10.君と血の契約を
白い天井がまず視界に入った。見慣れた自分の部屋の天井。起き上がろうとすれば、その肩をぐい、と押されて再びベッドに倒される形となった。視線を上げれば、そこには紫焔の双眸が輝いてこちらを見下ろしていた。
「まだ寝ていろ」
「カイン…」
目線だけでグルリと部屋を一周すると、いつも引いてある遮光カーテンは開けられ外が暗くなっているのが分かった。すぐそこの繁華街のネオンの灯りが煌めいている。カインは夜の景色が好きだから、夜はこうして開けるのだと言っていたっけ。
「俺も寝ていたところだ。仕事場には電話してある。まる1日寝ていたな」
ベッドサイドに座るカインはYシャツにゆるパンのラフな格好だった。本人曰く、彼は棺桶でなくベッドに土を混ぜ込んだり部屋に置いたりして寝る超現代方式らしい。それにしても寝ていたのは本当らしいが、それでもそれの真偽は彼の表情からは受け取れなかった。彼は表情を造るのがうまい。
「ごめ……」
「俺は気にしない。オギは心配していたがな」
と言ってカインはあの無表情がだぞ? と声をあげて笑った。そういえば仮釈の条件の一つにカインは週一オギに報告をするんだった。
「もう平気か」
カインがこちらを覗き込んで、手をおでこに当てた。ひんやりとして気持ちいい。
「ええ…ありがとう」
「そうか。………何か喰うか?」
そう言ってカインがベッドサイドから立ち上がって、再び私を見下ろした。そういえば朝から何も食べていない。お腹がすいていた。
「と言っても、ルナの好物をまだ知らぬのでな。喉ごしのよさそうなものを買ってみた。「コンビニ」とやらで」
そう言ってカインが楽しそうに笑った。ああまたコンビニ行ったのか。っていうかそのお金はどこから。心の中の悪態はもれなく彼が応じてくれた。
「心配せずとも支給品だ。ルナのには手をつけておらん」
ああ、そう。助かるわ。マネーは大事だもの。そんなに貰ってないんだから。そこまで言いかけてストップをかけた。
「何があるの」一応聞いてみる。
「ゼリーにプリン、アイスも。キッチンにあったフルーツも剥いたが」
器用だ意外に。そう思ったら「意外とは何だ」とふてくされてしまった。ホント、読んで欲しくない時に限って読むんだから。ちょっと考えておずおずと今度は口に出した。
「じゃあ…ゼリー」
「承知した」
そう言ってカインは涼しげに笑ってキッチンへ向かっていった。キッチンに入ったその姿を見届けて思わず1つ、長いため息が零れる。
「………っ」
(どう……しよ)
鼓動が早くて、苦しい。
(なんで…私)
どうして。笑ってくれた、だけなのに。
(どうして…こんな…)
だめ。だめだったら。かぶりを振って、何度も自分に言い聞かせて。
ダメ。
もう一度言って、ゆっくりとベッドから身体を起こした。どうせ事件を見た後じゃ2.3日はろくに眠れない。そのままただ静かにネオンを眺めて、心臓が落ち着くのを待っていよう。無機物の思考は無いから読まなくていいし。
「待たせたか」
やがて両手でトレイを持ってカインが戻ってきたので、ルナは慌ててそれまでの自分の考えをシャットアウトした。彼はサイドテーブルにトレイを置き、乗せていた物を1つ掴んで自分の手の中にそれを置いた。
「りんごぜりー…」
「ダメだったか?」
「ううん。私の好きなの…どうして?」
カインはサイドテーブルに頬杖をついてこちらに笑いかけた。
「いつだったかルナの食事の時に、ちょっと読んだ。デザートに林檎ゼリーが食べたいと」
「聞かなかった事にしてあげる……」
かあああ、と頬が熱くなるのを感じながら、ゼリーのフタをペリペリ…とはがす。受け取ったプラスチックのスプーンに乗せて、口に運ぶ。
「おいしい………」
舌に程よい甘さが溶け、ゆるりと身体が弛緩していくのが分かった。久々の甘味に身体が喜んでいる気がする。それを見ていたカインが良かったと言って穏やかに笑った。
「やっと笑ったな」
そのまま喰え、と言われて、素直にそれに従うことにした。食べ進めながら笑顔が増えていく毎にカインが頬杖をつきながらいいな、と微笑んだ。
「ああ、いいな。ルナの笑う顔はすごくいい。やはり月は皆を見下ろして悠然と微笑んで貰わなければ」
「……ありがとう」
比喩的だけど、それがほめ言葉だと気がついて。かああ、と赤くなりながら、礼を言った。しばらくその作業を見守られてあっという間に大きめのゼリーを食べ終えてしまった。カインがそれを見てこちらに手を差し伸べた。
「食べたな。器とスプーンを寄越せ」
「ん……」
いつもより従順な私からそれらを取り上げたカインはトレイに置いて、自分に向き直る。
「いつもああなのか」
唐突に彼は真面目な表情で―否、唐突でも無かったのだ―聞いてきた。彼は聞きたがっていた。言葉少なげではあったけれど、一つ一つを選び出すようにして返した。
「いいえ。でもたまに結構キてしまう…今日みたいに」
「そうか……じゃあ先程の事を答え合わせだ。…何を読んだ」
ルナは眠ったままの記憶の引き出しを呼び覚まし、それをかき集めてゆっくりと答えて言った。強い思念は思い起こすとまたぐらぐらと頭を揺らしてくるが、もう倒れられない。
「……愛しさ。裏切り。絶望。そして…痛み。あの子は殺人犯の片割れだった…」
持っていた資料をめくりながら、カインがああ、と頷き返した。それをちら、と視界の隅に納め、ルナはさらに言葉を続けた。
「あの人を愛していた。あの人に生贄を、その為なら殺しましょう。…でも何かが気に触ったのでしょうね。その想い人は彼女をあそこに連れ込んで……キスの代わりに…」
「首を切った」カインが言えなかったその言葉を継いだ。
―何でなんでナンデあの人にあの人の為に殺した、あの人が傷つかないように動けなくしたのに何で―
思い出す感情が、狂気に孕んでいたのを忘れられない。
きゅっときつく目を閉じてみるも、変わらずに、思念が脳裏を渦巻き始める。やめて、もういいでしょう…感づかれないように別の話題を彼にふってみる。
「ヴァンパイア? …その相手」
「…現場の遺留品…バッグやアクセサリーなどから俺の読んだ中でもそれまでははっきりしなかった。未だもって気配が読めないのは相当策士なのかどうか。ともかく断定は出来ぬ…」
そう言って彼は悔しそうに右手の曲げた一指し指の関節を噛んだ。ぶち、と言う音がして微かな血臭が漂ってきて、ルナは思わず顔をしかめた。
「そう…」
「恐らく9人目まではあの少女が殴るなり何なりして気を失わせるか殺すかしていたのだ。それで犯人が後から血を頂戴したか捨てたか売ったか…目撃者が出ないのは今も不思議だが、6人目もこれで説明がつくな。10人目と同じ大学だった。目もあわせた事がないほど接点はなかったらしいが、黒い感情が募ったのだな」
こちらの顔色に気づいたのか彼は指の関節の2つの真っ赤な穴を唇で覆い、舌で舐め取った。傷が塞がり、血臭がやや薄れた。
「見事、自分が10人目にきちゃった訳だ。むごいなあ…」
やがてカインがベッドサイドから立ち上がりこちらを見下ろした。間接照明の灯りが彼の瞳に映ったせいで、まるでそれが違う生き物のように輝く。神秘的で、婀娜めいていて、それでもその奥の力に揺るぎがない。そんなパープル・アイの瞳に、自分自身がいるのが見えた。
そらしたい。
でも、そらせない。
心臓の鼓動が、収まらない。
視線が触れ合うだけで、こんな動揺してくるなんて……。慌ててそれを隠そうとした。
「その動揺が愛らしいのに残念だ」
自分を見下ろしながらカインはくくく、と声を上げて短く笑った。
「なっ…!」
別の羞恥で顔が赤くなる。もう、人を馬鹿にするにも程がある!
「バカにしてなどない。…ルナ、願い出たい事がある」
急に真面目になる瞳に、また別の意味で動揺した。この変化がひどく人間っぽくて、カインには相応しく無い様に思えた。彼は自分の手にその手を重ね、見つめて言った。
「俺の血を飲め」
「は…」
今一度、自分の耳を疑った。たしかこの目の前の麗人は、自分の血を飲めと言わなかったか? こちらの反応を見ながらカインはそのまま無言で頷いて肯定した。左手をベッドについて姿勢を下げ、同じ高さに目線を合わせてくる。そのカインの表情は哀切に満ちて、自分自身を引き込んだ。カインはためらいもなくその声で、その言葉で身体を貫く。
「そうだルナ。なあ、その感応能力は俺といた事で変化しているのではないか? だんだん操れなくなっているんだろう」
息が、一瞬止まる。
なんで。
表情と瞳に現われてしまい、カインにはそれが読めたらしい。やっぱり…とカインの手から感情が漏れ出した。痛いほどの感情、ナイフのような鋭さと、氷のような冷たさ。
「どうして…」
覗き込む、その瞳は真摯に訴えかけてくる。切ないくらい心臓が痛くて、真実を知られてしまったことが痛くて仕方がなかった。ばれるばれるとは思いながらも必死に隠していた。何でだろうか、何でそうしてしまったのだろうか、別に彼にはどうでもいい話なのに。ただ彼の前では強く在りたかった。弱いだけの人間ではいられなかった。その意味を今は十分過ぎるほど自覚していた。でも隠さなければ、という理性が勝った。人間だから。返答を求め、名を呼ぶカインの声が強く、刺さる。
「ルナ」
「……………そうよ。だんだん言う事効かないの。読めすぎるのよ。……苦しくなる事、まして気を失うなんて素人の時にやったくらい」
「……そうか」
悲痛な顔でため息を付いた後、カインはそのままルナを腕の中に引き入れた。そのまま力強く抱きしめられて、また心臓が跳ねる。心臓、どうにかなっちゃいそうだ。それくらいドキドキしていた。顔が赤いのを見られなくて良かった。
「どうして言わなかった…嘘を吐いた…」
カインが耳元で力強く、哀しげに囁く。彼自身が切り裂かれてしまいそうな声にビクッと身体が震えた。どうして、そんな事聞くの?どうしてそんな…哀しそうなの?
「それをなぜ、読ませなかった…?」
彼の声は壊れてしまいそうに脆く、引き裂かれたと言わんばかりの切なさが鼓膜を響かせた。その振動が心臓をより跳ね上がらせた。こんな風に哀しそうなカインを見たことがない。彼の胸の中で自分も切り裂かれそうな切なさを覚えてしまう。
「だって…貴方のせいだと思わなくて…」
思わずついて出た言葉だった。
―だって、これは私の力でしょう…?
カインはいったん身体を離してこちらを見つめた。顔を切なそうに歪め、紫煙の瞳は揺らいでいた。そのまま何か言いたげだったが何も言わず、声をつまらせながら更に抱きしめた。掠れた声で囁く。
「…俺はヴァンパイアだぞ。ルナは人間、月の影響を受けやすい女性だ。…力のあるものが近づけば、何も無いわけがない…」
そうして彼はぽつりとすまない、と言った。俺のせいだ。本当にすまなそうだった。彼の力が強いせいか、私は彼を読むことは殆ど出来なかった。彼の心で読めるのはほんの僅かでしかも瞬間で、その心の中にはられた1本の線が今は激しく振動しているのがよく分かった。
「…だから、俺の血を少しでも取り入れればコントロールすることができる。ルナ。そういう訳だ」
「でもっ…」
「ルナがヴァンパイアになる事はない。…頼む」
二の腕を掴んでカインが懇願する。瞳に捕らえられて顔をそむける事が出来ない。返答も待たずに唐突にカインはこちらから片方手を離し、その右手首を喰いちぎった。ルナがひっという声を上げて間もなく、あっという間に血があふれ出す。彼の胸の中でまじまじと見せられて衝撃に身がすくんだ。
「さあ」
カインが血で濡れた右手を差し出した。口元まで近づけられて、左手は腰に回って身体を固定されている。血から目をそらしたくて顔を上げれば、真剣な眼差しに今度は捕らえられてしまった。紫煙の焔を湛えた強い眼差しのその瞳に。
「俺から、奪え」
―観念するしかなかった。
おずおずと身体を近づけて彼の青白く長い指をそっと両手で支えるように持った。そのまま赤い泉に舌をつける。
―ぴちゃ…
カインがじっとこっちを見つめる中、舌を戻し、口に入れる。甘い毒が入ったのが分かった。ひどく甘い。彼の血は。
「もっとだ」
声と、目力で圧倒されて、再び舌を伸ばす。ぴちゃぴちゃと自分の舌が立てる音が鼓膜を焦がす。少しして一旦それをやめて上目遣いに彼を見る。傷口の地肌に舌が触れた途端、カインの顔が軽く歪んだ。
「ごめっ…」
舌を離したら彼は首を横にふってさらに手首を差し出す。真っ赤になりながら血を舐めることを続けさせられてしまった。カインの血がその腕を伝って雫がポタ、ポタ、と落ちてベッドシーツを汚した。彼の白いシャツも赤に染まっている。なんて扇情的な、妖しい光景だろう。ただ黙って、血を舐めて、視線はカインを時折見上げる。あの行為より官能的だなんて、と思ってしまう自分がいて、そう思ったらさらに恥ずかしくなった。しばらく続けながら、カインはこちらを見、婀娜めいてニマリと笑う。
「……いい眺めだ…」
「っ! …カインッ…!」
かあっとなって思わず舌を離していた。
ドッ!
次の瞬間カインの長い長身に押し倒されたのが分かった。一瞬のことだとすぐにはわからなかった。その瞬間、視界に赤が飛び散った事しか。ベッドの上、まるで身体を柵のようにガードされて、耳元にカインの唇が擦れる。
「っ…カイン…ちょ」
耳元に彼の吐息が触れるたびにぞくぞくする。倒された拍子に自分の顔や、カインのシャツまでも深紅に濡れていた。顔に飛び散ったその冷たさは触れているカインの腕のようで、嫌にはならない。その赤がそれでも美しくて、ルナはカインの首筋やシャツに散ったその血から目を離すことが出来なかった。
カインがゆっくりと顔を上げてこちらを見つめた。その瞳を見てドキッとした。赤だ。血のように紅い瞳。彼の欲情の証。その瞳はゆらゆらと揺らいで、泉のようだった。血の泉のような。
「ごめん、ルナ………」
ため息を零して、耳元でカインがあえぐように囁いた。
「頂戴」
まるで飢えた獣のように、彼は自分に襲い掛かった。
追いかけ、押し倒し、噛み付き、吸い、舐め尽くし、唸る。時に甘えるように鼻をすり寄せた。
獣と違うのは、そのたびに私を呼ぶところだった。
激しく、甘く、切なく。真摯に。必死に。いとおしんで。
ルナ、ルナ、ルナ………
そのたびに心臓が跳ねて、身体が震えて、心がきゅっとなって熱くなった。触れられた処が熱く燃えた。
触れる、その最大の行為に、カインの心はこう言った。
あの瞬間から、俺は堕ちていた―……
どうか。どうか。どうか。
共に、堕ちてくれー……