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気晴らし

「わふん!」


 スノーエルと名づけられた犬は好奇心旺盛で、神によく似て元気いっぱいだ。

 大人しくしているのが苦手なタイプらしく、暇さえあれば室内で走り回っている。


(気が散らないのかしら……?)


 すっかり定位置と化した丸椅子に座っていたラシリネはさり気なく、陛下の光景を確認する。


(今のところ、普段通りだけれど……)


 いつか注意をされるのではないかと、気が気ではなかったからだ。


(怒られる前に、隣の部屋へ移動したほうがいいんじゃ……?)


 椅子から腰を上げ、獣に「大人しくしなさい」と命じようとした時だった。


「わふーん!」


 室内を元気いっぱいに走り回っていたはずのスノーエルが方向を変え、こちらに向かって駆け出したのは。


「スノーエル!?」

「わふ!」


 獣は己の名が呼ばれたのが嬉しくて仕方ないようで、勢いよくタックルを仕掛けてきた。


「きゃ……っ」


 ラシリネは大型犬を支えきれず、ふらりと椅子に座るダリウスのほうへバランスを崩してしまう。


(このまま陛下とぶつかったら、お仕事の邪魔をしてしまうわ……!)


 どうにか踏ん張り、彼に迷惑をかけないように真横へ倒れ込もうと方向転換を試みる。

 しかし――。

 こちらの小さな悲鳴を聞いた陛下が、それを許すはずがない。


「ラシリネ」


 小さな身体を床へ叩きつけて怪我をしないように、ダリウスは当然のように腰元へ腕を回し、己の膝上へ座らせてくれた。


「も、申し訳ありません……!」

「気にするな」

「で、ですが……っ。私、お仕事の邪魔を……!」

「こうして君と密着しているほうが、捗る」


 すぐに腰を浮かせようと試みたが、許してもらえなかった。

 彼は腰元に回す腕の力を強めると、再び書類と向き合い始める。


(確かに、書類を掴んで離すスピードが格段に早くなっている気がするわ……)


 ラシリネはダリウスの言葉に嘘がないと知り、感心した様子で陛下の姿をぼんやりと眺める。


「わふ!」


 自分の存在が忘れ去られていると認識したスノーエルは、「私のおかげだよな?」と褒めてほしそうに鳴き声を響かせた。


「なんの前触れもなく突進してくるのは、心臓に悪いです。今後は、止めてくださいね?」

「くぅん……」


 ラシリネが獣に向けて困ったように嗜める。

 神獣は思っていた反応を引き出せなかったことに強いショックを受けているらしく、悲しい鳴き声を響かせていたのが印象的だった。


「スノーエルと暮らし初めてから、君はよく笑うようになったな」

「そうでしょうか……?」

「ああ。とてもいい傾向だ」


 自分では気づかぬうちに、笑顔が増えていたらしい。

 陛下から思わぬ指摘を受けて面食らっていると、再び獣が「やっぱり私のおかげだろ?」と期待を込めた視線をこちらへ向けてきた。


「陛下に喜んでいただけたのなら、よかったです」

「わふ!」


 ラシリネは渋々獣の頑張りを褒める気になり、優しく胴体を撫でつけた。

 嬉しそうな鳴き声を上げるあたり、ようやく満足してくれたらしい。

 スノーエルは、足元でおとなしくなった。


(やっと、陛下と落ち着いて話ができそうね……)


 こちらがほっとしたのも束の間。

 すぐさま書類から顔を上げた陛下から、疑問が飛んできた。


「俺が機嫌をよくしていなければ、褒められた気がしないのか?」

「ダリウス様が嬉しそうにしている姿を見るのが、私の幸福ですから……」


 最優先するべきは、己の意思ではなく王族の命令だ。

 ラシリネはずっと、そうやって生きてきた。

 だからきっと、癖になってしまっているのだ。


 言うことを聞いていたほうが、楽だから。

 自分で決めて、責任を取りたくないから。


 今でもこうして、何か不幸な事態が起きた時に己の心を守る保険をかけている。


(私は醜く、卑しい人間だ……)


 スノーエルを撫でつける指先が、小刻みに震え始めた。

 態度に出さなければ、内に秘めているだけなら、彼に心配をかけなくて済むと理解しているはずなのに――。

 うまく表情をコントロールできずに浮かない顔をしたせいで、陛下に迷惑をかけてしまった。


「俺はこの帝国を治める皇帝だ。君からしてみれば雲の上のような存在かもしれん」


 こちらが自己嫌悪に陥っていると、知ってか知らずか。

 彼は諭すような口調で、静かに声を発した。


「だが……。つらいことや苦しいことがあるのなら、打ち明けてほしい」


 ラシリネが泣こうが喚こうが、陛下には関係ないはずなのに――。

 こうして優しい言葉をかけてくれるのは、彼の人柄がいいからなのだろう。


「君はもう、孤独に祈りを捧げ続けることを運命づけられた聖女では、ないのだから……」


 仕事を中断してまで、寄り添ってくれたのだ。

 この場で「その気持ちはありがた迷惑です」などと言えるはずもなく、素直に己の身にいだく気持ちを打ち明けると決めた。


「他人の顔色を窺う癖が、抜けないのです」

「長年、神に祈りを捧げて来たからか」

「そうかも、しれません。最優先するべきは、国民の命。私は、たとえ手足がもがれようとも、結界を持続するために尽力するべきでした。なのに……」


 自分は己の身ばかりを案じ、民を守る役目を放棄し続けた。

 そのせいで人々は傷つき、信仰心を失った。

 ハズレ聖女と呼ばれるのは、必然だったのだ。


(私は悲劇のヒロインなんかではない。加害者なんだ……)


 ラシリネは、ずっと心の内に秘めていた最低で最悪としか言いようのない醜き感情を吐露し始めた。


「私が努力を怠ったせいで、たくさんの人々を傷つけてしまいました……!」

「それは違う」

「もう二度と、あのような過ちは犯したくないのです。あなたにだけは、嫌われたくありません……!」


 金色の瞳には、涙が滲む。

 ここで泣いて同情を引くなんて、あまりにも卑怯だ。

 ラシリネは唇を噛み締めてぐっと堪える。

 しかし、どんなに自分では努力をしているつもりでも、憂鬱な気持ちはすぐに晴れてはくれなかった。


(本当に、最低だわ……。陛下には、関係ない話なのに……)


 こんなふうに彼の同情を引いたら、もしかしたらまだ見ぬ想い人よりも自分を好きになってくれるのではないか。

 少しでもそんなふうに思う己の気持ちが信じられなくて、ますます自己嫌悪に陥ってしまう。


「ラシリネ……」


 こうした姿を目にして、彼も心を痛めたのだろう。

 切なげに紫色の瞳を細め、腰に回す腕を己の胸元へ引き寄せた。


「無理をしている君の姿を見るほうが、よほどつらい」

「そんな……!」

「俺のためを思って本気で言っているのなら、止めてくれ」


 陛下にも「改善しろ」と言われてしまえば、どうにか折り合いをつけて前向きな気持ちを取り戻すしかない。


(落ち着いて……)


 何度も己に言い聞かせて深呼吸を繰り返せば、だんだんと気分が凪いでいく。

 ラシリネは目元に溜まった涙を小さな指先で拭ったあと、か細い声で疑問を口にした。


「陛下の言うことを聞かなくて、いいのですか……?」

「君のしたいように、すればいい」

「私が剣術を習得したいと申し出た時、嫌がっていらっしゃいましたよね……?」

「あれは……。俺が君を守ればいいだけの話で……」


 ダリウスはなぜか、ボソボソと低い声で何かを言っている。

 そのせいで、途中までしか聞き取れなかった。


(陛下は、何を仰りたかったのかしら……?)


 ラシリネが意図を読み取れずに小首を傾げていると、その様子を見守っていたスノーエルが呆れたように鳴き声を響かせる。


「わふん……」


 神をその身に宿していれば、「駄目だこりゃ」という呆れたような声が聞こえてきそうだ。


「部屋に籠もりきりなのが、余計に母国での嫌な出来事を想起させる原因となっているのかもしれんな……」


 今度はしっかりと聞き取れた内容を耳にして、ラシリネは勢いよく左右に首を振った。

 外に出るほうが、自分にとっては苦痛だと感じていたからだ。


「そ、そんなことは……」

「気晴らしに、庭園の様子でも見に行くか」

「わふ!」


 あまり気乗りしない自分とは裏腹に、スノーエルが元気よく返事をする。

 すっかり外出モードになった神獣は、「早く行こう」とラシリネを急かした。


「ま、待ってください! 引っ張らないで!」

「わふーん!」

「元気が有り余る神獣には、困ったものだな……」


 陛下は書類をテーブルにおいたあと、苦笑いを浮かべながら腰元へ抱き寄せていた腕を離す。

 ようやく地に足をつけたラシリネはスノーエルに先導されるがまま、ダリウスとともに外へと繰り出した。

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