ストロベリータルト・ターニング
正月も終わり、新年初めの大学。
蓮子は授業明けの時間を一人優雅に過ごしていたのだが―?
prrrrrr―。
大学のカフェテラスで読書をしていると、少し遠くに喧騒が聞こえるものの静かな店内にモバイルの着信音が響いた。…音量を絞っておいてよかった。メリーからだろうか。そう思って開いた画面にあったのは「岡崎教授」の文字だった。普段はあまりかけてこないのだけど…。なにかあったのだろうか?疑問に思いつつ電話にでる。
「もしもし」
「もしもーし、宇佐見?悪いけどさ、ちょっと頼まれごとしてほしいんだけどー」
電話の向こうから聞こえてきたのえらく能天気な教授の声だった。講義でしか彼女に会わない人にとっては衝撃が走るであろう程のだらけた声で、とても申し訳なさそうには思えない。まぁ、口に出す様な真似はしないけど。
「えぇ、忙しいわけではありませんが。なにか急用でしょうか?」
「うん。今日が何日が知ってる?」
「1月5日ですね」
「つまりは?」
…つまり?正月明けですね。なんて答えを期待している訳ではあるまい。はたして何かあっただろうか。
「駄目じゃない、即答できないなんて」
「…すいません。話がいまいちつかめないんですが」
「東門の傍の『サブロソ』って店知ってる?」
サブロソ…スペイン語で「美味しい」っだったっけ。たぶん飲食店だろうけど…。東は文系棟が集中しててあまり行かないから分からないわね。
「東門は使わないもので。で、その店がどうしたんですか?」
「今日は苺の日だから『すぺしゃる苺タルト』が売ってるのよ。数量限定だから急いで買ってきて頂戴」
「…北白河助教授はなにを?」
教授の身の回りの雑務やらお使いはだいたい彼女がやっていたはずだけど、いないのだろうか?
「あー、ちゆり?今帰省しててこっちに居ないのよ。今日中に戻るはずなんだけど…。間に合いそうにないのよね。だから代わりに行って来て頂戴」
「さきに言っておきますけど、手に入る確証はありませんからね」
「可能性の話になったらそれこそあり得ない事なんてないわよ。それこそそのタルトが原因で向こうの世界に行くことになる可能性だって存在するんだから。絶対なんてないんだから確証なんてものは存在しないのよ。可能性はそれこそ無限なの。だから可能性空間移動船を実現させたわけだし――」
自分が詳しい分野の単語が出てきただけで語りだすのはこの人の欠点ねぇ。まぁ、その知識量や発想は尊敬に値するものではあるけど。私は教授の話を話し半分に聞きながら会計を済ませ、東門に向けて歩きだした。
*****
メンストを横切り、その脇のIDリーダーに生徒証をかざして学内限定で貸し出されている自転車を借りた。その間も教授の話は続いていた。…正直この話は暗唱できるほどに何度も聞かされた話だから通話を切りたいんだけど。流石に会話の途中で切る訳にもいかない。
仕方なく無線式のインカムに切り替えて会話が出来ることを確認すると、そのまま自転車を東へと走らせた。
「――と言う訳なのよ。分かった宇佐見?」
「えぇ、十二分に。流石は教授ですね」
嘘は言ってない。確かに彼女の話している内容は現代の日本を支えている基本理念を丸ごと覆す様なものだけど、矛盾を探すのは難しいのだ。ただ、問題があるとすれば仮定が多いことだろうか。もしこれが確証になればとんでもないことなのだけど。あ、でもこの確証が無い事を証明するんだっけ。この命題が唯一の矛盾ね。
「ってこんなに時間が経ってるじゃない!悠長に話を聞いてないで早くサブロソに―」
「つきましたよ、サブロソ。『特製!すぺしゃる苺タルト』でいいんですよね」
「そう!私は優秀な教え子に恵まれて幸せだわ!」
「あー、はい。買ったら届けますんで、失礼します」
私は半ば強引に話を区切り、通話を切った。流石に一応の区切りは付けてからだから失礼には当たらないでしょ。そして目の前にある小さな列の最後尾に続いた。「sabrso」と書かれた看板には大きな苺の絵が描かれていた。…サブロソの綴りは「sabroso」なんだけどなぁ。
*****
店内に入ると外からは分からなかったが多くの人でごった返していた。こんなに人気のケーキ店があったなんて。私の情報網もまだまだね。そんななかレジの横にあるポスターのある文字が目に入った。
「限定100個おひとり様二つまで」
…はたして買えるだろうか。先ほどから聞こえる注文の声は全て「すぺしゃる苺タルト二つ」である。販売開始は14時で、今は14時15分。だいたい今と同じペースで捌け続けていたとすると…。ギリギリ足りないのではないか?内心でメリーのお土産にもう一つ買っていこうと思っていただけに思わぬ焦りが胸に去来する。その時モバイルが着信を伝えた。どうやらメールの様だ。
「
from:メリー
件名:今どこにいるの?
本文:マックジャバーが休みだったから蓮子の部屋で珈琲でも、と思ったんだけど。
今どこに居る?なんだったらうちに来てくれてもいいし
」
むむむ、いつもの喫茶店はまだやっていないのか。メリーとお茶するならやっぱりお茶受けは必要よね。うんうん。ここで買ってから他の店に行くのは時間がもったいないし、見た限り今日はお目当てのタルト以外は売りきれているようだし…。
(こうなったらメリーの分だけでも…!)
そう心に決めた。と言っても出来ることはただひたすらに祈りつつ待つだけなんだけど。
*****
そして暫くして。確実に順番は迫ってきていた。そして同時に品切れもすぐそこである。あと三人。…また二つ、品物が減っていく。あと二人。見える範囲には品物が無くなった。あと一人。注文は…二つ。もう、駄目…。きっと残っていない。私はひどく落胆した。
「次の人どうぞー」
「へ?」
「…と言ってもひとつだけですけどね」
目の前の人が捌け、いきなり開けた視界にうつったのは一箱のケーキ箱と苦笑を浮かべる店員さんだった。素っ頓狂な声を上げてしまったが、これはもしや「最後の一つ」と言う奴ではないか。
「売り切れだと思いました?実は最初の方に一つしかお買い上げにならなかったお客さんがいたんですよ。運が良かったですね~」
「あ、ありがとうございます」
やった!手に入れた!念願の限定タルト!誰に対してのかは分からないけどお礼を言ってケーキを受け取る。ずっしりとした重みが伝わってきて、これが現実だと教えてくれる。私は喜びもそのままにメリーへメールを送っていた。
「
to:メリー
件名:無題
本文:今日は凄いものが手に入ったの!きっといままでの何よりも美味しいはずだわ!最高の珈琲も用意するから楽しみにしててね!
」
「送信っと。さて、急いで帰らないと」
「お、いたいた。おーい!宇佐見ー!」
自転車を東門のスタンドに帰して帰路に着こうとしていた私に聞き覚えがある声が掛かった。
「助教授…?」
「おう、みんなの北白河助教授だぜ。ご主人からケーキを受け取りに行くように言われてな。その様子だとしっかり手に入れたみたいだな」
…しまったー!教授の事をすっかり忘れていた…。どうしよう、さっきメリーにメールしちゃったし、かといって渡せませんなんて言えないし…。
「ん?それって例のタルトじゃないのか?」
「え、あぁそうです!」
「まぁ、それでもいいや。ほれこっちに」
「……」
あぁ、渡さなきゃいけないのは分かってるんだけど!渡したくない!
「じゃあ、宇佐見。こうしよう。比較物理の単位と交換でどうだ」
「いや、比較物理の単位は別に危なくないんですが」
「…言い方を変えよう。そいつを寄越さない限りは比較物理の単位はあげられないな」
「職権乱用じゃないですか!」
冗談じゃない。そんな理論で渡してなるものか。
「…渡さないと?」
「職権乱用する様な人には渡せません」
「…それじゃあ。今世紀の頭に突如として消えた守矢神社を知っているか?」
「…えぇ、まぁ」
「そいつの行方の手掛かりと交換でどうだ」
そう言うと助教授はニヤリと笑った。我慢よ我慢。耐えるのよ宇佐見蓮子!
「詳しく教えてください」
「話の分かる生徒じゃないか。いい生徒に恵まれて私は幸せだぜ」
はっ!条件反射的に差しだしてしまった!後悔するも既に遅し、タルトは助教授の手中にすっぽりと収まっている。もうどうしようもないのはどう見ても明らか。…仕方ない。情報だけでもいただいていきましょう。
「じゃあな、宇佐見!教授にはよろしく言っといてやるよ!」
「え?ちょっと!助教授!?」
とか考えている間に助教授は教え子の車でさっさと走り去ってしまった。あぁ、どうしようか。ケーキも持って行かれ、ケーキ代の所為で替えを買うだけの残金もない。メリーに何と言ったらいいのか。直後、着信音が鳴り響く。
「
from:メリー
件名:奇遇ね
本文:私もいいお茶受けが手に入ったのよ。お金が無くて一つしか買えなかったけど、サブロソの限定タルトよ。一緒に食べましょ?
」
end