19.悪魔の色
「悪魔の…色」
ぽたん、と。
水滴が落ちたのは、何の音だったのか分からないくらいに、一瞬にして場が静寂に満ちた。カインの瞳が焦燥のような驚愕のような、なんとも言えない眼差しをしている。その瞳は固まってしまったかのようにこちらを見つめている。
「勘違いは、しないで欲しい。根本的には、緑とは美しい色なんだ。青春・快楽・歓喜・愛。初夏の色でもあるこの色は青春の色、恋の色だ。でも季節が終わると共に緑は紅く、茶色くなり、枯れはてる。長続きはしない変動の色と考えられていた。その二面性が断罪の色・罪の色・悪魔の色という悪しき意味を生んだ」
「でも、少なからず犯人はその意味で取ってほしい雰囲気だと思うわ。
私達の追う悪魔さんは」
腕を組んで、再度絵の中の女性を見上げる。白い骸骨に連れ去られることに怯える顔ー死に怯える顔。頬には赤く染まった-赤?
「カイン! あの女性の頬!」
思わず自分が指を指した先を追うカインの瞳がそれをおって怒りで赤く色づいていくのが目に見えて分かった。ルナ自身も携帯のカメラズーム機能追うがかろうじて読めるくらいだ。
『最後の生贄は祭壇の供物の手に。もう君は僕のもの』
「…ッ…最後の生贄は祭壇の供物の手に?…愚弄しおって!」
ギリッ…
カインが犬歯を食いしばる音が聞こえ、やがて小さな破裂音がそこから赤い雫を零していく。
「カイン…」
「平気だ。…祭壇…礼拝堂へ戻ろう」
ゆっくりと差し伸べられた手をそっと握る。壊れ物のようにそっと。歩きながらカインがこちらに届くか届かないかの小さな声で呟くのが聞こえた。
「……る」
「え……?」
歩みは止めずに、カインがこちらを真面目な表情で一瞥し、直ぐ戻した。
「……護る」
つかつかと歩く中でそれだけがかろうじて聞こえた。
「カイン?」
「何も無い、祭壇へ急ごう」
その瞳から伺える表情は、一瞬にしてそこから消え去っていた。礼拝堂に近づくにつれ、なにやらにぎやかな声がこだましてくるのが耳に届いてきていた。
「あら……」
普段静かであろうそこは鑑識の人間などで大変な賑わいを見せていた。あれから調べに入ったのだろう。教誨だけにまあよく響く事。部屋の端では先ほどの老司祭が右往左往してオロオロと落ち着かない。唇が神句を唱えているようだった。
「もう調べはあらかたついたみたい…ね」
「ああ。…おい」
近くを通りかかった同業者に声をかける。冷たいような抑揚のないカインの声に今にも飛び上がらんばかりに反応した男が振り返ってこちらを見た。
「被害者の所持品などは」
「あ…は、はい。被害者自身の所持品は教誨の外にて発見されています…お持ちしましょうか?」
「手に持っていたものはない?」
今度はルナがたずねると、彼は表情を若干弛緩させ、ああ、と答えて言った。
「おそらく犯人が持たせたのでしょうが…タロットカードとオルゴールが1つ…オルゴールは15×15cmのよくある市販品です」
手元の調書をめくりながら、彼。
「見せろ」
「え?」
「現物を早く見せろ!」
今度こそ若い彼はその凄みにヒッと引きつった声を上げた。カイン、と肩に諭すように触れ、ルナも青年に瞳を向けて言うように促す。びくびくしながら彼は一時姿を消し、やがて手にビニール袋を二つ抱えて持ってきた。
「こ、これが被害者の手に握られていた遺留品、です」
「タロットは…『月』、ね。オルゴールの中、は?」
手回し式の音源の隣りには小物が入るスペースがあるがそこには何も無い。
バシッ!
その瞬間、カインがものすごい勢いでルナの腕を掴んで止めた。驚いたルナはなすがままに彼にオルゴールを手渡す。やがて、地獄の番犬のうなり声にも似た低い声がおい、と囁いた。
「曲名は、なんだ」
青年は今にも死にそうな顔をして、こちらにも聞き届くくらいの声で答えて言った。
「お、オルゴールの曲名は『黒い瞳』、です。ロシア民謡の」
手を捕まれたまま視線のみをカインが凝視する箇所に移す。彼の持つ手のオルゴール、下部の隅の方に小さな血痕、のような文字が羅列していた。
〝IT'S THE LAST YOU RUNA〟
『最後は君だよ、ルナ』
ブワッッッッッ!!!!
その瞬間礼拝堂の空気が一瞬にして凍りついたのがわかった。
「うぁ…!」
「ぐが!…」
あっという間に立っていた人間がバタバタと地面に倒れこんでいく。
これは! ビリビリと皮膚が痛みを覚える感覚に顔をしかめ、ルナは隣りを見た。
「っ! …カイ…ン…っ! ダメ! 」
カインの殺気にも似た、怒り。怒気だ。まさかこれ程とは。あまつさえ能力者であるルナ自身、尋常ではない空気に頭が壊れそうになる。カインが、これ以上に無いくらいの怒りに満ちている。
(このままじゃ…ここに居る全員殺しかねない…)
意識の隅で冷静に考えてはいても、自分自身はすごく焦燥にかられていた。ヤバイのは痛いほど分かっている。カインのアメシストの瞳に赤みが混じっている。
あれはすごくマズイ。感情が高ぶった時に現われる兆候だが、その赤はいつもより暗い色をしている。動け動け。そんな自分の意思に反して、なかなか身体の方が上手く動いてくれない。
「くっ…!」
冷静な意識がそうしろと訴えていた。割れそうな程痛い頭を必死に堪えて、怒りに身を任せかけているカインの腕を引く。それでもココではマズイ。ココでは。グイ、と掴む腕に力を込める。
『離せ、ルナ』
ゾワッ!
余りにも普段と違いすぎるその声に身が震えた。
それでもその声を無視して、大急ぎで先程の告解室へと身体を滑り込ませた。
これでしばらくすれば礼拝堂の人間は動けるようになるだろう。今一度、はぁ、と息をついてステンドグラスを見上げる。
何かその骸骨が今はやけにリアルだ。ここも後で鑑識呼ばなきゃな。冷静にどこかで考えるのは最早職業病か。ガチャン、鍵を掛け、キョロキョロと辺りを見渡す。何も無い、畜生、流石にステンドグラスを叩き割るわけにもいかない。
ふと手元のイスに目をやる。細かな細工の金属製のそれは、背もたれの棒部分が尖っていてちょうど良さそうだ。即座に左腕を捲り上げ、そこに当てて力いっぱい引いた。
ザシュッ!!!
「ぐっ…」
パタタタ…拍子に血が冷たい地面に飛び散る。ふい、とこちらを振り向く気配がした。痛みを必死に堪え、カインに向き直る。彼の目が驚愕で見開いているのが分かった。赤みはまだ残っている。理性は僅かにでもあるのだろうか。判断は出来ない。考える間も与えず、室内にあっという間に血の匂いが充満していく。冷や汗が流れ出してくるのももう構えない。彼をただしっかりと見据えた。
「飲んで」
だんだん体温が下がってくるのが分かる。ちょっと深くやりすぎたか。心の中で若干苦笑してみる。まあなんとかなるだろう。
これしか思いつかなかった自分が情けないけど、今はそれしかないと思ってしまった。怒れる異種に言葉など無意味な事を、自分は良く知っていたから。狂っていく友人達、異種の殺人者。何度もそれを見てきた。だからこそ、今はただ本能に任せるしかないと思ったのだ。自分の血につられてカインが静かに歩み寄ってくる。
瞬間、ふっと気が抜けてガクン、とその場に足から崩れ落ちてしまう。
(ああ、でも…)
虚ろな中の冷静な意識がぼんやりと考える。
(自分が死んだらこの目の前の怪物は独りになってしまう)
カインが腕を取り、身をかがめてくる。
(この寂しい生き物は、1人になってしまう)
それだけが、怖い。そして傷口に犬歯が当たった。
ブツリ。
ルナの意識は、皮膚の破裂音と共に途切れた。