16.すれ違い
重苦しい廊下を、規則正しい靴音が伸びる様に反響した後に重苦しい扉の音が響いた。
「嗚呼カイン、全く…何て顔をしているんだ」
苦笑いのような声が上から降り注ぐと、座ったまま壁にもたれ、俯いたままのカインを見下ろす。
コツン、とオギの靴が少し湿り気を帯びた床を蹴りあげる。カインはうつろな眼差しでその方向を見上げた。
「オギ…」
非常灯の青白いランプがオギを背後から照らし出していた。彼の肌は普通の妙齢の人間に比べ、自分に近いくらい白いのだと今更ながらに思った。幽玄な雰囲気は彼独特の物だ。これも一つの人間の哀しいくらいの美しさだとカインは思っていた。歳を刻み、生を生きる、人間の業と言うべき哀しい美しさが彼にはあった。オギはその光の中、ただ穏やかに苦笑した。
「レディは大切に扱い給え」
「…見ていたのか」
「君の声が聞こえたので、此処へやって来てみた。同時に飛び出していく泣きじゃくった彼女を見つけた。それだけだ」
飄々とぬかしてくれる。涼しげな顔を見つめ、カインは唇をかみ締めた。
「…随分と、気に入ったようだね」
ややして切なげな眼差しをもってオギが語りかけてくる。同情にも似たそれに無性に腹が立って仕方ないが、彼を殺す理由などないから抹消は出来なかった。興奮状態で犬歯が異常に伸びきってしまっている。堪えに堪えて、投げやりな返答が口から零れ出た。
「だから…なんだ」
「彼女もそうだと思うが」
「だからっ…何だと言っている!」
ブチィ!
堪えてかみ締めていた唇が叫びと共に切れ、血を滴らせた。ポタポタと地面に滴る己の血液に視線を向けたまま、カインは狗のように呻いてから言った。
「彼女の…ルナの負担を減らしたかっただけだ。何日もろくに眠らない、ともすればまともに食べない! どんなに自分が気絶しかけても気にかけるのは犯人逮捕のことだけだ。あれは他人のために自らの肉体を犠牲にする…」
「それは彼女が持つ正義だよ。彼女はまっすぐだ、自分の事も端に置くくらい、悪を憎む」
ダアンッッッ!!
怒りに任せてカインが叩いたデスクが真っ二つに割れた。一間置いて、荒々しく削り取られた拳の皮膚から血が流れていく。うつむいた彼の表情は影って分からない。泣いている様だ、とオギは思った。
「……俺には耐えられない…俺にはっ」
しぼり出すように囁かれた怒りの声が、まるで地獄から響いてくるようだった。独り言のように、カインが呟く。
「ルナが犠牲になるのは嫌だ…その心が引き裂かれて粉々になるのが嫌だ…何故そこまでして人間を救おうとする? 人は醜い。人は愚かだ。人は…」
「カイン」
戸口の壁に寄りかかったまま、オギは諭すように語り掛けた。
「そんな人間を愛したのも、また君だよ」
その途端に崩れ落ちた身体。まるで子どものようにうなだれてしまった、人間ではない彼。嗚咽が聞こえないから、きっと泣いてはいないのだろう。彼は誇り高いから。
それでも。
(随分と…変わったものだ…)
そんな様子にオギは静かに目を丸くして見つめていた。まるで人間のように、感情をむき出しにする事などこれまでの彼には無かった。
(…良い兆候と取るべきなのだろうか)
あるいは、逆か。
「カイン」
壁から体重を預けていた身体を離して、泣きじゃくる子をあやすように優しく彼の名前を呼んだ。俯いた顔は相変わらず地面を向いていて表情が読めない。沈黙が彼の感情の気配を何とか浮かび上がらせていた。あまりに弱々しい、それ。
「彼女は同時に能力者。ほんの少し前まで、能力者は異種族たちのいい餌扱いだった。事件には必ず能力者が駆り出され、犯人をおびき出す為の囮にされた。それが嫌で彼女は強くなろうとがむしゃらにもがいていた。能力者であると言う事はいい事ばかりではない。それをコンプレックスとして抱える者も少なくない」
「…だから…あの時」
「まあ他にも原因はあるような気もするがね。そこらへんは君が分かるんじゃないのか?」
「俺は人ではない…人の感情なぞ」
「彼女の感情くらいは分かるだろう?」
お前の唯一の相棒だもの、とニッコリと笑いかける老齢の男は、やがて面白そうにこう言った。
「さ、血を止めろカイン。私の血なぞ貰いたくはないだろう?」
勿論私もあげたくはないがね。投げかけられた言葉にカインは弱々しく笑んだ。
◇ ◇ ◇
「おい」
「……」
「おいうぜぇよバカ女」
「バカとは何よ!」
思わず反応してから彼女はハッとした。そのうちにきまずそうになって顔を背ける。さっきからそればっかりだ。レイはもう何度目かになるため息をついた。外は今朝から雨が降り、どうやら1日じゅう降りそうだぁ…とぼやいていた所を突然彼女は扉を超のつくほどの音量で開け放って入ってきたのだった。
手を使わずに。
能力者は感情が不安定になりやすい分コントロールも倍にして訓練する。そうでなければ薬で抑えるほど、その抑制が難しい。ルナはその難しいの上位クラスだったから、よく覚えていた。薬は嫌だとごねて、コントロール訓練を毎日厳しくやっている。
その彼女が先程まで怒りに任せて…おそらくだが扉を開け放った。相当なスネ方をしている…とレイは思ったので、ただ黙って鎮静効果のある薬を混ぜた紅茶を手渡した。多分バレるがこっちは人命を揺るがしかねない。コツコツ、とペンでデスクを叩きながら、向かいのソファに座りテーブルの一点ばかりを見つめる彼女に悪態をつく。当然だ時間の無駄め。
「そのうぜぇ空気何とかしろよぉルナ。皆腐らす気か」
「うっさいジジィ黙ってろ」
あさっての方向を見ながら悪態返しをしてくる彼女にチッ、と舌打ちを返す。悪態が返せるなら自制心はあろうからとりあえず物や人をぶっ壊す気はないらしい。ここまで情緒不安定な彼女もしかし珍しかった。何が、いや誰が。頬杖をついたまましばし考えて、彼女に向けて言い放つ。
「……男とケンカでもしたかぁ」
「っ…!」
ビクッと明らかな動揺を見せ、なおかつ手に持っていたティーカップをそのまままっさかさまに落とした。ガチャンと陶器が割れて床に液体が広がっていく。こんなに動揺した女をそう見逃そうはずもない。レイは目を丸くした。
(マジかぁ…)
見た目も良くて器量もそこそこ、無鉄砲が玉に傷。でもそこそこにいい女。少なくとも言い寄る男はいないわけはないとは思っていたが。
(マジでいた訳…ねぇ)
知らず渇いていた唇を思わず舐めて、一呼吸置く。彼女を見た。動揺しているのは変わらないが、なんというか。
(うっぜぇ…なぁ)
顔をしかめて思わず心の中で呻く動作をした。イチャイチャもよそでやってくれと言いたい。溜め息が出た。おじさん疲れるわ。
「おいバカ」
「黙れ変態」
ブチッ。
「ッ…この減らず口め…此処にいても何も変わんねーだろがっ! とっとと頭下げるなり謝るなりチューするなりしてこいカス!」
「ちっ…! 変態!」
とっさにルナは顔を真っ赤にしながら男に反論した。彼はちっと舌打ちしながら悪態を浴びせかえす。
「アドバイスだ事実だろーがっ! 悪いと思ったら謝るだろ!」
「キスはしないわよっ!」
赤くなって反論してくるルナにほとほと呆れ果てた。キスはした仲かさては。
「あーもーどっちでもいいわ!」
これ以上付き合っていられない、とばかりにレイは頭を抱え、そのままガシガシと掻いた。嗚呼オンナってやつは、これだから。
「ったく…」
ハーッと大げさにため息をついて、白衣のポケットからシガレットケースを取り出し、一本とって火をつける。口腔内に流れ込んでくる煙を一気に吸い込む。2、3度繰り返したところでようやく脳が落ち着きを取り戻してきた。これこれ。そうした所でデスクの携帯から耳をつんざくアラーム音が鳴り響いた。うおお落ち着いたの台無しじゃねえか畜生! 誰だよこんな時に!受信ボタンを押して耳に近づける。
「こちらレイ。…ああアンタか…」
そんな自問自答と悪戦苦闘する彼を、ルナは興味本位でずっと見つめていた。あ、電話通話モードにしやがった。よっぽど聴かれたくない事でもあるのかしらね。傍らのデスクにふと目をやると、沢山の霊石が綺麗にならべてあった。水晶・ラピスラズリ・オニキス・サファイヤ…レイの研究室にはこういうのが多い。能力者研究をしているせいか。彼は己の研究はいつもオカルトと紙一重だと言っている。
(能力者と、オカルトね。確かにそうかも)
そうでなければ、全く別物であったなら、化物扱いされる事もなかったかもしれない。
―化物。悪魔。
膝を抱え、ぎゅっと身体を丸めた。今思い出してもおぞましい。難事件の陰で活躍する私達だけれど、いつもそう非難され、罵倒される。能力者は神が許した悪魔の産物。だから警察機関が管理するべきだ、と。
(―ある意味でカインと似た存在なのかもしれない…)
そう思った所でハッとなって自嘲した。うぬぼれている。そう思ったら次は涙がこみ上げてきた。鼻の奥がツンとなる。視界が涙で滲んでいく。
(嗚呼…好きなんだ)
膝の間に顔を埋めて、少しだけ泣いた。想うだけで胸の中がじんわりと熱くなる。想うだけでこんなにも苦しい。
(…好きなんだ…)
今更何でそんな事が分かるんだろう。何で今更。
「おいバカ女寝るなよ」
突然に降ってきたおっさんのだみ声に意識があっという間に戻された。人が感傷に浸ってる時にっ…
「…寝てないわよおっさん」
「おっさんは余計だオカラ頭め。カスカスのまま聞けこのやろう仕事だいって来いそして現場行け帰ってくんなよ」
「……どこで息してるわけ?」
ブッ。
あ、血管見えてる。目の前に立ちそびえる男の額には軽く青い血管が2.3本浮き上がっていた。顔も…怒っている。自分の前で組んだ腕をそのままに、彼は低く呻いた。
「…Mr.オギが呼んでる。報告に来い、だとさ」
「? …月一はもう済んだけどなあ…なんだろ」
しぶしぶ思い腰を上げて、じゃあ行くわねとレイに声をかけた。おーおーさっさと行きやがれ、と何ともふてぶてしい声が返ってきたので、思わず苦笑した。彼らしいと言うか、何と言うか。出口のドアに手をかけた時にふと思い出して、ルナは室内にいる彼にレイ、と声をかけた。だみ声が、んぁ゛? と返ってくる。
「ありがと」
静かにしまった扉を見つめて、レイはほっと安堵したようにタバコを取り出しながら苦笑した。
「…やっと行ったかぁバカ。ホンと物壊されなくて助かったぜ…ひゃひゃ」
そして傍にあった霊石を一ついとおしそうに撫でた。