剣術を教わろうとして
スノーエルを聖なる力で癒やしてから、己を見つめる使用人の視線が変化したように思えてならない。
今までは誰もが視界に入れぬように気をつけていたのに、最近は羨望の眼差しを向けられているような気がするのだ。
(これは一体、どういった心境の変化なのかしら……?)
モヤモヤとした思いをいだきながら日々を過ごしていると、珍しく陛下が執務室から姿を消していた。
(今までが、異常だったのよね……)
彼はこの国を統べる皇帝だ。
当然、外回りなどの仕事もある。
魔獣が人を襲えば帝国民を助けるために剣を振るわなくてはならないし、執務室に座って事務作業をし続けているほうがおかしいのだ。
(陛下のお姿が見られないのは、淋しいわね……)
ラシリネはなんとも言えない気持ちでいっぱいになりながら、神獣を抱きしめて仮眠室のベッドに横たわり続ける。
(自由に動き回ってもいいとは、言われているけれど……。想い人と楽しそうに会話をする姿に居合わせたら、きっと泣いてしまうもの……)
ここで彼が返ってくるのをじっと待っているのが一番だ。
そう結論づけたあと、だらだらと自堕落な生活を満喫しようと気持ちを切り替えた時だった。
「わふーん!」
スノーエルが元気いっぱいの鳴き声を上げ、勢いよく寝台からぴょんっと飛び降りて走り出してしまった。
「どこに行くの!?」
おそらくこれも、この帝国で立派な聖女となるための試練なのだろう。
「わふ!」
神獣は「こっちだよ」と誘うように尻尾を左右に振ると、部屋を出て行った。
「もう……っ!」
魔物と勘違いされ、討伐されては叶わない。
ラシリネは渋々獣のあとを追いかけ、仮眠室を出て行った。
*
「わふーん!」
スノーエルは鍛錬場で剣の稽古に勤しんでいた前皇帝を見つけると、勢いよく飛びついた。
「おや……?」
「申し訳ございません……!」
一体どこからやってきたのかと不思議そうに小首を傾げる男性と目を合わせ、ラシリネは真っ青になりながら平謝りを繰り返す。
(いくら神様の化身だとしても、やっていいことと悪いことがあるわ……!)
これがもしも自国の国王であれば、「この痴れ者が! 今すぐ斬り捨てよ!」と怒鳴りつけられていただろう。
(陛下のお父様が、お優しい方だとわかってはいるつもりだけれど……)
皇太后や陛下のいない所で言葉を交わすなんて、あまりにも恐れ多い。
態度を豹変させる可能性もゼロではないと、全身を小刻みに震わせて怯えるしかなかった。
「今日は妻がおらんからな。警戒するなと言われても、無理があるやもしれんが……」
「スノーエル! 早く、離れなさい!」
「わふ?」
ラシリネは慌てて神獣に男性から離れるように強い口調で命じたが、スノーエルにはことの重要さがうまく伝わっていないようだ。
『なんでそんなに怒ってんだよ?』
そんなふうに不思議そうな表情をするあたりが、彼らしい。
「好きにさせてやりなさい」
「しかし……!」
「ちょうどいい所に来てくれた。せっかくだから、ここで身体を動かすのはどうだろう?」
前皇帝から鍛錬場を指差しされつつ提案され、面食らう。
だが、それも数秒間だけだ。
すぐに彼の意図を理解し、金色の瞳を輝かせた。
「よろしいのですか!?」
「もちろん。約束したからな」
「ぜひ!」
ラシリネは手早く髪を紐で纏め上げ、ドレスの裾をくるくると膝のあたりまで巻き上げた。
(はしたないかもしれないけれど……。着替える時間が惜しいもの。これくらい、許してくださるわよね?)
聖女は恐る恐る、前皇帝に視線を移す。
想い人にそっくりな男性はこちらの行動に目を見張っていたが、苦言を呈してくることはなかった。
「ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!」
「承った。では、始めるとしよう」
「はい!」
「わふ!」
スノーエルはようやく「自分の役目は終わった」と悟ったようで、男性と触れ合うのを止める。
(もう……。あの子には、困ったものね……)
ラシリネは自由奔放な神獣の姿に呆れつつ、差し出された模擬刀を手にした。
「お、重い、です……!」
だが、それを振り回すには握力が足りなかったようだ。
両手で柄を手にした直後、ドシンと刃の部分を地につける羽目となった。
その結果を目にした前皇帝は、こちらを批難するようにポツリと呟く。
「子ども用の模擬刀ですら、これか……」
さすがにこの状況では、剣の振るい方を教えるどころの話ではないと悟ったのだろう。
男性はラシリネの手から再び武器を預かると、呆れたように声を発した。
「うむ。まずは、体力づくりから始めるべきだったようだ」
「う、運動は……。苦手で……。こんな私でも、剣を振えるようになるでしょうか……?」
「それは、ラシリネ嬢の努力次第だろうな……」
何から始めるべきかすらもよくわからなかった自分にとって、基礎体力作りを勧めてくれた前皇帝のアドバイスはとてもありがたい。
(スノーエルと追いかけっこを繰り返しているだけでも、いい運動になるはずですもの!)
ラシリネはやる気満々な様子を見せ、口元を綻ばせた。
「頑張ります!」
その様子を目にした前皇帝はしっかりと頷いたあと、言いづらそうに話しかけてくる。
「ラシリネ嬢に、聞きたいのだが……」
「なんでしょう?」
「息子は、恋愛対象なのだろうか?」
「はい……?」
ラシリネは「どういう意味でしょうか」と問いかける意図を込めて小首を傾げたつもりだったが、彼は言葉どおりに受け取ったようだ。
満面の笑みを浮かべて、嬉しそうに語り出す。
「おお、それは僥倖だ! 我々はダリウスの幸せを願っているが、どうにも君の反応が薄いように思えてな……。その気がなければ、ありがた迷惑でしかないだろう?」
目上の人が誤解をしていると気づいた場合、どうすれば機嫌を損ねずに正せるのだろうか?
あまり人と話した経験のない自分には、よくわからない。
しかし、このまま己がダリウスに好意を持っていると人伝に本人へ漏れ伝わってしまうのは避けたかった。
(陛下はきっと気に病んで、私と距離を置こうとするはずですもの……)
ラシリネは、皇帝と思いを通じ合わせられなくても構わないのだ。
ただ遠くから、陛下の姿を観察できればそれでいい。
だからこそ――。
(ここは正直に、お話をするべきだわ!)
金色の瞳に確かな決意を宿すと、誤解を正すために奮闘した。
「い、いえ! 陛下のことは、お慕いしておりますが……っ!」
「そうか。なら……」
「ダリウス様には想い人がいらっしゃいますから! 私が彼の一投足に喜びを露わにすれば、迷惑がかかりますので……!」
「ふむ?」
大声で現状を説明すれば、前皇帝も不思議そうに小首を傾げる。
これは明らかに、内容を理解できていない反応だ。
(もっと言葉を尽くして、お伝えしなければ……!)
ラシリネは切なげに金色の瞳を細めると、震える声で言葉を紡ぎ出した。
「こうして陛下のおそばにいられるだけで、充分なのです……」
己が想いを寄せる異性は、あとにも先にも彼だけだ。
陛下が好きな人と結ばれた暁には、大好きな人が統べるこの帝国を、聖女として守り続けるのも悪くはないと思い始めている。
「ダリウス様が想いを寄せる方と結ばれ、幸せに暮らす。その姿を聖女として見守るのが、私の幸福ですので……」
そんな状態で自分達を強引にくっつけようとする彼らの姿を見て、後々大きなトラブルに発展するのではとラシリネが危惧するのは無理もなかった。
「息子の想い人が、どこかにいると思っているのか?」
「今も、そのお方と蜜月を交わし合っているのですよね……?」
だが、そんなこちらの考えを聞いたあとから、どうにも前皇帝の反応がおかしい。
彼は頭上に大量の疑問符を浮かべながら、理解できないと困惑している。
己も負けじと問いかけるが、どうも話が噛み合っていない。
(お互いに誤解をし続けるのも、よくないわよね……)
困惑の色を隠せぬ前皇帝の表情から察するに、彼も同じことを考えていたのだろう。
長い熟考の末、か細い声で気まずそうに真実が紡がれる。
「いや。ダリウスは……」
「ラシリネ!」
聞き漏らさないように全神経を集中させていた己にとって、皇帝が自らの名を叫ぶ怒声には全身を震え上がらせる程に驚いてしまった。
「ひゃ、ひゃい!」
「わふ……」
ラシリネが素っ頓狂な返答をする中、珍しく足元で大人しくしていたスノーエルが「やっと来たか」と呆れたように鳴き声を響かせる。
ずんずんと大股開きでこちらにやってくる皇帝の姿は、今まで目にしたことがないほどに険しい。
(お、怒っていらっしゃるわ……!)
今すぐに神獣を連れて逃げ出したいが、いつもは元気いっぱいに走り回っている獣が「諦めろ」と言わんばかりに目を閉じたあたり、どうしようもない。
(私ができるのは、彼に誠心誠意謝罪をすることだけ……!)
己を正当化して「自分は悪くない」と言わんばかりの態度を取ったところで、ますます彼の機嫌が急降下するだけだ。
(先手必勝よ!)
ラシリネはダリウスが激昂している理由を知らぬまま、勢いよく頭を下げるために俯いたのだが――。
「も……」
「無事で、よかった……」
こちらが謝罪の言葉を口にする前に、小さな身体は逞しい腕にすっぽりと抱きしめられてしまった。




