婚約破棄? 相応の対価をいただきます
エドガーが書斎に呼んだのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
アンナは燭台の灯りの下で夫の顔を見た。整った顔立ちに、どこか決意めいたものが浮かんでいる。三年間、この顔を見てきた。喜ぶときも、困るときも、人に見せる表情と本音の表情の違いも、全部わかるようになっていた。
「アンナ、話がある」
エドガーは立ったまま言った。座るよう勧めることも忘れている。
「聞いています」
「クラリッサのことは、知っているだろう」
アンナは答えなかった。知っている、というより、気づいていた。社交界での視線の動き、帰宅時刻の変化、使用人たちの小さなざわめき。三年もあれば、見えなくていいものまで見えるようになる。
「彼女を、正式に迎えたいと思っている」
エドガーは続けた。言葉は丁寧だった。慰謝料の話、実家への配慮、「君には不自由させない」という約束。声に後ろめたさはあったが、迷いはなかった。
アンナはしばらく黙って夫を見ていた。
「わかりました」
「アンナ——」
「では、精算しましょう」
アンナは椅子から立ち上がり、書斎の棚から一冊の帳簿を取り出した。薄いが、中身は細かい。三年分の記録が、数字と文字でびっしりと埋まっている。
「婚約当時のハルトマン家の財務状況と、現在の財務状況の比較です。私が実家から持参したのは持参金だけではありませんでした。母から学んだ経営の知識と、三年間の時間です」
エドガーの顔が変わった。
「負債の整理、使用人の入れ替えと教育、仕入れ先との交渉、年次報告書の書き直し。すべて私が行いました。婚約時点で赤字寸前だったこと、覚えていらっしゃいますか」
「それは……確かに、助かったが」
「数字で見れば明らかです。この三年で侯爵家の純益は二倍を超えました。私が動かした時間と技術に相応する対価として、慰謝料の額を提示させていただきます」
アンナは帳簿の最後のページを開き、エドガーの前に置いた。
エドガーは黙った。反論のしようがなかった。数字は正直で、感情に忖度しない。
「明朝には出て行きます。書類はこちらで準備します」
「……わかった」
アンナは帳簿を閉じ、一礼して書斎を出た。
部屋に戻り、荷造りを始めながら、アンナは自分の目が乾いていることに気づいた。
泣くつもりはなかった。でも、馬車を手配して、トランクの蓋を閉めたとき、不意に込み上げるものがあった。
泣いた。声を出さずに、壁に向かって泣いた。
夫への未練ではなかった。三年かけて作り上げたものを、丸ごと手放す寂しさだった。整えた帳簿、育てた使用人たち、立て直した台所、積み上げた信頼。それが全部、他の誰かのものになる。
泣きながら、アンナは少し怖くなった。
自分は三年間、何を愛していたのだろう、と。
翌朝、馬車の中でアンナは窓の外を見ていた。
侯爵邸の門が遠ざかっていく。石造りの重たい門。あの門を「我が家」と思ったことが、一度でもあっただろうか。
わからなかった。
実家に着くと、母は玄関で待っていた。
知らせていなかったのに、なぜかそこにいた。
「顔色がいいわ」
マーガレット・ヴェルナーは娘の顔を見て言った。老いても背筋の伸びた、商家出身の女性だ。感傷より判断が先に来る人間で、アンナはその点を母から受け継いでいた。
「お父様は?」
「書斎。怒っているから、少し置いておきましょう」
「そうします」
母と娘は居間に入り、お茶を飲んだ。
「これからどうするつもり?」
「少し考えます。でも——何かしていないと、落ち着かない気がします」
マーガレットは少し間を置いてから、思い出したように言った。
「そういえば、昔ちょっと一緒に仕事をした商人の息子が、去年商会を立ち上げたのよ。先月会ったら、人手が足りないって言っていたわ」
アンナは顔を上げた。
「商会、ですか」
「帳簿が雑で困ってるって。誰かちゃんとした人を紹介してくれないかって言うから、あなたのことを思い出して」
「私は貴族の妻でした。商会の人間が、嫌がりませんか」
「その子は出自を気にするような人間じゃないわ。それに——」
マーガレットはお茶を一口飲んで、少し笑った。
「数字が読める人間を、肩書きで断る経営者はいないでしょう」
数日後、社交界ではすでに噂が広まっていた。
ハルトマン侯爵夫人が離縁されたこと。クラリッサ・フォン・ベルクが次期侯爵夫人として動き出していること。
知り合いからの手紙が二通届いた。一通は同情、一通は好奇心。アンナはどちらにも短く返事を書き、窓の外を見た。
雨が降り始めていた。
「クラリッサさん、が」
声に出してみた。特に感情は湧かなかった。ただ、あの帳簿を誰が引き継ぐのだろう、と思った。引き継がなければ、また崩れていく。三年かけて積み上げたものが。
アンナは窓から目を離した。
自分のことを考えよう、と思った。初めて、そう思った。
ゾンネ商会は、街の東側にある中くらいの建物だった。
看板は新しいが、入口の石畳が少し欠けている。アンナは欠けた石を見ながら、修繕の費用はどのくらいだろうと考えた。
「ヴェルナーさんですか」
声をかけてきたのは、二十代後半の男性だった。背が高く、服は質素だが清潔だ。目が細く、少し眠そうに見えるが、見ている方向は正確だとアンナは思った。
「マルク・ゾンネです。マーガレットさんには世話になっています」
「アンナ・ヴェルナーです。元ハルトマン侯爵夫人ですが、今はただの子爵家の娘です」
マルクは特に表情を変えなかった。
「どちらでも構いません。帳簿を見てもらえますか」
事務所に入ると、机の上に帳簿が三冊積んであった。アンナは一冊を手に取り、開いた。
五分ほどで一冊を見終えた。
「記録はされています。ただ、勘定科目の分類が不統一で、月ごとの比較ができない状態です。仕入れと人件費が同じ欄に入っていることもあります」
「直せますか」
「一週間あれば、過去二年分を整理できます。以降の管理方法も設計します」
マルクはしばらくアンナを見た。品定めではなく、確認するような目だった。
「やってもらえますか」
「条件を聞かせてください」
交渉は短く終わった。マルクの提示は明快で、上乗せの余地があることも含めて正直だった。アンナは一点だけ修正を求め、マルクはすぐに了承した。
「では、明日から来ます」
「助かります」
アンナは立ち上がり、もう一度事務所を見回した。雑然としているが、活気がある。棚の並びに商会主の性格が出ている。整理は苦手だが、優先順位はわかっている人間の部屋だ、とアンナは思った。
「一つ聞いていいですか」
帰り際、アンナは振り返った。
「どうぞ」
「元侯爵夫人が来ると聞いて、迷いませんでしたか」
マルクは少し考えてから言った。
「マーガレットさんが勧めた人間を、肩書きで断る理由がありません」
母と同じ言葉だった。アンナは少しだけ笑った。
翌朝から、アンナは商会に通い始めた。
帳簿の整理は、三日で大枠が終わった。マルクは経過を見に来るたびに、余分なことを言わなかった。進捗を確認し、「ありがとう」と言い、戻っていく。
四日目の昼、マルクが声をかけてきた。
「昼を食べに行きませんか。近くに安くていい食堂があります」
食堂は、貴族の令嬢が入るような場所ではなかった。木の椅子と丸テーブル、メニューは黒板に手書き、周りは商人や職人ばかりだ。
アンナは席に着き、周りを見回した。
「侯爵夫人だった頃は、来られなかった場所ですね」
「嫌ですか」
「いいえ」
アンナは正直に答えた。
「むしろ、こういう場所の方が好きかもしれません。数字がはっきりしているから」
マルクが少し目を細めた。笑ったのかもしれなかった。
スープが運ばれてきた。塩気が強いが、温かかった。
「ヴェルナーさんは、なぜ経営を学んだんですか」
「母に教わりました。役に立つ女になりなさい、と言われて育ちました」
「役に立った結果、離縁された」
「そうですね」
アンナは少し間を置いた。
「でも、役に立つことは今でも好きです。ただ——誰のために役に立つか、は選びたいと思っています」
マルクはスープを飲みながら、それを聞いていた。頷きもせず、否定もせず、ただ聞いていた。
アンナにとって、それは珍しいことだった。
五日目に帳簿の整理が終わった。
アンナは新しい管理方法の説明書を一枚作り、マルクに渡した。マルクは読み終えて、一言言った。
「これを作れる人間がうちにいなかった」
「今後のことですが」
アンナは続けた。
「月次で集計をするだけで、仕入れのタイミングと量の判断が変わります。今の仕入れは、勘に頼っている部分が大きい。数字を基準にすれば、利益率は今より三割は上がります」
「続けてもらえますか。今の条件に、二割上乗せします」
アンナは少し笑った。
「交渉が早いですね」
「迷う理由がない」
マルクは言った。まっすぐな言い方だった。
「わかりました」
商会に通い始めて三ヶ月が経った頃、エドガーが現れた。
午後の早い時間に、馬車でやってきた。以前より少し顔が疲れている、とアンナは思った。
「少し話せるか」
「応接室でどうぞ」
二人で向かい合って座った。マルクは席を外した。
エドガーはしばらく黙っていた。それからゆっくり言った。
「戻ってきてほしい。離縁を取り消すということではない。顧問として、侯爵家の財務を見てほしいんだ」
アンナは答えなかった。
「クラリッサが……その、家のことが得意ではなくて」
「そうですか」
「頼める人間がいない。君しかいないんだ」
アンナは少し間を置いた。
窓の外に、商会の石畳が見えた。欠けた石は先週修繕した。入口がきれいになったと、取引先の一人が言っていた。
「お断りします」
エドガーが顔を上げた。
「ただ、一つだけ助言を差し上げます。無料で」
アンナは話し始めた。簡潔に、具体的に。何が問題で、何から手をつけるべきか。それだけを言い、立ち上がった。
「以降は、専門の顧問を雇われることをお勧めします。費用は今の財務状況なら出せるはずです」
エドガーはまだ何か言いたそうだったが、アンナはすでに礼をして扉を開けていた。
マルクが廊下で待っていた。
「よかったのか」
アンナは少し考えた。
「私、あの家が好きだったんじゃなくて——役に立ってる自分が好きだったんだと思います」
マルクは何も言わなかった。ただ、頷いた。
責めなかった。慰めなかった。ただ聞いて、頷いた。
それだけでよかった、とアンナは思った。
秋になって、商会が大きな取引を成立させた。
街の北側にある織物問屋との長期契約で、商会の規模が一段上がることになる。マルクが数ヶ月かけて交渉を重ねてきたものだった。
祝いに、マルクが食事に誘った。いつもの食堂ではなく、少し良い店だった。
食事が終わり、マルクが言った。
「正式に、商会の共同経営者にならないか」
「報酬は」
「今より四割上乗せ。利益の一割を分配する。詳細は書面で出す」
アンナは書面の内容を頭の中で計算し、それから少し笑った。
「マルクさんって、大事なことを全部仕事の話にしますね」
マルクが初めて言葉に詰まった。
アンナはそれを見て、もう少し笑った。久しぶりに、おかしくて笑った。
「条件は、検討します」
「……ああ」
二人で店を出た。夜の空気は冷たく、石畳が湿っていた。川沿いの道を歩いていると、橋のところでマルクが立ち止まった。
街の灯りが水面に映っている。
「もう少し、ここにいてもいいか」
アンナは少し考えた。急ぐ用事もない。寒くもない。
「いいですよ」
二人で並んで、川を見た。
告白ではなかった。約束でもなかった。でも確かに、何かが決まった夜だった。
アンナは水面を見ながら、胸のどこかが静かに温かいことに気づいた。役に立っているからではなく、ただここにいるから、温かい。
そういうことが、あるのだと知った。
一年後、アンナは母に手紙を書いた。
ゾンネ商会は順調だということ。秋から新しい取引先が三軒増えたこと。入口の石畳を全部張り替えたこと。
ハルトマン侯爵家は、なんとか持ち直したと風の噂で聞いた。社交界での存在感は薄れたらしい。クラリッサが「こんなはずじゃなかった」という顔をよくしているとも、社交界通の知人からの手紙に書いてあった。
アンナはその手紙を読んで、少し間を置いてから、折り畳んで棚に入れた。
特別な感情はなかった。ただ、遠い話だと思った。
手紙の最後に、アンナは書いた。
マルクと、婚約した。仕事の話をしているうちに決まった。たぶん、これからも仕事の話をしながら生きていくのだと思う。
でも、と書いた。
役に立つから、じゃないんです。ただ、側にいたいと思ったから。
母からの返事は短かった。
それが本物よ。
アンナは手紙を畳み、窓の外を見た。商会の看板が、秋の光の中でよく見えた。




