。本能が叫んだだろう。愛した人の血ならば、尚更。
「彼は…彼女を殺した俺を酷く憎んだ。歪んだ愛。曲がりくねった思慕。それは一気に俺に向けられた」
(僕のかわいいアルテミスを殺したんだ。君を何倍も何十倍も何億倍も憎悪して殺してやる。せっかく邪魔なネズミを消して、僕だけのアルテミスになっているはずだったのに…殺す殺す殺す何十億年かけて逃げても、何十兆年かけて追いかけてやる。カイン…お前は生粋の殺人者だよ…)
「…っ!!」
不意に入ってきた予想外の意識に思わず身をすくませる。なんだ、これ。ものすごい殺意のこもった意識。その様子を横目でちらりと見やったカインはすまなそうに苦笑してハンドルを離した片手で頭を撫でてくる。ひんやりとした細い手が優しく頭を撫でてくれるたびに心が静まってくる。
「…驚いたな…すまない…あれほどの殺意は結構意識に残るから」
「あれが…」
「これから、会いにいく…気がつかなかった俺も俺だ。あの教誨で被害者の瞳を見るまで俺はあいつの事を思い出さなかった。…会うのは600年ぶり、か…警察に捕まった後はずっと幽閉生活だったしな」
逃げて、逃げて、逃げて。
俺はずっとあいつから逃げて、殺した彼女から逃げて。
そしてまた巡りあった。
あの人に似た彼女に。
責められている気がした。
そう思いながら、俺は同時に焦がれ、欲した。
青白く輝く、手の届かない月を。